第36話-人間が、いっぱい飾ったあたしの宇宙
惑星監理局の朝は、いつも通りに始まった。
食堂では、レトが朝食のトレイを受け取りながら、配膳口の奥を真剣に覗き込んでいた。
「職員さん、今日はプリンないの?」
「朝食にはありません。昼食に出ます」
「お昼にはある?」
「あります」
レトはすぐに笑顔を取り戻し、トレイを胸の前へ抱えた。
「じゃあ、お昼までがんばれる!」
隣にいたロジーが、頭上のデバイスへ朝食記録を入力する。
「レト、朝プリンの不在を確認。一時的に士気低下。昼プリンの存在によって即時回復!」
「それ、記録しなくてもいいと思う」
「よくないよ。こういう普通の日の記録が、あとで一番かわいいんだから」
「わたし、毎日かわいいよ?」
「知ってる。だから毎日分、必要なの」
レトは納得したような、していないような顔で席へ向かった。
二人の向かいでは、エルがテーブルの中央に置かれた花を見ていた。
薄い青の花と、白い小花を束ねた、手のひらほどの花飾りだった。朝の食堂が少し明るく見えるように、食堂班の職員が置いたものである。
エルは花びらの先へ指を触れた。
「これ、かわいい」
「食べるものじゃないよ」
椅子へ座りながら、レトが注意する。
「あたし、食べようとしてない」
「前に、飾りの砂糖を食べたから」
「あれは甘かった」
「花はたぶん甘くないよ」
「試さないでくださいね」と食堂班の職員が念を押すと、エルは素直に手を引いた。
「これがあると、人間、うれしい?」
「うれしい人は多いと思います。私は好きですよ」
「そっか」
エルの視線が、花の向こうへ逸れた。
黄金色の瞳は、食堂の壁も、その先にある監理局も見ていない。ここではない何処かを見つめている。
指先に、淡い光がにじんだ。
レトがスプーンを持ったまま首を傾げる。
「エル?」
「外から、何か入った」
ロジーの指が止まった。
「外って、監理局の外?」
「もっと外」
エルの視線は遠いままだった。
「硝子の壁の外から、この宇宙に入った。あたしには、まだ大きくない。でも、人間に同じか分からない」
エルは、食堂班の職員を見る。
「調べたほうがいい?」
職員は問い返さなかった。腰の端末を開き、監理班への緊急回線を繋ぐ。
「食堂より監理班。エルさんが硝子壁外からの侵入を認識。現時点で人的影響は不明。内部観測網の即時確認を要請します」
返答まで、二秒もかからなかった。
『受理。食堂はその場で待機してください。エルさんには、対象への干渉を行わないよう伝達を』
職員がエルを見る。
「エルさん。こちらで確認します。今は何もしないでください」
エルの指が、花弁の手前で小さく震えた。
「うん。しない」
エルは両手を膝の上で重ねた。
指先の光は薄れたが、消えなかった。
直後、食堂の照明が暗くなった。
停電ではない。光源は正常に点灯しているのに、そこから放たれた光だけが、一瞬、食堂へ届かなくなった。
惑星監理局全域に、最大警戒の警報が流れた。
◇
内部広域観測網が異常を捉えた時点で、侵入はすでに完了していた。
硝子玉の宇宙の外縁部に破損はない。壁面に亀裂も、穿孔も、通過反応も残されていなかった。
にもかかわらず、無人宙域の中央に、未確認構造体が存在していた。
光学観測では、巨大な輪に見えた。
魔力観測では、数え切れない眼球が互いを見つめていた。
空間測定では、星々の間へ差し込まれた指のような形を示し、記録端末には判読不能な文字の集積として表示された。
輪の直径は数メートルと算出された直後、複数の恒星系を囲む値へ変わった。眼球の一つを拡大すると、その内部に観測中の監理局が映っていた。座標を確定しようとすれば、測定機器自身が未確認構造体の内側にあるという結果が返された。
監視室の責任者が、すべての観測結果を並列保存するよう命じた。
「統合するな。こちらの解釈で形を決めれば、その時点で情報を失う」
情報班が記録層を切り分け、技術班が観測機器同士の接続を遮断する。魔術制御部は対象周辺を複数の測定領域へ分割し、精神保護室は観測担当者へ認識固定術式を展開した。
上位委員会への緊急通達も、同時に送られていた。
返ってきたのは会議招集ではない。
対象宙域を通過する全航路の閉鎖。周辺惑星への警戒通知。民間観測の強制停止。外部へ繋がる転移経路、召喚経路、精神接続、記録参照の一斉遮断。
指示が届くより早く、宇宙各地へ配置されていた封鎖設備は動き始めていた。
物質の移動を止める層、魔力を遮る層、空間接続を迂回させる層、観測による相互認識を断つ層が、無人宙域を異なる方向から閉ざしていく。
一つの惑星を隔離するだけなら、過剰な規模だった。
星図の上に、赤い一点が固定される。
「対象座標、確定」
「上位委員会封鎖網との同期を確認。空間移動、魔力伝播、認識接続を遮断しています」
「封鎖を維持。交渉回線だけを開けろ」
上位委員会は、未知の存在を恐れてすべてを閉じたのではない。
逃げ道と被害範囲を限定し、そのうえで、相手が意思を持つ可能性を捨てなかった。
合同回線に、上位委員会議長の声が流れた。
『こちらは上位委員会。現在、あなたが存在する閉鎖宇宙の統治責任を負う機関である。あなたは許可なく内部領域へ侵入している。行動を停止し、来訪目的を提示せよ』
数秒の沈黙があった。
封鎖は維持されている。技術班の計測値にも、目立った変化はない。
それでも監視室にいた全員が、自分たちのほうを見られたと感じた。
やがて、声ではない意味が、硝子玉の宇宙全域へ落ちた。
――閉鎖系を確認。
音でも、言語でもなかった。
理解だけが、頭の中へ直接置かれる。
――自己内包領域に、未承認構造を確認。
――内部活動反応あり。
――〈ネア=ヴェル〉未分化。
――〈オルファ・セム〉への還元を開始する。
解析担当者の画面に、翻訳不能を示す警告が並んだ。
「認識不能語が混入!」
精神保護室長が即座に命じる。
「意味を捉えようとするな。未翻訳の認識情報として隔離しろ!」
観測担当者の一人が鼻血を流した。
精神保護術式は壊されていない。対象は術式の構造と目的を読み取り、その内側へ視線を通しただけだった。
別の職員が、自分の名前を思い出せなくなりかけて机へ手をつく。
精神保護室長が術式の第一層を切り離した。
「第二層へ移行! 記憶を守ろうとしないでください。現在位置と身体感覚だけを固定!」
守ろうとした情報ほど、対象の注意を引く。
情報班も対応を切り替えた。機密記録を深部へ逃がすのではなく、全記録層を同じ重要度に偽装する。どれが機密で、どれが日常の記録なのかを判別できないよう、索引そのものを解体していく。
空間、認識、記録。
三つの異なる領域で、人間が構築した法則と防護が、同時に外側から扱われている。
分類担当者が、震える指で判定結果を確定した。
「人類既知体系を超える自律存在。上位存在の認定基準を満たしました」
上位委員会議長が即座に応じる。
『未確認構造体を、上位存在として暫定認定。全系統を上位存在対応規程へ移行せよ』
その瞬間から、対象は上位存在と呼ばれるようになった。
それでも、上位存在がどのように現れたのかは分からなかった。
外縁観測網にも、封鎖記録にも、壁面監視にも、侵入の過程が残っていない。
合同指揮室のジェレミーは、指揮卓の音声記録を遮断した。続いて、情報班区画にいるロジーのデバイスへ、受信者を自分一人に限定した秘匿回線を接続する。
「ロジー」
『なに、局長』
ロジーの声はいつもより低かった。頭上のデバイスには、処理負荷を示す警告が幾つも浮かんでいる。
「やれるか」
数秒の沈黙があった。
『できるかは分かんない。やってみる』
ロジーは頭上のデバイスへ両手を添えた。
新しい検索画面は開かなかった。
外部通信も行われない。情報班の端末群にも、ロジーからの要求履歴は残されなかった。
それでも、ロジーの目は何も表示されていない空間を追い始めた。
呼吸が浅くなる。
デバイスの光が明滅し、制御遅延を知らせる短い警告音が続いた。
『……ない』
「何がない」
『入ってきた記録。壁を越えた記録も、現れた記録もない』
ロジーは目を閉じなかった。
見ているものから一瞬でも意識を逸らせば、戻れなくなるような顔をしていた。
『最初からいたことにされてる。違う。こっちが、最初からあれの中にあったことに――』
デバイスが甲高い警告音を発した。
ロジーは両手で頭上の装置を押さえ、身体を折る。
『見返された!』
「切れ」
『もう切ってる!』
秘匿回線が途切れた。
内容を聞いていなかった情報班主任が、突然身体を折ったロジーの肩を支え、医療班への緊急回線を開く。
ジェレミーは、ロジーから得た結論だけを合同指揮室へ伝えた。
「侵入の記録は存在しない。上位存在は、この宇宙を自らの内部に発生した構造として認識している」
その報告が上位委員会へ届いた直後、星図上の赤い一点が広がった。
上位存在は、自分へ付与された座標を調べていた。
物質を止める層を距離の定義として取り込み、魔力を遮る層を内部構造の境界へ変える。空間接続を迂回させる封鎖層は、上位存在へ情報を集める経路へ転じた。
封鎖網は一つも故障していない。
すべて正常に動作しているからこそ、構造を理解した上位存在に利用されていた。
「封鎖網が反転します!」
「解除すれば、確定した経路が開きます!」
議長の命令に迷いはなかった。
『全層をその場で焼却。対象に構造を渡すな』
何世代にもわたって維持されてきた広域設備が、自らの機能を停止し、同時に消滅した。
上位委員会は、上位存在を封鎖できなかった。
だが、利用されると判断した瞬間、それまで積み上げてきたものを惜しまず捨てた。
封鎖が消えた宙域へ、青白い光が走った。
◇
戦闘班の出撃許可が下りた時点で、レトは準備を終えていた。
複数の戦闘艦と観測船が距離を取り、退路を確保している。レトの役割は討伐ではない。上位存在と有人宙域の間へ空間的な隔壁を作り、干渉の方向を限定することだった。
レトの周囲に、数百本の硝子短剣が展開される。
短剣は上位存在へ向かわず、無人宙域の各所へ飛んだ。透明な硝子板へ変形し、空間窓によって互いへ接続されていく。
上位存在から伸びる干渉を受け流し、曲げ、折り返し、無人宙域の中を何度も循環させる。
何もない宇宙へ、巨大な硝子細工が組み上がった。
「空間ずらし、固定! 有人惑星へ向いてるもの、全部こっちへ曲げる!」
上位存在から放たれた認識圧が、最初の硝子板へ届いた。
硝子板が砕ける。
内部に封じられていた青白い熱が放出され、砕けた座標を一時的な空白へ変えた。
有人宙域へ伸びていた意味が、一秒だけ途切れる。
その一秒で、三隻の観測船が退避した。
次の硝子板が砕ける。
さらに一秒。
レトは上位存在を傷つけられない。それでも一秒ずつ、人間が逃げるための時間を作っていた。
『レト、後退しろ』
通信へ入ったジェレミーの命令に、レトは正面を見たまま答える。
「まだできる!」
『隔壁の内側が反転している。あと二枚で退避しろ』
上位存在は、レトの短剣を防いでいなかった。
硝子板を破壊しようともしていない。
ただ、レトが空間を折り曲げる手順を見ていた。
三枚目の硝子板が、砕けずに裏返る。
表面と裏面が入れ替わったのではない。硝子板によって隔てられていた二つの空間が、どちらも内側になった。
魔術の接続を介し、レトの右腕に青白い亀裂が走った。
「っ……!」
『退避しろ、レト!』
「了解!」
レトは残っていた短剣を一斉に破砕し、その熱で接続経路を焼き切った。直後、戦闘艦が展開した回収術式へ飛び込む。
観測船はすべて退避した。
有人宙域へ向かう干渉も遅れている。
上位存在には、傷一つなかった。
合同指揮室では、副長が、各区画から集められた魔力波形を見比べていた。
「対象は強い反応ではなく、異なる反応へ注意を向けています。全職員の魔力波形を施設防護網へ重ねてください。負傷者も含めます」
「負傷反応までは隠せません」
「隠す必要はありません。誰が負傷者なのかを分からなくしてください」
技術班と魔術制御部が、施設防護網へ職員たちの魔力波形を重ねた。
個人ごとの差異が薄れ、監理局全体が、一つの巨大な生命反応として上位存在の観測へ映る。
上位存在の視線が、わずかに迷った。
その瞬間、指揮室の壁面で精神保護術式の一基が過負荷を起こした。破裂すれば、術式を通じて接続されている職員全員へ、上位存在の認識が流れ込む。
遠隔解除は反応しない。
警告表示より早く、ジェレミーはハンドガンを抜いていた。
一発。
弾丸は装置の中枢を避け、接続線を固定していた小さな部品だけを撃ち抜く。
術式は破裂する直前に系統から外れ、床へ落ちた。
「第三系統を放棄。人員を第四系統へ移せ」
職員たちは即座に命令へ従い、残された設備で防護を組み直した。
上位委員会と惑星監理局は、上位存在を倒せていない。
それでも、まだ誰一人として差し出してはいなかった。
上位存在は、その抵抗を観測した。
――内部活動反応、組織性あり。
――微細個体群、自己境界を主張。
――微細個体群に、領域権限なし。
――自律増殖構造を解く。
――解体を開始する。
硝子玉の宇宙全体が軋んだ。
◇
エルは、合同指揮室の中央に立っていた。
手には、食堂から借りてきた花飾りを持っている。
正面の主画面には上位存在の観測像があり、その周囲には、情報班区画、戦闘艦隊、医療搬送路、上位委員会の通信室から送られる映像が並んでいた。
朝から指先に残っていた淡い光が、花を持つ指の隙間からにじんでいる。
「人間、すごいね」
エルは小さく言った。
ジェレミーは観測画面から目を離さない。
「そうだ」
「でも、痛い人、増えてる」
「そうだ」
精神保護室から損傷者の報告が続いている。医療班はすでに収容能力の半分を使っていた。
レトの右腕には亀裂が残り、ロジーのデバイスも安定していない。
エルは白と青の花を見下ろした。
「まだ、あたしはしない?」
「まだだ」
指先の光が強くなる。
エルは空いている手で、光の漏れる指を包み込んだ。
「うん。待つ」
上位委員会は、残された設備を一つの目的へ集約した。
対象を傷つけるためではない。
交渉相手として成立させるため、上位存在の顕現を一つの座標へ固定する。
広域封鎖網を失った今、それを行えば、他の全防護が弱くなる。それでも議長は命じた。
『法則固定を対象座標へ集中。維持時間は問わない。こちらの言葉が届く時間を作れ』
輪も、眼球も、指も、文字も、空白も、同じ一点へ押し込められていく。
上位委員会と惑星監理局が保有する法則固定設備が、外宇宙の存在へ位置を強制した。
八秒間。
上位存在は、確かにそこにいた。
議長が告げる。
『この宇宙には、意思を持つ生命が存在する。我々はあなたの内部反応ではない。ここはあなたの所有領域でもない。解体処理を停止し、硝子の壁の外へ退去せよ』
上位存在は、上位委員会を認識した。
惑星監理局を認識した。
話しかけている人間を、初めて個体として調べた。
六秒が過ぎる。
上位存在が、応答した。
だが、それを音として聞いた者はいなかった。
意味を受け取った者もいない。
翻訳装置には空欄だけが残り、解析系統は、何らかの情報が通過したという事実だけを記録していた。
七秒目。
上位存在が、固定術式の意味を理解した。
八秒目。
固定されていた座標が、上位存在の観測窓へ変わった。
上位委員会の最上位通信室と、惑星監理局の合同指揮室が、距離を無視して同じ場所へ重なる。
議員の一人が胸を押さえて倒れた。
精神保護室長の防壁が、内側から剥がれていく。情報班の記録層が一斉に開き、そこへ保存されていた無数の人生が、内容ではなく構造として読み取られ始めた。
情報班区画を映す画面の中で、ロジーのデバイスが甲高い警告音を発した。
「切れない……! 繋いでないのに、記録のほうから開いてる!」
情報班主任がロジーの肩を掴んだ。
「デバイスを保護モードへ。記録領域を切り離せ」
「切ったら、戻せない!」
「君が壊れるよりいい!」
ロジーは歯を食いしばり、デバイスに保存された記録領域を一つずつ切り離していく。
別の画面では、回収されたレトが右腕の亀裂を押さえながら、再出撃しようと戦闘班員へ詰め寄っていた。
上位委員会の通信室では、倒れた議員が運び出されている。
合同指揮室の各所では、失われた設備の代わりに、別の部署が次の防護を展開していた。
エルは、壁面に並んだ映像を見た。
手で覆っていた淡い光が、指の間からこぼれた。
光が床へ落ちる。
触れた床材の表面が、一瞬だけ白い花弁へ変わり、すぐに元へ戻った。
ジェレミーの視線が、足元へ落ちる。
エルは何も言わず、指先をさらに強く握った。
「ジェレミー」
「何だ」
「このままだと、人間、選べる?」
「選ぶ前に死ぬ」
エルは小さく頷いた。
「そっか」
上位委員会議長の声が通信へ入る。
『上位委員会は、エルによる緊急介入を承認する。方法の指定は不可能。人命と宇宙存続を最優先とし、自由裁量を認める』
エルは、まだ動かなかった。
花飾りの茎が、手の中で軋んだ。
ジェレミーを見上げる。
「ねえ……」
震える、か細い声だった。
「エル、やれ」
「うん」
エルは、ようやく花飾りから片手を離した。
◇
術式はなかった。
魔力陣も、詠唱も、空間を震わせる予兆もない。
それまで遠くへ逸れていたエルの瞳が、初めて一つの場所へ焦点を結んだ。
エルが、上位存在を見た。
人間の観測画面に映った輪でも、眼球でも、巨大な指でもない。
硝子玉の宇宙へ触れ、人間たちを微細な活動反応として数え、世界を不要な内部構造として解こうとしている存在そのものを見た。
「人間が、いっぱい飾った、あたしの宇宙」
エルは、上位存在へ告げた。
「あなたのじゃない」
上位存在の処理が、初めて止まった。
――中枢個体を再分類。
――旧分類に不整合。
――〈 〉接続を――
最後の言葉は、人間の認識へ届く前に消えた。
上位存在の全観測結果が、一つに重なる。
巨大な輪も、無数の眼球も、星々の間へ差し込まれていた指も、判読不能な文字の海も消えていた。
無人宙域の中央に、花束が浮かんでいる。
白と淡い青の花。
硝子のように透ける花弁。
細い青のリボン。
小さな星形の飾り。
手のひらほどにも、恒星系を覆うほどにも見えた上位存在が、人間にも理解できる一つの形へ押し込められていた。
花束が震える。
――形態異常。
ちりん、と硝子鈴に似た音が鳴った。
上位存在が顕現していた座標で、空間が折れた。
花弁の一枚一枚に沿うように、同じ空間が複数の内側を持ち始める。直線であるはずの距離が自分自身へ重なり、上位存在へ向けて放たれた観測光が、別の方向から出発地点へ戻った。
花束を中心に空間が折れたのではない。
空間そのものが、花束という形にされた。
上位存在は、その折り目のすべてへ押し込められている。
認識圧が消えた。記録層への侵入が止まり、精神防護の内側へ入り込んでいた視線も抜け落ちる。
花束へ変えられた上位存在は、動かなかった。
エルの指が閉じる。
手の中で、借りてきた花飾りの茎が軋んだ。
「消えて」
硝子玉の宇宙の壁が、全方位で白く光った。
外縁観測網が、一瞬だけ宇宙の外側を検出する。
人間の観測という行為そのものが成立しない、硝子の壁の向こう側。
花束が引き寄せられた。
距離を移動したのではない。花束が存在してよい側と、存在してはいけない側が分けられ、その境界だけが入れ替わる。
ちりん。
最後の音が鳴った。
花束は、硝子の壁の向こうへ消し飛んだ。
壁面に穴は残らない。侵入経路も閉じている。
上位存在の反応は、完全に消失した。
エルは表示から反応がなくなったことを確かめ、両手の中へ視線を落とした。
借りてきた花飾りは、少しだけ形が崩れていた。いつの間にか強く握り締めていたらしく、薄い青の花が傾き、細い茎も何本か曲がっている。
エルは、これ以上壊さないように持ち直した。
「お花、返してくる」
誰かの返事を待たず、合同指揮室を出ていった。
◇
上位存在が消失したあと、顕現座標の観測が開始された。
立ち会ったのは、上位委員会の議員と、惑星監理局の成人職員だけだった。
レトとロジーは医療班へ移され、エルにも観測結果は伝えられていない。
最初に送られた無人観測機は、異常宙域の外側で停止した。
推進機関も、通信装置も、搭載された魔術系統も正常に動作している。機体は前進を続け、座標も変化している。
しかし、異常宙域との距離だけが縮まらなかった。
技術班は観測方式を変更し、境界へ向けて光を照射した。
最初の観測光は、発射から三秒後に戻った。
二本目は、発射時刻より零・二秒早く検出された。
三本目は戻らなかった。代わりに、次に発射予定だった四本目と同じ識別情報を持つ光が、別方向から観測装置へ入射した。
「照射を停止」
技術班長の命令で、すべての観測光が止まる。
それでも測定画面には、新しい反応が増え続けていた。
光の進行方向が枝分かれしているのではない。
一つの経路が、互いに重ならない複数の内側を持っていた。同じ場所を通りながら、それぞれ異なる距離と時間の順序を成立させている。
魔術制御部長が立体空間図の固定を試みる。
表示された直線は途中で輪になり、その輪の内側から、始点を持たない別の直線が伸びた。測定値を追加するたびに折り目が増え、やがて立体図そのものが花弁に似た形へ畳まれていく。
解析装置が警告を発した。
測定不能ではない。
測定するたびに、測定結果を含んだ新しい空間構造が増えていた。
「解析を止めろ」
ジェレミーが命じた。
「ですが、まだ境界範囲を確定できていません」
「観測行為が変質に関与している可能性がある。これ以上、内側を増やすな」
解析担当者が操作を止める。
画面上に残った空間図は、異常な形のまま静止した。
上位委員会の通信回線から、議長が尋ねる。
『修復は可能か』
魔術制御部長は、すぐには答えなかった。
正常な空間なら、損傷前の座標構造を基準として復元できる。だが、目の前の領域には、どれが損傷前の状態なのかを示す基準が残されていない。
「現時点では不可能です。展開する方向を誤れば、折り畳まれた構造を周辺宙域へ引き伸ばす危険があります」
『自然回復の見込みは』
「ありません。変動値は低下していますが、元に戻っているのではなく、この状態で固定されつつあります」
議長は短い沈黙のあと、決定を下した。
『対象領域を完全封鎖する。周辺航路を恒久的に変更。転移、通信中継、観測、探査、物質投射を全面禁止とする』
別の議員が続ける。
『外周へ多重隔離帯を設置。封鎖設備は異常領域と直接接続させるな。管理は上位委員会と惑星監理局の共同管轄とする』
「承知しました」
星図から周辺航路が消されていく。
中継設備も撤去され、接近経路そのものが閉じられる。観測記録は最上位区分へ封印され、今後は異常拡大の有無だけを、離れた座標から間接的に確認することになった。
その場にいた若い職員が、固定された空間図を見たまま呟いた。
「問題を、より大きな問題にすり替えるだけ……」
研修で聞いた時には、危険性を説明するための比喩だと思っていた。
今、星図から一つの宙域が恒久的に消されていくのを見て、その言葉が初めて実感になった。
副長が、固定された空間図を眺めながら口を開く。
「『エルさんを怒らせないように』も、研修に含めますか? 折り畳まれますよ、って」
監理局側と上位委員会側から、二つの声が重なった。
「副長」
副長は姿勢を正した。
「失礼しました」
◇
エルは、食堂の同じ席へ戻っていた。
警報が解除されたあとも、食堂には人が少なかった。食堂班の職員たちは避難させた食材や設備を戻し、止まっていた朝食の片づけを進めている。
エルは、両手に持っていた花飾りをテーブルの中央へ置いた。
白い小花は、ほとんど元の形を保っている。
薄い青の花は一つだけ横へ傾き、何本かの茎が途中で曲がっていた。束を留めていた細い紐も、少しだけ位置がずれている。
食堂班の職員が、戻された花を見た。
エルは自分の指先を重ねた。
「花、ごめんなさい」
エルは傾いた花弁へ触れようとして、途中で手を止めた。
職員は花飾りを持ち上げず、エルと同じようにテーブルの上で眺めた。
「あとで、少しずつ整えます」
エルは花から目を離さなかった。
「元に戻る?」
「完全に同じにはならないかもしれません。でも、まだ飾れます」
「そっか」
エルは椅子へ座った。
足を揺らすことも、花を魔法で直すこともなく、少し曲がってしまった花を見つめたまま、肩を落とした。




