第17話-エルのばか!ばかばかばかーーー!!!
「エルのばか! ばかばかばかーーー!!」
惑星監理局の休憩区画に、レトの叫び声が響いた。
昼休みにはまだ少し早い時間だった。
廊下を行き交っていた職員たちが足を止め、休憩区画の入口へ視線を向ける。けれど、中にいる三人を確認すると、誰もすぐには踏み込まなかった。
淡緑の長い髪を乱し、レトが長椅子の前に立っている。
左側のワンサイドテールは、眠っていたせいで少し崩れていた。頬を擦った右手の指先には、黒い線がついている。
そして、その向かい。
エルは床へ座り込み、黒い油性ペンを持っていた。
白髪のボブを揺らし、怒鳴られている理由を確かめるように、レトの顔をじっと見ている。
「あたし、ばかじゃないよ」
「ばかだもん!」
レトは黒くなった指を突きつけた。
「寝てる人の顔に勝手に描くのは、ばかなの!」
「でも、レト、起きなかった」
「起きなかったら描いていいことにならないの!」
「そうなの?」
「そうだよ!」
レトは両手を握りしめた。
何を描かれたのか、まだ全部は分からない。
頬に触れると、ざらりとした感触がある。鼻の先も、なんとなく変だ。エルが顔のあちこちへペンを走らせていたことだけは、指についた黒い色で分かった。
少し前まで、レトは長椅子で眠っていた。
午前中の訓練が終わり、昼食までの短い時間だけ休むつもりだった。
横向きに丸まり、片腕を枕にして目を閉じる。
その隣で、エルはしばらく眠るレトを眺めていた。
規則正しく上下する肩。
少し開いた口。
頬へかかった淡緑の髪。
エルは机の上に置かれていた油性ペンを手に取り、慎重にレトの頬へ線を引いた。
レトが、
「んぅ……」
と唸る。
エルはすぐに手を止めた。
数秒待つ。
起きない。
それを確認してから、続きを描いた。
起こさないように。
線がずれないように。
かなり丁寧に。
「何をしているの?」
声をかけたのは、休憩区画を通りかかったロジーだった。
ピンク色のツインおさげを揺らし、頭上のデバイスを連れて入口から顔を出す。
「レトに描いた」
エルが答える。
「描いた?」
「顔に」
「なんで?」
「楽しくするため」
ロジーは床へ座るエルを見た。
その手にある油性ペンを見る。
そして、ものすごい勢いで怒っているレトを見た。
一度、耐えた。
二度、耐えた。
三度目で限界を迎えた。
「ぶっ……!」
ロジーの肩が跳ねた。
「ロジー?」
レトが振り向く。
ロジーは両手で口を覆った。
けれど、もう遅かった。
眠っていたレトのまぶたには、目を閉じても開いて見える丸い目が描かれていた。
頬には左右三本ずつ、猫のようなひげ。
鼻の先は真っ黒。
口元には、くるりと巻いた立派なひげ。
そして額には、顔の半分を占領するほど大きな星が描かれている。
怒りで目を見開いたため、レトの本物の目と、まぶたに描かれた目が縦に並んでいた。
四つの目が、ロジーを睨んでいる。
「目……!」
ロジーは腹を押さえて、その場へしゃがみ込んだ。
「目が四つある! ひげも、立派すぎる……!」
「ロジー!」
「だって、レト、ものすごく怒ってるのに、顔だけすっごく楽しそう!」
「ロジーもばかーーー!!」
レトの叫びが、もう一度休憩区画へ響いた。
ロジーは笑いながらも、慌てて顔を背けた。
「ご、ごめん! ごめんって! でも急に見せるのは反則!」
「わたしは見せてないもん! エルが勝手にしたの!」
「うん。あたしがした」
エルは素直に認めた。
その返事がさらに腹立たしくて、レトは頬を膨らませる。
「どうしてこんなことしたの!」
エルは少し考えた。
「前に、みんなで映像を見た」
「映像?」
「顔に描かれた人が起きたら、みんな笑ってた」
ロジーの笑いが止まった。
レトにも心当たりがあった。
数日前、三人で見た娯楽番組。
眠っている出演者の顔へ奇妙な落書きをし、本人が起きた後、鏡を見て驚くという内容だった。
レトも笑った。
ロジーも笑った。
エルは、笑う二人をずっと見ていた。
「顔に描くと、みんな笑う」
エルは手の中のペンへ目を落とした。
「レトも、いっぱい笑ってた。だからレトにしたら、レトも幸せになると思った」
レトは言葉に詰まった。
悪いことをして困らせようとしたわけではない。
エルは、レトが笑ったものを覚えていただけだ。
同じことをすれば、また笑うと思った。
でも。
「それでも、勝手に描いちゃだめだよ」
ロジーが言った。
さっきまで笑い転げていた顔から、ふざけた色が少しだけ消えている。
「番組の人は、そういう遊びをするって分かってた。でもレトは、何も知らないで寝てたでしょ」
エルは顔を上げた。
「魔法じゃなくても、聞かないとだめ?」
「知らないまま身体に何かされたら、嫌なことがあるの。面白いかどうかを決めるのは、された方だよ」
エルはレトを見た。
「レト、幸せじゃなかった?」
「今は怒ってる」
レトは即答した。
「すっごく怒ってる!」
エルはしばらく何も言わなかった。
手にしていた油性ペンの蓋を閉じる。
小さく音が鳴った。
「……そっか」
レトはその声を聞いた。
でも、まだ腹が立っていた。
エルにも。
笑ったロジーにも。
だから、くるりと背を向ける。
「もう知らない!」
「レト」
「知らないもん!」
レトは休憩区画を飛び出した。
廊下を勢いよく進む。
十歩ほど走ったところで、近くにいた職員から声が飛んだ。
「レトさん、廊下を走らないでください!」
「……はーい!」
返事だけは素直にして、走るのをやめる。
その代わり、ものすごく速く歩いた。
腕を大きく振る。
足音を強く鳴らす。
怒っていることが、歩き方だけで監理局中へ伝わりそうだった。
エルのばか。
勝手に描いたから、三回ばか。
ロジーもばか。
すごく笑ったから、二回ばか。
今日は二人と一緒にプリンを食べない。
エルが欲しそうに見ても、半分あげない。
ロジーが新しい写真を見せても、絶対に笑わない。
二人とも、今日はずっと知らない。
ずっとは長いから、夕方まで。
でも夕方まで謝りに来なかったら、それも腹が立つ。
すぐ来てほしい。
今すぐ。
でも今すぐ来たら、まだ怒っているから、少し待ってから来てほしい。
レトは眉間へ力を込めた。
難しい。
どうして二人とも、レトがちょうどよく怒っていられるようにできないのだろう。
やっぱり、ばかだ。
廊下の先に、大きな窓があった。
硝子玉の宇宙の星々を映す、監理局の観測窓。
レトはその前を通り過ぎようとして、足を止めた。
窓の表面に、小さな少女が映っている。
額に大きな星。
四つの目。
黒い鼻。
立派な巻きひげ。
「……」
レトは右を向いた。
窓の中の少女も、右を向く。
額の星が、顔の動きに合わせて大きく傾いた。
レトは唇を結んだ。
笑ってはいけない。
今は怒っているのだから。
口元を隠そうと手を当てる。
すると、立派な巻きひげだけが指の両側からはみ出した。
「ぶふっ」
声が漏れた。
レトは慌てて口を押さえる。
けれど、窓の中の四つ目の少女も、同じように慌てている。
鼻の先は真っ黒だ。
額の星は、近くで見ると少し歪んでいた。
「なにこれ……!」
肩が震える。
「変な顔! すっごく変!」
一度笑うと、もう止まらなかった。
レトは窓の前で腹を抱えた。
笑えば笑うほど、巻きひげが揺れる。
それがまたおかしくて、涙まで滲んでくる。
しばらくして、ようやく笑いが収まった。
レトは息を整え、窓の中の自分を見た。
面白い。
すごく面白い。
けれど。
「でも、勝手に描いたのは、まだ怒ってるもん」
笑ったからといって、嫌だったことがなくなるわけではない。
その時、背後から小さな足音が聞こえた。
レトは振り返らない。
エルとロジーだった。
二人とも、少し離れたところで立ち止まっている。
先に口を開いたのはエルだった。
「レト」
「なに」
「ごめんなさい」
レトは窓へ映ったままのエルを見る。
エルは両手を身体の前で重ねていた。
「勝手に描いたら、だめだった」
「うん」
「あたし、レトが笑うと思った。でも、先に聞かなかった」
レトは鼻を鳴らした。
「まだちょっと怒ってる」
「うん」
エルは、それ以上許してとは言わなかった。
ただ、レトがまだ怒っていることを、そのまま受け取っている。
ロジーも一歩前へ出た。
「私もごめん。面白くても、あんなに笑われたら嫌だよね」
「すっごく笑ってた」
「……うん。すっごく笑った」
「まだ笑いそう?」
ロジーは、レトの顔を見た。
四つの目。
立派なひげ。
大きな星。
口元が少し震える。
「ちょっとだけ」
「ロジー!」
「ごめん!」
ロジーは慌てて頭を下げた。
けれどレトも、怒鳴りながら少しだけ笑っていた。
完全には許していない。
でも、もう二人を置いてどこかへ行きたいとは思わなかった。
レトは休憩区画へ戻った。
エルとロジーも、その後ろをついてくる。
机の上には、エルが置いた油性ペンがあった。
レトはそれを手に取る。
エルが、じっとペンを見る。
「エル」
「うん」
「今度は、わたしがエルの顔に描いてもいい?」
エルはレトの顔を見た。
「レトと同じ、おもしろい顔?」
「うん!」
「描いていいよ」
レトは胸を張った。
「わたしは、ちゃんと聞いたもん!」
まず、エルの頬へ三本ずつひげを描く。
鼻の先を黒くする。
額には、大きな渦巻き。
白髪の毛先が淡いピンク色に染まった、いつもの静かな顔へ、立派なひげと渦巻きが加わった。
エルは近くの鏡を見た。
顔を右へ向ける。
左へ向ける。
渦巻きを確かめる。
「おもしろくなった」
「うん!」
「先に聞いた」
「今度はちゃんと聞いたよ!」
エルは小さく頷いた。
「じゃあ、楽しい」
レトは満足して、次にロジーを見た。
ロジーは一歩下がった。
「待って。私は描いてないよ!?」
「でも笑ったもん」
「笑った罪に顔面落書きは重くない!?」
レトはペンを持ったまま首を傾げた。
「だめ?」
「うっ」
ロジーは、レトを見る。
四つ目に、猫のひげ。額には巨大な星。
次にエルを見る。
黒い鼻に、左右のひげ。額には大きな渦巻き。
頭上のデバイスが二人の顔を撮影し、小さな画像を表示する。
ロジーはその記録と、自分だけ何も描かれていない顔を見比べた。
「……私だけ普通だと、仲直り記録として統一感がない」
「じゃあ描いていい?」
「額だけ!」
ロジーは人差し指を立てた。
「それから、何を描くかは私が決める!」
「なににする?」
ロジーは少し考えた。
頭上のデバイスに、赤い丸と文字が表示される。
●REC
ロジーは胸を張った。
「これ!」
レトは嬉しそうに笑った。
「分かった!」
額の中央へ、大きな丸を描く。
その隣へ、慎重に文字を並べる。
●REC
ロジーは鏡で確認した。
「いい! 撮影中みたい!」
「ロジー、いつも撮影してるもんね!」
「私はいつでもこの目で録画してるから!」
「それ、幸せ?」
エルが聞く。
ロジーは鏡の中の自分を見て、満足そうに頷いた。
「かなり!」
三人は鏡の前へ顔を寄せた。
四つ目で立派なひげのレト。
渦巻き顔のエル。
額に大きく**●REC**と書かれたロジー。
撮影音が鳴る。
けれど、撮影の瞬間にレトが笑った。
もう一度撮る。
今度はロジーが笑った。
さらにもう一度。
エルが二人につられて、ほんの少しだけ口元を緩めた。
結局、まともな写真は一枚も撮れなかった。
ロジーは全部保存した。
「仲直り記録、保存完了!」
◇
昼食時間。
食堂へ、三人が並んで入ってきた。
最初に気づいた職員が箸を止める。
隣の職員が顔を上げる。
その隣も振り返る。
食堂が、入口から順番に静かになった。
四つ目に、立派な巻きひげのレト。
額に渦巻きを描かれたエル。
額へ大きく**●REC**と書かれたロジー。
三人はいつも通りだった。
レトは元気に歩く。
ロジーは頭上のデバイスを光らせる。
エルは二人の間を、ゆっくりついていく。
食堂班の職員が、恐る恐る尋ねた。
「……何があったんですか」
レトが両手を上げる。
「仲直り!」
ロジーも続く。
「記念撮影済み!」
エルは自分のひげに触れた。
「三人とも、おもしろくなった」
食堂のあちこちから、小さな笑い声が漏れた。
レトの四つの目が、笑った職員たちへ向く。
「笑った職員さんも描くよ!」
笑い声が一斉に止まった。
誰もレトと目を合わせない。
ロジーの頭上デバイスに、新しい記録が表示された。
油性ペン一本による、食堂全域の制圧を確認。




