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硝子玉の宇宙、箱庭の娘たち【新版】  作者: 硝子玉の宇宙
箱庭の日々

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17/24

第17話-エルのばか!ばかばかばかーーー!!!

「エルのばか! ばかばかばかーーー!!」


惑星監理局の休憩区画に、レトの叫び声が響いた。


昼休みにはまだ少し早い時間だった。


廊下を行き交っていた職員たちが足を止め、休憩区画の入口へ視線を向ける。けれど、中にいる三人を確認すると、誰もすぐには踏み込まなかった。


淡緑の長い髪を乱し、レトが長椅子の前に立っている。


左側のワンサイドテールは、眠っていたせいで少し崩れていた。頬を擦った右手の指先には、黒い線がついている。


そして、その向かい。


エルは床へ座り込み、黒い油性ペンを持っていた。


白髪のボブを揺らし、怒鳴られている理由を確かめるように、レトの顔をじっと見ている。


「あたし、ばかじゃないよ」


「ばかだもん!」


レトは黒くなった指を突きつけた。


「寝てる人の顔に勝手に描くのは、ばかなの!」


「でも、レト、起きなかった」


「起きなかったら描いていいことにならないの!」


「そうなの?」


「そうだよ!」


レトは両手を握りしめた。


何を描かれたのか、まだ全部は分からない。


頬に触れると、ざらりとした感触がある。鼻の先も、なんとなく変だ。エルが顔のあちこちへペンを走らせていたことだけは、指についた黒い色で分かった。


少し前まで、レトは長椅子で眠っていた。


午前中の訓練が終わり、昼食までの短い時間だけ休むつもりだった。


横向きに丸まり、片腕を枕にして目を閉じる。


その隣で、エルはしばらく眠るレトを眺めていた。


規則正しく上下する肩。


少し開いた口。


頬へかかった淡緑の髪。


エルは机の上に置かれていた油性ペンを手に取り、慎重にレトの頬へ線を引いた。


レトが、


「んぅ……」


と唸る。


エルはすぐに手を止めた。


数秒待つ。


起きない。


それを確認してから、続きを描いた。


起こさないように。


線がずれないように。


かなり丁寧に。


「何をしているの?」


声をかけたのは、休憩区画を通りかかったロジーだった。


ピンク色のツインおさげを揺らし、頭上のデバイスを連れて入口から顔を出す。


「レトに描いた」


エルが答える。


「描いた?」


「顔に」


「なんで?」


「楽しくするため」


ロジーは床へ座るエルを見た。


その手にある油性ペンを見る。


そして、ものすごい勢いで怒っているレトを見た。


一度、耐えた。


二度、耐えた。


三度目で限界を迎えた。


「ぶっ……!」


ロジーの肩が跳ねた。


「ロジー?」


レトが振り向く。


ロジーは両手で口を覆った。


けれど、もう遅かった。


眠っていたレトのまぶたには、目を閉じても開いて見える丸い目が描かれていた。


頬には左右三本ずつ、猫のようなひげ。


鼻の先は真っ黒。


口元には、くるりと巻いた立派なひげ。


そして額には、顔の半分を占領するほど大きな星が描かれている。


怒りで目を見開いたため、レトの本物の目と、まぶたに描かれた目が縦に並んでいた。


四つの目が、ロジーを睨んでいる。


「目……!」


ロジーは腹を押さえて、その場へしゃがみ込んだ。


「目が四つある! ひげも、立派すぎる……!」


「ロジー!」


「だって、レト、ものすごく怒ってるのに、顔だけすっごく楽しそう!」


「ロジーもばかーーー!!」


レトの叫びが、もう一度休憩区画へ響いた。


ロジーは笑いながらも、慌てて顔を背けた。


「ご、ごめん! ごめんって! でも急に見せるのは反則!」


「わたしは見せてないもん! エルが勝手にしたの!」


「うん。あたしがした」


エルは素直に認めた。


その返事がさらに腹立たしくて、レトは頬を膨らませる。


「どうしてこんなことしたの!」


エルは少し考えた。


「前に、みんなで映像を見た」


「映像?」


「顔に描かれた人が起きたら、みんな笑ってた」


ロジーの笑いが止まった。


レトにも心当たりがあった。


数日前、三人で見た娯楽番組。


眠っている出演者の顔へ奇妙な落書きをし、本人が起きた後、鏡を見て驚くという内容だった。


レトも笑った。


ロジーも笑った。


エルは、笑う二人をずっと見ていた。


「顔に描くと、みんな笑う」


エルは手の中のペンへ目を落とした。


「レトも、いっぱい笑ってた。だからレトにしたら、レトも幸せになると思った」


レトは言葉に詰まった。


悪いことをして困らせようとしたわけではない。


エルは、レトが笑ったものを覚えていただけだ。


同じことをすれば、また笑うと思った。


でも。


「それでも、勝手に描いちゃだめだよ」


ロジーが言った。


さっきまで笑い転げていた顔から、ふざけた色が少しだけ消えている。


「番組の人は、そういう遊びをするって分かってた。でもレトは、何も知らないで寝てたでしょ」


エルは顔を上げた。


「魔法じゃなくても、聞かないとだめ?」


「知らないまま身体に何かされたら、嫌なことがあるの。面白いかどうかを決めるのは、された方だよ」


エルはレトを見た。


「レト、幸せじゃなかった?」


「今は怒ってる」


レトは即答した。


「すっごく怒ってる!」


エルはしばらく何も言わなかった。


手にしていた油性ペンの蓋を閉じる。


小さく音が鳴った。


「……そっか」


レトはその声を聞いた。


でも、まだ腹が立っていた。


エルにも。


笑ったロジーにも。


だから、くるりと背を向ける。


「もう知らない!」


「レト」


「知らないもん!」


レトは休憩区画を飛び出した。


廊下を勢いよく進む。


十歩ほど走ったところで、近くにいた職員から声が飛んだ。


「レトさん、廊下を走らないでください!」


「……はーい!」


返事だけは素直にして、走るのをやめる。


その代わり、ものすごく速く歩いた。


腕を大きく振る。


足音を強く鳴らす。


怒っていることが、歩き方だけで監理局中へ伝わりそうだった。


エルのばか。


勝手に描いたから、三回ばか。


ロジーもばか。


すごく笑ったから、二回ばか。


今日は二人と一緒にプリンを食べない。


エルが欲しそうに見ても、半分あげない。


ロジーが新しい写真を見せても、絶対に笑わない。


二人とも、今日はずっと知らない。


ずっとは長いから、夕方まで。


でも夕方まで謝りに来なかったら、それも腹が立つ。


すぐ来てほしい。


今すぐ。


でも今すぐ来たら、まだ怒っているから、少し待ってから来てほしい。


レトは眉間へ力を込めた。


難しい。


どうして二人とも、レトがちょうどよく怒っていられるようにできないのだろう。


やっぱり、ばかだ。


廊下の先に、大きな窓があった。


硝子玉の宇宙の星々を映す、監理局の観測窓。


レトはその前を通り過ぎようとして、足を止めた。


窓の表面に、小さな少女が映っている。


額に大きな星。


四つの目。


黒い鼻。


立派な巻きひげ。


「……」


レトは右を向いた。


窓の中の少女も、右を向く。


額の星が、顔の動きに合わせて大きく傾いた。


レトは唇を結んだ。


笑ってはいけない。


今は怒っているのだから。


口元を隠そうと手を当てる。


すると、立派な巻きひげだけが指の両側からはみ出した。


「ぶふっ」


声が漏れた。


レトは慌てて口を押さえる。


けれど、窓の中の四つ目の少女も、同じように慌てている。


鼻の先は真っ黒だ。


額の星は、近くで見ると少し歪んでいた。


「なにこれ……!」


肩が震える。


「変な顔! すっごく変!」


一度笑うと、もう止まらなかった。


レトは窓の前で腹を抱えた。


笑えば笑うほど、巻きひげが揺れる。


それがまたおかしくて、涙まで滲んでくる。


しばらくして、ようやく笑いが収まった。


レトは息を整え、窓の中の自分を見た。


面白い。


すごく面白い。


けれど。


「でも、勝手に描いたのは、まだ怒ってるもん」


笑ったからといって、嫌だったことがなくなるわけではない。


その時、背後から小さな足音が聞こえた。


レトは振り返らない。


エルとロジーだった。


二人とも、少し離れたところで立ち止まっている。


先に口を開いたのはエルだった。


「レト」


「なに」


「ごめんなさい」


レトは窓へ映ったままのエルを見る。


エルは両手を身体の前で重ねていた。


「勝手に描いたら、だめだった」


「うん」


「あたし、レトが笑うと思った。でも、先に聞かなかった」


レトは鼻を鳴らした。


「まだちょっと怒ってる」


「うん」


エルは、それ以上許してとは言わなかった。


ただ、レトがまだ怒っていることを、そのまま受け取っている。


ロジーも一歩前へ出た。


「私もごめん。面白くても、あんなに笑われたら嫌だよね」


「すっごく笑ってた」


「……うん。すっごく笑った」


「まだ笑いそう?」


ロジーは、レトの顔を見た。


四つの目。


立派なひげ。


大きな星。


口元が少し震える。


「ちょっとだけ」


「ロジー!」


「ごめん!」


ロジーは慌てて頭を下げた。


けれどレトも、怒鳴りながら少しだけ笑っていた。


完全には許していない。


でも、もう二人を置いてどこかへ行きたいとは思わなかった。


レトは休憩区画へ戻った。


エルとロジーも、その後ろをついてくる。


机の上には、エルが置いた油性ペンがあった。


レトはそれを手に取る。


エルが、じっとペンを見る。


「エル」


「うん」


「今度は、わたしがエルの顔に描いてもいい?」


エルはレトの顔を見た。


「レトと同じ、おもしろい顔?」


「うん!」


「描いていいよ」


レトは胸を張った。


「わたしは、ちゃんと聞いたもん!」


まず、エルの頬へ三本ずつひげを描く。


鼻の先を黒くする。


額には、大きな渦巻き。


白髪の毛先が淡いピンク色に染まった、いつもの静かな顔へ、立派なひげと渦巻きが加わった。


エルは近くの鏡を見た。


顔を右へ向ける。


左へ向ける。


渦巻きを確かめる。


「おもしろくなった」


「うん!」


「先に聞いた」


「今度はちゃんと聞いたよ!」


エルは小さく頷いた。


「じゃあ、楽しい」


レトは満足して、次にロジーを見た。


ロジーは一歩下がった。


「待って。私は描いてないよ!?」


「でも笑ったもん」


「笑った罪に顔面落書きは重くない!?」


レトはペンを持ったまま首を傾げた。


「だめ?」


「うっ」


ロジーは、レトを見る。


四つ目に、猫のひげ。額には巨大な星。


次にエルを見る。


黒い鼻に、左右のひげ。額には大きな渦巻き。


頭上のデバイスが二人の顔を撮影し、小さな画像を表示する。


ロジーはその記録と、自分だけ何も描かれていない顔を見比べた。


「……私だけ普通だと、仲直り記録として統一感がない」


「じゃあ描いていい?」


「額だけ!」


ロジーは人差し指を立てた。


「それから、何を描くかは私が決める!」


「なににする?」


ロジーは少し考えた。


頭上のデバイスに、赤い丸と文字が表示される。


●REC


ロジーは胸を張った。


「これ!」


レトは嬉しそうに笑った。


「分かった!」


額の中央へ、大きな丸を描く。


その隣へ、慎重に文字を並べる。


●REC


ロジーは鏡で確認した。


「いい! 撮影中みたい!」


「ロジー、いつも撮影してるもんね!」


「私はいつでもこの目で録画してるから!」


「それ、幸せ?」


エルが聞く。


ロジーは鏡の中の自分を見て、満足そうに頷いた。


「かなり!」


三人は鏡の前へ顔を寄せた。


四つ目で立派なひげのレト。


渦巻き顔のエル。


額に大きく**●REC**と書かれたロジー。


撮影音が鳴る。


けれど、撮影の瞬間にレトが笑った。


もう一度撮る。


今度はロジーが笑った。


さらにもう一度。


エルが二人につられて、ほんの少しだけ口元を緩めた。


結局、まともな写真は一枚も撮れなかった。


ロジーは全部保存した。


「仲直り記録、保存完了!」



昼食時間。


食堂へ、三人が並んで入ってきた。


最初に気づいた職員が箸を止める。


隣の職員が顔を上げる。


その隣も振り返る。


食堂が、入口から順番に静かになった。


四つ目に、立派な巻きひげのレト。


額に渦巻きを描かれたエル。


額へ大きく**●REC**と書かれたロジー。


三人はいつも通りだった。


レトは元気に歩く。


ロジーは頭上のデバイスを光らせる。


エルは二人の間を、ゆっくりついていく。


食堂班の職員が、恐る恐る尋ねた。


「……何があったんですか」


レトが両手を上げる。


「仲直り!」


ロジーも続く。


「記念撮影済み!」


エルは自分のひげに触れた。


「三人とも、おもしろくなった」


食堂のあちこちから、小さな笑い声が漏れた。


レトの四つの目が、笑った職員たちへ向く。


「笑った職員さんも描くよ!」


笑い声が一斉に止まった。


誰もレトと目を合わせない。


ロジーの頭上デバイスに、新しい記録が表示された。


油性ペン一本による、食堂全域の制圧を確認。



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