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精神科医・神田知佳

神田知佳は目立つ美人ではなかった。

だが、不思議と視線が残る女だった。


化粧は薄い。黒髪はきっちりと後ろでまとめられ、白い真珠のネックレスだけが、静かに光っている。

喪服にも似た灰色のジャケットは地味なのに、彼女が着ると妙に品があった。


神田知佳は、法廷に入ってきても歩幅が変わらなかった。

急ぐでもなく、怯えるでもなく、ただ静かに証言台へ向かう。


彼女の履いている、ハイヒールの音だけが、コツコツとリズムを奏でていた。


傍聴席の記者は後にこう語る


彼女が入ってきた時、被告人はまた下を向いていました。

再び、殻の中に入ったみたいでした。


「氏名を述べてください。」


「神田知佳です。」


「年齢は」


「45です。」


「職業は」


「人間心理学を専門にしています。」


「精神科医でよろしいですか。」


「うーん、心理学者に近いと思います。医師免許はもってますが」


「では弁護人、尋問をはじめてください。」


弁護人は立ち上がり、証言台の横に立つ


「まずは神田さん、証言を引き受けてくださりありがとうございます。」


「いえ、仕事ですから。」


「あなた、検察の鑑定人として、被告人の責任能力について、鑑定されてますな。」


「ええ、責任能力はあります。」


「責任能力がある、というのは、被告人がいわゆる普通の精神ということでしょうかな。」


「そうとは限りません。」


「というと?」


「犯行時に、自分のしていることの意味を理解していたかどうかしか、責任能力の判断材料にはしません。問題解決能力ではなく、弁識能力と制御能力を基準に判断します。」


「つまり、被告人の問題解決能力は低かったのですかな。」


「その可能性は考慮していません。」


「では、あらためてお聞きしますがね。」


弁護人は、少し沈黙して、法廷の視線を自分に向ける


「被告人が、普通の女の子ではない可能性はありますかな?」


「はい。」


「なぜ、そういえますか。」


「まず、喋らない、目を合わせない、自己肯定感が著しく低い。少なくとも、定型発達とは言いづらいですね。」


「発達障害という、認識でよろしいですかな?」


「そのように診断する医師もいると思います。」


“発達障害”


飛び出したパワーワードに傍聴席がざわめく


「静粛に」


法廷が静かになるのを待ってから、弁護人はゆっくり話しはじめた。


「先生には、事前に供述調書をお読みいただいております。それを踏まえて、録画映像をご覧いただき、違和感をお伝えいただきたいですな。」


神田は軽く頷く


法廷に、再び録画映像が流れる


神田だけが、食い入るように、映像を見つめていた


「全体的に違和感しかありません。」


神田は映像が終わると同時に言う


「あの取調べした人、独特の雰囲気を纏っていらっしゃいますよね。オネェなんですか」


左陪席裁判官の女性は笑わないようにするのに必死だった


「証人は不規則発言をーー」


「彼の人柄が分からなければ分析も出来ないですよ。」


神田は裁判長を真っ直ぐに見つめて言い返す。


神田の圧に負けて、裁判長は思わず答えた


「あの、普通の人だと思います。」


「ああ、そうなんですね。なるほど。」


弁護人は、静かに語りかけた


「証人、供述調書の違和感を教えて頂きたいですな。」


弁護人は、神田の前に供述調書を滑らせる


神田は、書類を持ち上げて、眉間にシワを寄せた


「この調書も違和感しかないですね。公文書の書式にしたと考えても、大きな違和感が3箇所あります。」


「どこでしょうかな。」


「まず、『私は復讐心を抱きました』これはあり得ないです。彼女のようなタイプは、感情の起伏があまり見られないので、自分の感情を復讐心と思うとは、考えにくいです。つぎに、『思いたち、ピーナッツパンを買いました』これもあり得ません。彼女のようなタイプは、ルーティンを大切にします。思いたちで、行動パターンを変えるとは考えにくいです。最後に、最も違和感を感じるのは、『死んでも構わないと思いました』彼女は“死”に対して、強い拒否反応を示しています。彼女の考えを表す言葉で、“死”は適切な言葉ではありません。」


弁護人は大きく頷く


「なるほど、つまりは彼女の殺意は明確に否定された訳ですな。」


「殺意とは何かの定義によりますが」


弁護人の眉がピクッと動いた。


「殺意はなかったとして、この取調べ映像で、彼女が頷き、サインしてしまったのはなぜですかな?」


「取調官に対して、“好意”これは異性愛とは限りませんが、そのような感情があったと思います。」


「つまりは、取調官に好かれたくて嘘をついたーー」


「異議があります。弁護人は証言を誘導しようとしています。」


「異議を認めます。弁護人は誘導に気をつけてください。」


「私、誘導なんてされないですよ。」


神田が急に発言する


「彼女は、嘘をついてない可能性が高いです。少なくとも彼女の表情は、典型的な虚偽供述時反応ではありません。そこは不思議な点です。本当に思っていたのか、この時の認識バイアスがずれていたのか、どちらにしても、彼女の顔は、意図的に嘘を述べた顔ではありません。」


「浅学で申し訳ない、よく分からないので、もう少し教えていただけますかな。殺意はなかったんですかな。」


「よく分かりません。」


「あったとも、無かったとも、この映像だけでは断定できません。供述調書だけだと、嘘だと思います。でも、この映像を見ると、研究してみないことには分からないです。」


神田の目が、輝いていた。

彼女の心は、すでに法廷の外にあるようだ。


「そうですか。以上です。」


弁護人は静かに席に戻っていった。


「検察官、反対尋問をはじめてください。」


「はい。」


検察官は静かに立ち上がって、その場から証人に話しかける。


「証人は、心理学の専門家であられるようですね。」


「はい。」


「この映像の被告人は、洗脳されていたのでしょうか?」


「それはありません。もちろん、映像の外で洗脳されて、この場所にきた可能性はゼロではありませんが、限りなく低いです。」


「なるほど」


「この映像の中のお方は、かなり特殊な話し方をされていますが、洗脳するような発言は見受けられません。」


「グルーミングされている可能性はありますか。」


「グルーミングですか、その可能性は排除できません。かなり高い可能性であると言えるかも知れません。」


「グルーミングは、そんなに短期間で完成するものなのでしょうか。」


「いえ、普通は考えられません。通常は長い時間をかけて、信頼関係を築いていくものです。この映像は、グルーミングの特徴が何箇所か見受けられます。この取調官の特別な才能なのか、すごく気になります。」


神田の目に、強い好奇の光が灯る


「一般論として、グルーミングの対象を失った時に、他の対象にその感情が移ることはあり得ますか?」


神田の目が、すっと冷めた


「そうですね。それは良くあります。」


「被告人が、そうなっている可能性はありますか。」


「あります。」


「仮定の話をしますが、被害者がグルーミングの対象だったとして、被害者に裏切られたと感じたら、殺意が湧くというーー」


「異議ですな。意味のない仮定の話ですわ。」


裁判長は陪席裁判官の意見を確認する


「異議を却下します。検察官は続けてください。」


「被害者に殺意が湧く可能性はありますか?」


「あります。」


法廷はどよめいた。


「静粛に」


裁判長が、静かに証人に聞く


「大事なことなので、私からも聞かせてください。一般論ではなく、本件被告人でも殺意が湧く可能性はありますか。」


「あります。」


神田は、真っ直ぐ裁判長を見つめていた。


検察官が、静かに聞く


「最後にお聞かせ願いたい。あなたは、先ほどの証言で、被告人が『思いたち、ピーナッツパンを買う』のはあり得ないと、おっしゃられましたね。」


「はい。」


「被告人が、ピーナッツパンを購入したのは事実です。その場合、被告が強い意志を持って、計画して購入したと、考えるのが正しいですか?」


「その可能性は否定出来ません。」


「簡潔にお願いします。」


「異議ですな。証言の誘導です。」


「異議を認めます。」


検察官は、ゆっくりと聞く


「証人、あなたは、この被告人の行動に、強い意志を感じますか?」


「はい。」


神田の、静かだが、はっきりとした声が法廷に響く。


「以上です。」


検察官は静かに着席した。


8月だというのに、法廷には寒さが漂っていた。

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