幕間〜夜語り
日が落ちると、村の外れに小さな焚き火が灯る。
最初は新田が一人で座っているだけだった。誰も気にしなかった。だが三日目の夜、村の子供が「何してるの」と聞いた。
「怪談を語っています」
「かいだん?」
「怖い話のことです」
「きかせて」
それから毎晩、村人が数人集まるようになった。
今夜も、焚き火の周りに人が集まっていた。子供が二人、大人が三人。
「新田さん、今日もお話聞かせてくれるんですか」
「はい」
「どんな話ですか」
「日本に伝わる話です」
「にほん?」
「遠い場所です」新田は焚き火を見つめた。「お岩さんという女性の話です」
「お岩さん」
「はい」
子供が隣の大人にぴったりとくっついた。
「始めます」
新田が静かに言った。
焚き火が、ぱちりと音を立てた。
その昔、ある武家に、お岩という女がいた。
お岩には夫がいた。伊右衛門という男だ。伊右衛門は外に女を作っていた。お弓という女だった。
伊右衛門は、お岩を疎ましく思うようになった。
ある日、伊右衛門はお岩に薬を渡した。亡くなった父の供養のための薬だと言った。
お岩はそれを信じ、毎日飲んだ。
しかしそれは毒だった。
お岩の顔は、少しずつ変わっていった。
右目が腫れ上がった。
髪をとくたびに、大量に抜け落ちた。
お岩は、鏡を見た。
鏡の中には、自分の顔だとは思えないものが映っていた。
右目は腫れ上がり、垂れ下がっている。髪は半分以上抜け落ち、頭皮が見えている。
お岩は、それでも、夫を信じていた。
夫が、自分のために用意してくれた薬だと。
その夜、お岩は伊右衛門が他の女と話している声を聞いた。
お岩の名前を、二人で笑いながら口にしていた。
お岩は、全てを理解した。
毒を盛られたこと。
顔が変わったこと。
夫に、捨てられたこと。
お岩は、部屋に閉じこもった。
その晩、お岩の姿は、屋敷から消えた。
以来、伊右衛門の周りで、奇妙なことが起き続けた。
夜、誰もいない部屋から、櫛で髪をとく音が聞こえる。
鏡を見ると、自分の顔の後ろに、誰かの顔が映る。
長い髪の、片目が垂れ下がった、女の顔が。
伊右衛門は、夜ごと、その音に怯えるようになった。
ある夜、伊右衛門は鏡の前で、髪をとく音を聞いた。
振り返った。
誰もいなかった。
鏡に視線を戻した。
鏡の中に、お岩がいた。
すぐ後ろに。
息がかかるほど、近くに。
お岩は、笑っていた。
垂れ下がった右目で、伊右衛門を見つめながら。
新田は、そこで言葉を止めた。
焚き火の周りは、完全な静寂だった。子供は二人とも、大人にしがみついて固まっていた。
「これで、この話は終わりです」
新田は静かに言った。
「ですが、ひとつだけ、注意してほしいことがあります」
誰も動かなかった。
「今夜は、鏡を見ない方がいいです」
子供が小さく声を上げた。
「もし見てしまったら」
新田は一人一人の顔を、ゆっくりと見回した。
「そこには」
新田は言葉を切った。
焚き火が、ぱちりと音を立てた。
「……いえ。なんでもありません。今夜は、ここまでにします」
新田は立ち上がった。
誰も動かなかった。
「お気をつけてお帰りください」
村人たちは、ゆっくりと立ち上がった。誰も一人にはならなかった。固まって、肩を寄せ合って、村へ戻っていった。
その様子を、少し離れた場所から聡が見ていた。
「新田」
「はい」
「お前、語りの才能あるな」
「そうですか」
「最後の『鏡を見ない方がいい』、あれ余計に怖かったぞ」
「効果的だったなら良かったです」
聡は新田を見た。
「……お前、本気でお岩さんが来るとか思ってないよな」
「分かりません」新田は静かに言った。「怪異とは、人の認識が生み出すものとも言われています」
聡は少し黙った。
なるほど、と思った。新田の言葉には、いつも嘘がない。だからこそ怖い。
新田は焚き火に水をかけた。
火が消えた。
新田は静かに歩き出した。
聡はその後ろ姿を見送った。
夜風が、少し冷たかった。
その夜。
聡は寝る前に、トイレに行った。
古い家のトイレには、小さな鏡があった。
手を洗いながら、聡は何気なく鏡を見た。
自分の顔が映っていた。
いつも通りの顔だった。
聡は水を止めて、顔を上げた。
鏡の中の自分の、すぐ後ろに。
何か、白いものが、見えた気がした。
聡は、振り返った。
誰もいなかった。
トイレの扉も、閉まったままだった。
聡は、もう一度鏡を見た。
自分の顔だけが、映っていた。
聡は静かに鏡から離れた。
部屋に戻り、布団に入った。
目を閉じて、しばらくしてから、思った。
やべぇ、ちびった。




