私、きれい?
朝だった。
宿の天井を見つめながら、聡はぼんやりと考えた。
異世界に来て二日目。昨日一日で分かったことがある。この世界にオカルトはない。幽霊もゾンビも吸血鬼も、全部普通にいる。そして清子は完全にやる気になっている。
聡は起き上がり、窓の外を見た。村の朝は早い。すでに人が動いている。普通の村だ。普通の朝だ。
ふと、思った。
異世界、といえば。
ステータスとかあるんじゃないか?
王道ファンタジーなら絶対ある。転移したら必ずある。レベルとか、スキルとか、能力値とか。そういうやつだ。
聡は少し迷った。恥ずかしいが、誰も見ていない。
「……ステータス、オープン」
出た。
本当に出た。
目の前の空中に、薄く光る文字が浮かんでいた。
水瀬聡
レベル:1
能力:【空想の固定化】
聡は食い入るように読んだ。レベルはともかく、能力が気になった。
空想の固定化。
なんだそれは。
意味が分からない。とりあえず使ってみようと思った。
「……空想の固定化」
何も起きなかった。
本当に何も起きなかった。
聡はしばらく待ったが、やはり何も起きなかった。説明もない。変化もない。ただ朝の空気があるだけだった。
まあいいか、と思った。後で考えよう。
食堂に降りると、全員すでに集まっていた。
「みんな、ステータス確認したか?」
聡が言うと、清子が振り返った。
「したわ!」
目が輝いていた。嫌な予感がした。
「私ね、変身できるのよ。どんな人にも。声も体型も顔も全部」
「……どんな人にも?」
「どんな人にも」
聡は少し考えた。それは諜報員や暗殺者が持つべき能力だ。間違っても高校生の部長が持っていい能力ではない。
「田中は?」
「錬金術です」田中が胸を張った。「素材さえあればなんでも作れます。金属も、薬品も、複合素材も」
「……国家レベルの能力じゃないか」
「そうですね」
「吉田は」
「幻影です」吉田が静かに言った。「幻覚、人影、音、血痕。存在しないものを存在するように見せられます」
「新田は」
「概念の植え付けです」新田が淡々と答えた。「人の認識に、特定の考えや感情を浸透させられます」
聡は全員の能力を聞いて、少し黙った。
全員、チートだ。
普通に考えたら世界を動かせるレベルの能力が四つ揃っている。これだけの力があれば、元の世界に帰る方法を探すことも、この世界で生き延びることも、なんだってできるはずだ。
「聡くんは?」
清子が聞いた。
「空想の固定化、らしい」
「なにそれ」
「俺も分からん。使ってみたけど何も起きなかった」
「ふーん」
清子はあっさり興味を失った。そして立ち上がり、テーブルの上に紙を広げた。
「じゃあ作戦会議始めるわよ」
「待て、俺の能力の話は」
「後でいいじゃない」
「お前が聞いてきたんだろ」
清子はすでに羽根ペンを手に持っていた。聡の抗議は届いていなかった。
「手始めに何をやるか」
清子が全員を見回した。
「口裂け女よ」
即答だった。
「理由は?」
聡が聞くと、清子は当然とばかりに答えた。
「私が変身できるから。シンプルが一番よ」
確かにシンプルだった。シンプルすぎて頭が痛くなった。
「変身って、どこまで変身できるんだ」
「なんでも。背丈も、顔も、声も」
「……それ、普通に考えたら国家レベルの能力じゃないか」
「口裂け女に使うわ」
「もったいない」
「いいのよ。やりたいことやるのが一番」
清子はそう言って紙に何かを書き始めた。聡は反論を諦めた。
「で、具体的にどうする」
田中が前のめりになった。道具の話になると目の色が変わる。
「まず私が口裂け女に変身する」清子が言った。「夜、村の外れで出没する。それを村人に目撃させる」
「演出は俺が担当します」吉田が手を挙げた。「霧とか、不自然な影とか、足音とか。雰囲気作りは任せてください」
「小道具は?」田中が続けた。「マスクが必要ですよね。口裂け女といえばマスク」
「そうね。あとハサミ」
「ハサミ」
「『私、きれい?』って聞いてマスクを取ったとき、ハサミを持ってるのが口裂け女よ」
田中は即座にメモを取り始めた。この男は本当に道具の話になると人が変わる。
「新田は?」
清子が新田を見た。
新田は静かに答えた。
「目撃情報が出た翌日から、噂を流します。『夜道で不気味な女を見た』『マスクをした女が立っていた』。数日で村全体に広がるように調整します」
「調整って、どうやって」
聡が聞くと、新田は少し考えてから答えた。
「人には、信じたい話と信じたくない話があります。信じたい話は勝手に広がる。私はそのきっかけを作るだけです」
聡はその答えの意味を考えた。考えたが、よく分からなかった。ただなんとなく、この男に逆らってはいけない気がした。
準備に三日かかった。
田中が村の鍛冶屋から素材を調達し、錬金術でマスクとハサミを作った。マスクの出来は本物だった。というより、本物以上だった。白くて滑らかで、見ているだけで不安になる質感がある。
「どうやって作ったんだ」
「錬金術です」
「錬金術でマスク」
「錬金術でなんでも作れます」
聡は田中の持つ白いマスクを見た。国家レベルのチート能力がマスク製造に使われている。何か間違っている気がしたが、指摘する気力がなかった。
吉田は三日間、村の外れを歩き回って地形を確認していた。どこで霧を出すか、どこに影を落とすか、足音をどこから響かせるか。演出家としての本能が全開になっていた。
「吉田、楽しそうだな」
「楽しいです」
即答だった。
「お前、ホラー演出の才能あるんじゃないか」
「そうだといいんですけど」吉田は少し照れたように笑った。「幽霊とか怪異とか、本当は好きなんですよね。でも現実にいると普通じゃないですか。だからせめて、怖いものを作りたくて」
聡は少し意外だった。吉田がそんなことを考えていたとは思わなかった。
「じゃあこの世界、辛くないか。怪異が普通にいて」
「辛いですよ」吉田は笑ったまま言った。「でも部長が作るって言うから。それなら俺、全力でやります」
聡はそれ以上何も言えなかった。
作戦決行は三日目の夜だった。
深夜、村の外れの街道。民家はなく、街灯もない。月だけが道を照らしていた。
聡は物陰から様子を見ていた。本当は参加したくなかったが、清子に「見張り役」と言われたので仕方なく来ている。見張り役が何を見張るのかは不明だった。
吉田が先に動いた。
街道に薄い霧が立ちこめ始めた。月の光が霧に散乱し、道全体が青白く染まる。どこからか、足音が聞こえ始めた。一定のリズムで、しかし近づいてくる方向が分からない。
聡は思わず鳥肌が立った。
怖い。普通に怖い。
その時、街道の向こうに人影が現れた。
女だ。
白いコートを着て、白いマスクをつけている。長い黒髪が月明かりに光っている。立っているだけで、そこだけ空気が違う。
清子だ、と聡は分かっていた。分かっていたが、それでも怖かった。
やがて村の方から、酔った様子の男が街道を歩いてきた。
男は霧の中の人影に気づき、立ち止まった。
女が、ゆっくりと振り返った。
「……私、きれい?」
声が低く、静かに響いた。
男は固まった。
「き、きれいだ」
女はマスクを外した。
耳まで裂けた口が、月明かりに晒された。
「これでも?」
男の悲鳴が夜の村に響き渡った。
翌朝から新田が動いた。
村の酒場、井戸端、市場、広場。人が集まる場所を静かに回り、会話に混ざり込んだ。余計なことは言わない。ただ一言だけ。
「夜道で、マスクをした女を見たそうですよ」
それだけで十分だった。
昨夜の男がすでに話を広めていた。新田はその火に、静かに油を注いだ。
「きれいかどうか聞いてくるらしい」
「マスクを取ったら、口が裂けてるって」
「夜一人で歩いたら危ない」
噂は村人の口から口へ、瞬く間に広がっていった。
その様子を酒場の端で見ながら、新田は聡の隣に座っていた。
「早いな」
聡が呟くと、新田は静かに答えた。
「人は怖い話が好きですから」
「お前は?」
「私は」新田は少し間を置いた。「噂が広がる様子を見るのが好きです」
聡はその横顔を見た。何を考えているのか、やはり分からなかった。
五日後。
村に新しい目撃情報が出た。
清子たちが何もしていない夜だった。
「……あれ?」
聡は新田を見た。
新田は静かに頷いた。
「噂が、一人歩きを始めました」
聡は少し嫌な予感がした。
その予感が正しかったことを、聡はもうすぐ知ることになる。




