異世界にオカルトはない
最悪だ。
水瀬聡は薄暗いトンネルの中で、そう思った。
壁に生えた苔の匂い。足元に広がる水溜まり。どこからか聞こえる滴る水音。どれをとっても心霊スポットとしては満点の環境だが、聡にとってはただただ不快なだけだった。
「聡くん、感じる?この空気」
前を歩く恩田清子が振り返り、目を輝かせながら言った。オカルト研究会部長。聡の幼馴染。そして今日この場所に聡を引きずり込んだ元凶である。
「感じない」
「嘘。絶対感じてる」
「感じてない」
「霊感ゼロの人間でも感じるって噂なのよここ」
「だから感じてないって言ってんだろ」
清子はつまらなそうに口を尖らせたあと、すぐにまた前を向いた。懐中電灯の光が揺れ、トンネルの奥へと伸びていく。
聡がここにいる理由はひとつだ。清子に「来て」と言われたから。それだけだ。断れなかった理由は――まあ、幼馴染だからということにしておく。
「田中くん、録音できてる?」
「バッチリです部長」
後ろから田中錬司の声がした。自称部長の右腕。首からICレコーダーをぶら下げ、もう片手にはビデオカメラを構えている。道具への執着心だけは本物だ。
「吉田くんは?」
「霊圧……感じます」
吉田幻一が低い声で答えた。ホラー演出担当。普段は普通の男子高校生なのに、心霊スポットに来た瞬間だけスイッチが入る。聡には理解できない回路だ。
「新田くん」
「はい」
新田概念が短く答えた。口数が少ない。いつも少ない。他の三人が懐中電灯で壁や天井を照らす中、新田だけはトンネルを歩く人間の足元を見ていた。何を考えているのか、誰にも分からない。
オカルト研究会、総勢五名。
聡だけが唯一の非自発的入部者だった。
トンネルの中程まで進んだとき、それは起きた。
光だ。
前触れもなく、トンネル全体が白く染まった。音もない。熱もない。ただ光だけがあった。
「な――」
聡が声を上げる間もなかった。
気がつくと、草原にいた。
青い空。知らない山の稜線。どこまでも続く緑。トンネルは消えていた。アスファルトも、街灯も、遠くに見えていた国道の光も、全部なかった。
五人は草の上に倒れていた。
「……ここ、どこ」
吉田が呟いた。
「トンネルは」
田中が立ち上がり、周囲を見回した。
新田は無言のまま立ち、空を見上げていた。
清子は――
「すごい」
目を輝かせていた。
「これ、異世界転移じゃない!?」
聡は額に手を当てた。
最初の夜は近くの村で過ごした。
言葉は通じた。不思議なことに、現地の人間と普通に会話できた。村人たちは突然現れた五人組を警戒しつつも、一晩の宿を貸してくれた。
翌朝から清子は動いた。
オカルト研究会部長の本領発揮とばかりに、村中を歩き回り、話を聞いて回った。聡も半ば引きずられる形でついていった。
そして気づいた。
この世界には、ゴーストがいる。
普通にいる。
村の外れの古い家に、幽霊が住んでいる。それを村人は知っている。怖がってもいない。「ああ、あそこの幽霊さんね」という感じで話す。
ゾンビもいる。
村の墓地の管理をしているのがゾンビだ。働き者として村人に好かれている。
吸血鬼の商人が月に一度やってくる。良心的な値段で取引するので評判がいい。
「ちょっと待って」
聡は村人との会話を途中で打ち切り、清子の腕を掴んだ。
「この世界、普通に幽霊もゾンビも吸血鬼もいるぞ」
「うん」
「知ってた?」
「さっき知った」
「どう思う」
清子は少し黙った。
聡は期待した。さすがの清子も現実を受け入れるだろうと思った。異世界に飛ばされた上に、オカルトが日常の世界だったと知れば、いくら清子でも――
「つまり」
清子が口を開いた。
「この世界には『オカルト』という概念がないのね」
正確な分析だった。そう、これが問題の核心だ。幽霊がいる。ゾンビがいる。吸血鬼がいる。しかし誰もそれを「怪異」だとは思っていない。なぜなら全部、普通だからだ。普通にそこにいるからだ。未知でも恐怖でもない。ただの日常だ。
だから「オカルト」という概念が存在しない。
恐怖としての怪異が、ない。
「……そういうことになるな」
「オカルト研究会なのに、オカルトがない世界に来てしまった」
「そういうことになるな」
清子はしばらく黙っていた。
聡は初めて清子が落ち込むところを見た気がした。幼馴染として十年以上付き合ってきたが、清子がここまで言葉を失うのは珍しかった。それだけオカルトが清子にとって大切なものだったということだ。
聡は少しだけ、申し訳ない気持ちになった。
ほんの少しだけ。
夜。
宿の一室に五人が集まった。
田中は荷物の整理をしていた。吉田は窓の外を眺めていた。新田は壁にもたれて目を閉じていた。清子はベッドに座り、膝を抱えていた。
重い空気だった。
聡は何か言おうとして、やめた。気の利いた言葉が出てこなかった。そもそも聡はオカルトに興味がない。だから「残念だったな」という気持ちは本物だが、その先が続かない。
沈黙が続いた。
「ねえ」
清子が口を開いた。
「なに」
「オカルトがないなら」
清子は顔を上げた。
目が輝いていた。
さっきまでの落ち込みは、どこにもなかった。
「作ればいいじゃない」
聡は三秒かけてその言葉の意味を理解した。
「……は?」
「この世界にオカルトがないなら、私たちが作ればいい」田中が手を止めた。吉田が振り返った。新田が目を開けた。「幽霊はいる。ゾンビはいる。でも誰も怖がってない。ならば――恐怖としての怪異を、私たちが生み出せばいい」
「正気か」
「至って正気よ」
「いや絶対違う」
「聡くんは黙ってて」
「なんで!?」
清子は立ち上がり、全員を見回した。
「オカルト研究会を改め」
そして高らかに宣言した。
「オカルトギフターズ、結成!」
田中が拍手した。吉田が「おお」と声を上げた。新田が小さく頷いた。
聡は頭を抱えた。
「お前ら乗るのかよ」
「だって面白そうじゃないですか」田中が笑った。「この世界にオカルトを広める。最高じゃないですか」
「吉田は?」
「演出、やりがいありそうです」
「新田は」
新田は少し間を置いてから答えた。
「部長の頼みですから」
それだけだった。それだけで十分だった。
聡は全員の顔を見回した。全員、本気だった。清子は言うまでもない。田中も吉田も新田も、目が本気だった。
聡はため息をついた。
「……俺、王道ファンタジーがやりたかったんだけど」
「今がチャンスじゃない。異世界にいるんだから」
「お前らがいる時点で無理だろ」
清子が笑った。
窓の外では、村の外れの古い家に明かりが灯っていた。幽霊の家だ。誰も怖がらない、ただの隣人の家だ。
聡はそれを眺めながら、静かに思った。
こうして俺たちは、異世界へオカルトを配ることになった。
後に世界中から恐れられる迷惑集団――オカルトギフターズの、これが始まりである。




