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秦宗佐×鈴   『俺だけ』

 昨日は一日じゅう雨だった。今朝もずっと降り続いている。その雨足は宵のうちに一度弱まったものの、夜明けとともにまた勢いを取り戻していたらしい。

 『KISSME』のメンバーのひとりである秦宗佐は事務所に向かう車の中で、ざあざあと雨の降る暗いビル街を見つめていた。暴力的な風が、ビルの窓や外灯、街路樹を容赦なく叩きつける。分厚い雲が空を隙間なく埋めていて、太陽の位置すら分からない。街はひっそりとして、人影はほとんどなかった。


「午後の撮影……」

「撮影はおそらくありますね」


 宗佐の囁くような呟きに、ハキハキとした返答があった。宗佐はちらりと運転席に目をやった。

 長い髪をひとつにまとめ、布製の薔薇のバレッタで留めた後頭部が見える。バックミラーには、意思の強そうなぱっちりとした釣り目が映っている。

 宗佐の担当マネージャーである園山だ。もうひとり、メンバーの大伴美有貴のマネージャーも兼ねている。園山は宗佐の応答がないのにも気にせず、話を続ける。


「昨日の現場の感じだと、スタジオ撮りに変更になるでしょうね。着いたら確認の連絡いれます」

「んー」

「もし、撮影があるようでしたら、手が空いている者に運転させます。先ほどもお伝えしましたが、私は美有貴さんを迎えに行きますから」


 美有貴は今日、高校の登校日だ。単位が取れるように計算された日数ぶん通っている。宗佐も通った道だが、今の美有貴ほど忙しくはなかっただろう。

 美有貴は忙しくても、いつも楽しそうに毎日を過ごしている。おそらく宗佐だけではなく、美有貴を見る者全てがそう感じることだろう。見る者全てが元気づけられるような笑顔を、彼はなんでもないかのように周囲に振りまいている。

 それは宗佐にはけして出来ないことだ。

 車の窓ガラスにも水滴はびっしりとついている。進行方向に沿って、次へ次へと水の斜線をつくって、下方へ流れて行く。

 渋滞を抜け、細い街路への曲がり角でウィンカーを作動させ、カーブした。減速したとき、宗佐の視界の端に、ちらりと青い傘が見えた。レインブーツを履いた小柄な女性だ。


「園山、先行ってていい?」

「はい。会議室Aを取ってあります」

「うん」


 園山が駐車するのを待てず、入り口で警備員と挨拶をしている隙に、宗佐は後部座席からさっと抜けだした。警備員に一声掛け、ゲートを開けてもらい、階段を駆け上がった。

 一階に到着すると、ビル玄関前であの青い傘がちょうど閉じられるところだった。


「鈴」


 自動ドアをくぐり、バッグからなにかを探している彼女に声を掛けた。


「あっ、宗佐くん。おはようございます」


 ぱっと顔を上げ、自分を呼んだのが宗佐だと知ると、鈴は不思議とほっとした。仕事場だからと気が張っていたからかもしれない。

 鈴は、サブバッグからカードタイプの社員証を取り出すと、受付に設置されたゲートに通した。ガシャンと大仰な音が響き、ゲートが開く。


「おはよう。……濡れてる」

「あっ、やっぱり。うわ、ひどい……。風強いと、傘なんて役立たずですね」


 上に向かいましょう、と鈴がエレベーターの上階ボタンを押した。

 鈴はバッグから手鏡を取り出して自分の姿を確認してため息をついている。雨に濡れた髪が頬や額に張りついている。うっとうしいのか、それとも髪型を直そうとしているのか、小さな手で忙しなく掻きわけはじめた。髪から落ちた水滴が、肩や胸に染みをつけていった。

 宗佐はエレベーターが来るまでじっと見守った。


「そういえば、宗佐くんは濡れてないですね。大丈夫だったんですか?」

「……ああ、車だったから」

「あ、そうだったんですね。それはよかったです」


 鈴はエレベーターに乗りこむと、開ボタンを押して宗佐を待った。8人乗りの小型エレベーターとはいえ、ひと足で中央まで乗りこめるスライドの大きさが羨ましい。


「風邪ひいちゃうと大変ですからね。雨に濡れた服を着たままにしておくと、体温を常に奪いつづけますから。わたしとしても、濡れた服をそのままにしておくのはお勧めできないです。染色技術が進歩したとはいえ、どうしても多少色落ちしたり、色移りしたり、型崩れしたり、痛んだりしてしまいますから」

「……」


 宗佐は無言のまま、手を伸ばし、鈴の濡れた髪をすくい上げた。水分を含んだ髪はずっしりと重い。するすると手の中から抜けていき、毛先からぴしゃんと水滴が跳ねる。


「脱ぐ?」


 髪の毛を払い、水滴のついた柔らかい頬に手の甲を擦りつけると、彼女はびくりと身体を震わせた。


「寒い?」

「えっ、あの……」


 鈴の頬に手を当てたまま、宗佐が顔を覗きこんでくる。身体が硬直して動けなかった。

 鈴はエレベーターの表示パネルをちらと見た。いつもならすぐに昇降するはずなのに、やけにゆっくりと昇っている気がする。今すぐにでもここから逃げ出したいのに、それはかなわない。


「濡れたままだから」

「え」

「風邪……ひくよ」

「え? え?」

「こっちに来て」


 小さな振動の後、ポーンッ、と音が鳴って扉が開いた。

 先を行く宗佐に続いて歩きだしたものの、鈴はいまだにまだ状況を分かっていなかった。疑問に思いながらも目の前を歩く大きな背中についていった。

 夜勤明けらしく眠たそうな社員に軽く挨拶しデスクの脇を通りぬけ、宗佐はシャワールーム前で立ち止まり、振り返った。


「拭くか、脱ぐか、したほうがいい。風邪ひくから」

「あ! ……なるほど」

「なるほど?」

「いえっ、あの……ありがとうございます……。今は、拭くだけにしておきます」


 つまり、宗佐は濡れた鈴を心配してくれたのだ。

 『脱ぐか』と端的に言われたときは、思わず逃げ出したくなるほどぎょっとした。単純に、ここで脱げと言われているのかと思ったのだ。よくよく考えてみれば、そんなことを宗佐が言うはずがないし、言う人間がいたならただの変態である。どれだけ気が動転していたのだろう。

 鈴は自分に呆れてがくりと首折れた。どうしてそんな勘違いをしたのか分からない。とても恥ずかしかった。

 宗佐は倉庫から備品の乾いたタオルを引っ張りだしてきて、ぐいぐいと鈴の頬や頭を拭いてくる。宗佐にとっては普通なのだろうが、少しひりひりと痛いくらいだ。だが、恥ずかしさでいっぱいの今の鈴にとっては、頬の赤らみが誤魔化せて有りがたい。

 鈴は宗佐にタオルを譲ってもらい、その他の場所を拭いていった。頭部は宗佐にほとんど拭いてもらった。アイドルであり、仕事上のパートナーである相手に、事務所の廊下でさせることではない。


「こっちは、大丈夫? この、バッグのなか」

「はい?」


 なにもすることがなくなった宗佐は、しばらく髪の毛を整える鈴を眺めていたが、ふと彼女の肩に掛けられたバッグに目をやった。キャンパス地の、いわゆるトートバッグで、鈴の身体に掛けるには幾分か大きい。肩に食い込んでいて、重量もありそうだ。

 宗佐がぬっと手を伸ばしてきたので、鈴はびくっとして、思わず距離を取ってしまう。行き場を無くした手が、さきほどまでバッグのあったあたりをさまよった。


「……バッグのなか、濡れてないかと思って」

「あ、ああ、ええと、大丈夫です。問題ないです。ありがとうございます」

「そう?」

「ほら、大丈夫ですよ」


 宗佐の疑いの目に、トートバッグから、ビニールに包まれた大小様々なノートやスケッチブック、クロッキーブックを取りだして見せた。ぐっと近づいてくる宗佐の顔の前に掲げたのは意識的な防御行動だ。


「なに? これ」

「仕事道具です。番組・雑誌ごとにそれぞれ許可されているブランドをまとめたり、写真・切り抜きを貼ったり、デザインを描いたり。みなさんの成長日記みたいな全サイズ一覧もありますよ。もしもこれが濡れたら、わたしおしまいですから。ビニールで二重に包んでます」

「ふうん」


 スケッチブックの陰に隠れていても、宗佐がじっと見下ろしてきているのがわかる。

 今度は何だろう、と彼が口を開くのを待つが、しばらく待っても何も言ってこなかった。そろそろ他社員が多く出勤してくる時間帯だし、鈴も今日の仕事に手をつけなければいけない時間にさしかかっている。宗佐の仕事も問題ないのだろうか。

 鈴のほうが待ちきれなくなって、ちらりと陰から顔を出した。


「あの、宗佐くん?」

「うん」

「わたし、そろそろお仕事に行かなくてはいけないんです。宗佐くんも、お仕事……」

「うん。鈴。見たい」

「見たい? ……って何を」


 宗佐は鈴の手に自分の手を添えた。鈴の小さな手ごと、湿り気を帯びたビニールの包みを持つ。


「鈴の仕事……見たい」

「えっと、このノートの中身を見たい、ってこと、ですか」


 もしかしてと尋ねてみたことに、こくんと頷かれて、鈴は困った。


「お見せするようなものじゃないですよ。ボツになったものもありますし、構想段階で止まってるものもありますし」


 裏方スタッフのストップによって先へ進んでいない企画とか、次々回のツアーイメージだとか、宗佐たちにも見せられないものも多いのだった。

 それに、もっと見られてはまずいものがある。


「出来あがってから見ていただきたいですし……って、そ、宗佐くん、返してくださいっ」


 できるだけ見られない方向に持っていこうとうんうんと唸っている隙に、ぱっと宗佐がその手からビニールの塊を奪ってしまう。

 奪われたものは、宗佐の頭よりも高いところに持ち上げられている。取り返そうと手を伸ばしても、宗佐と鈴の身長差では届くはずもない。


「どこ行くんですかっ、返してください」


 そのままどこかへ歩いていこうとする宗佐の背を追う。必死に早歩きをしているが、エレベーターで感じた歩幅の違いは埋まるはずもない。曲がり角で見失いそうになりながら追いかけた。

 応接室の並ぶ廊下を抜け、会議室Aに辿りついた宗佐は、迷わずそこへ入った。中には誰もいない。

 園山はどこへ行ったのだろうと宗佐は頭の隅で不思議に思った。違う仕事へ呼ばれて行ったのかもしれない。

 だが、宗佐はそれ以上園山のゆくえを考えなかった。それよりも中身を見ることのほうが重要だ。きっちりとテープで留められたビニールを、半ば破るようにして開く。


「ダメです、見ちゃダメです」


 鈴が会議室Aの扉を開け、制止したときには遅かった。宗佐は、よりにもよってスケッチブックをはじめに開いてしまっていたからだ。


「……俺?」

「うあああああ」


 どうして雨が降っているのに今日持ってきてしまったのだろう。後悔しても遅い。鈴は頭が真っ白になった。


「新しい服?」

「ええと……。あの、宗佐くんの、たくさん思いついてしまって、そのスケッチブックに。お遊びのものがごちゃごちゃに入っててですね……見られたくなかったっていうか……。たまにコスプレ服に流用したのもありますけど、ほとんど使えないもので、恥ずかしくてですね、見られたくなかったんですが」


 二回、見られたくないと彼女は言った。そんなに見られたくなかったのだなと宗佐は思った。

 スケッチブックのなかには、一目で宗佐と分かるがっしりとした体格が並んで描かれていた。それらは、いつも宗佐のために用意されている、落ち着いていて、かつ、爽やかな衣装とは印象が異なっている。情熱的なもの、ゴシックなもの、ロックなもの、美有貴が着ていそうなポップなものもある。

 確かに、見たくなかった、と宗佐は思った。

 彼女の手によって描かれた『宗佐』は、何を着ても完璧だった。宗佐自身が実際に着たならきっとおかしいはずなのに、それが当然であるかのような顔をしてそこに佇んでいる。

 雨に濡れて消えてしまえばよかったのに――鈴の仕事道具であり、とても重要なものなのだとわかっているのに、宗佐はなぜかそんな残酷なことを考えた。宗佐は完璧ではない。なれないものがある。とくに、周囲を幸せにできるような人間には。


「……宗佐くん?」


 無言の間に、鈴は不安になった。仕事のためにもならない服を延々と書かれているというのは、やっぱり気持ち悪いだろうか。


「これ、他の、メンバーのも、ある?」

「いえ、あの……」


 言い淀む鈴に、宗佐はスケッチブックを捲る手をとめ、顔を上げた。


「そ、宗佐くんだけです」


 しばらくの沈黙ののち、鈴は恥じ入りながら白状した。鈴の手が止まらなくなったのは、彼だけなのだ。それがなぜだか、鈴には分からなかったけれど。


「俺だけ?」


 宗佐の顔にふわりと柔らかな笑みがささやかに浮かんだ、ような気がした。


「宗佐くん、あの、わたし――」


 コンコン、というノックの音に、鈴は言葉を飲み込んだ。

 わたわたとドアを開けると、見事なオフィスメイクをした、ライトグレーのスーツの女性がそこにいた。園山マネージャーである。


「石川さん? どうしてここに」

「はいっ、すみません。色々あってあの」

「色々ってなんですか。お仕事はどうされたんですかっ。濡れたままですし、着替えたほうがいいんじゃないですか? 着替えがないなら、私のスーツの替えが三着ほどありますから、使って下さい。持って来ましょう」

「いや、あの、わたしもロッカーにあるので」

「そうですか? それならいいんですが。と、いうか、宗佐さん! どこにいらしてたんですか。探しましたっ! やめてくださいよ、先に行くって言って消えるのは。何かあったのかと心配するじゃないですか。やっぱり一緒に行ったほうがよかったですね。今後気をつけます」

「……あー」

「それと、午後の撮影ですが、やはりスタジオで撮影するそうです。シーンで言うと――」


 園山のマシンガンのような発言の嵐に、鈴が発言する隙間はない。


「鈴」

「宗佐くん、大事な連絡じゃないんですか」

「大丈夫」


 園山が手帳に書いたメモを読みあげているうちに、宗佐が鈴の仕事道具を返してくれた。小声でありがとうございますと言って受け取った。そもそも勝手に奪っていったのは宗佐のほうで、ありがとうもおかしいのだが。


「……俺も。ありがとう」

「え?」


 すり、と宗佐は手の甲で鈴の頬を擦った。タオルでぬぐったせいか、すこし荒れていてかわいそうだな、と思った。次はもっと優しくしてあげなければならないなと思った。


「俺、欲張りなんだ」

「それって、どういう――」

「聞いていますか」


 鈴は詳しく聞きたかったが、園山に「仕事に行きましょう」と言われては、逆らえるはずもなかった。

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