海の見える街で
「よお!リン先生!こないだはありがとな!」
高台にある診療所の窓からは、立ち並ぶオレンジ色の瓦屋根の向こうに、美しい紺碧の海が煌めいている。パステルカラーの扉が開いて顔見知りの漁師が入ってくると、ふわりと潮の香りがした。
ドンッという音を立てて、診察台の上に大きな箱を置く。
「これ、良かったらクレマン爺さんと食べてくれや。」
日に焼けた肌に、無精髭を生やした漁師の男――アドリアンは、先日の治療の礼にと、漁れたての新鮮な貝類を持ってきてくれたようだ。
数日前、彼が猛毒のクラゲに刺されて苦しんでいたところを、浜辺を散歩中に偶然通りがかったリンがすぐに治療を施し、事なきを得たのだった。
彼には大変感謝され、「この礼は必ず」と言われたのだが、律儀に守ってくれたようだ。
「こんなに沢山……良いんですか?」
「命の恩人に捧げるにゃあ、だいぶ少ねえくらいだ。この爺さんは料理上手だからな。いろいろ作ってもらうと良い。」
「ありがとうございます。……ヴィダル先生も、よろしいのですか?」
「ふぉっふぉっ、わしは構わんよ。……どれ、早速調理するとしようかのう。アドリアン、お前さんはこれを台所まで運んでくれるか。リン君は店番をしておってくれ。」
そう言うと、この海辺の診療所の院長であるクレマン・ヴィダルは、奥の住居スペースへと引っ込んでいった。
リンが、この海辺の街アズールにやってきて、はや三ヶ月余りが経とうとしていた。
あの衝撃的な「婚約者」との遭遇の後、どうしてもすぐにはカイトと向き合う勇気が持てなかったリンは、しばらくの間職場や帝都から離れて、どこか遠くの街で気持ちの整理をつけることにした。――有体に言えば、逃げたのである。
この海辺の街を選んだのは、以前から一度来てみたかったことや、冬でも暖かく穏やかな気候で、憔悴した心を癒してくれる気がしたという理由からだ。
最初のうちは、ただホテルに滞在して、街の観光を楽しんでいただけだったが、ひょんなことから街の診療所の魔法医であるクレマンと知り合い、診療所の手伝いをする代わりに彼の家に厄介になることになった。クレマン曰く、「70を過ぎると流石に体力がのう」とのことである。
診療所を訪れる街の人々とも顔見知りになり、今では街を歩くと気さくに声をかけてくれるようになった。気候の影響か、街の人々もみな穏やかで温かく、リンはすっかりこの街が好きになっていた。
「うわー、とっても美味しそう!いただきます!」
「ふぉ、ふぉ。召し上がれ。」
あれからすぐに手際良く何品も作ってくれたクレマンと、二人で早めの昼食を摂る。今日は朝から穏やかな一日で、診療所は開店休業状態だった。
ニンニクとオリーブオイルを効かせた一品を口に頬張ると、白ワインが飲みたくなってしまった。カイトと二人で通った小料理屋を思い出す。思わず、目の奥がツンとしてきて、料理を掬う手が止まった。
彼は、後遺症なく、無事に回復しただろうか――――。ポトリ、と一滴、皿の上に涙が落ちた。
「……そろそろ、潮時ではないかの。」
クレマンが、穏やかな声で促す。リンは、ハッとして顔を上げた。
この街に来て、人々の温かさに触れて、だんだんと自分の弱さと向き合えるようになったリンには、一つ確信したことがある。リンがカイトと過ごした日々は、決して偽りではないということ。
「貴女に対する僕の態度に、嘘はないから」「片時も離れていたくない」「これから先も……ずっと僕の隣にいてほしい」――――二人で過ごした色とりどりの時間の中で、自分が肌で感じてきた彼の熱量を、信じたい。
(何かきっと、事情があるはず……)
「ヴィダル先生……。ありがとうございます。そろそろ、自分のいるべき所に帰ります。」
「……寂しくなるのう。またいつでも顔を見せておくれ。」
翌日、リンは世話になった街の人々に礼を言い、海辺の街を後にした。奇しくも、時は花の月第二週。帝都フィオラの春祭りが、また今年も始まろうとしていた――――。




