月夜の告白と空中散歩
「そういえば、カイさんの名字って、アガットさんとおっしゃるんですね。」
交代で部屋の露天風呂に浸かった後、ホテルの食堂で早めの夕食を摂ることにした二人は、この辺りの名物料理であるサーモンのグリルに舌鼓を打っていた。ケイパーソースの軽い酸味がサーモンの脂と爽やかにまとまって、ついつい酒も進んでしまう美味しさだ。
「……そ、うですね。まだ言ってませんでしたか。」
「初耳でした。カイさん、なんだか秘密ばっかりなんですもん。――はっ、……もしかして、私を騙そうとする悪い人だったりするんですか?!」
「――ははっ。……悪い人、ね……確かに。……ふふ、秘密だらけで、怪しい奴だよなぁ。」
リンの言葉が何かツボに入ったらしく、カイは口元に手を当ててクスクス笑っている。お互い、温泉で温まった身体で、酔いが回ってきたのかもしれない。
「……もう。ちゃんと答えてください。私、貴方のことを本当に信用して良いのか、未だに悩んでるんですからね!」
「ごめんごめん。……ちゃんと、時機が来たら話しますから、もう少し待ってください。……でも、貴女に対する僕の態度に、嘘はないから、そこだけは信じてほしい。」
(――私に対する、態度……。それって……)
眼鏡の奥の菫青石の瞳が、真剣な色味を帯びて語りかけてくる。リンを見つめる双眸の中に確かな熱を感じて、しばらく目が逸らせなかった。
*****
「……カイさん、……起きてますか?」
「……うん、君も?」
食事を終えて、部屋でしばらく雑談した後、寝支度をしてベッドに入ったものの、やはり隣に横たわるカイの身じろぎや息づかいが気になって眠れないリンは、思い切って声をかけてみることにした。
カーテンの隙間から差し込む月明かりが逆光になり、窓に背を向けるカイの表情はよく見えない。
「あの……、さっき、食事の時に……カイさんが私に言ってたことなんですけど……。」
「……うん。」
リンの問いかけに、カイの声音も心なしか緊張の色を帯びた気がした。
「私に対する態度に、嘘はないって……。それって、その……少しは、勘違いしちゃっても良いってこと……ですか?」
「…………」
いつの間にか、リンはベッドの上に身を起こし、カイの方に向き直っていた。クッションの一つを胸に抱えて、顔を半分埋めている。
「……カイさんは、私のこと、捨て猫か何かだと思ってるのかもしれないですけど……。でも、私はカイさんと過ごすこの時間が、とても楽しくて……。ご迷惑かもって思っても、もっともっと一緒にいたいなって……これが、練習じゃなければ良いのにって……。」
「リン…………」
「カイさんと一緒にいると、自分が大切にされている気になっちゃうんです。……少しでも、好意的に思ってくれているのかなって……。そんな風に、勘違いしちゃっても良いんですか……?」
そうリンが言い終えるか終えないかの間に、カイががばりと起き上がり、リンをクッションごと抱き締めた。
「勘違いなんかじゃない……!……迷惑だなんてこれっぽっちも思ってない!……僕も、同じ気持ちだよ、リン……。実家の猫に似てるなんて言ったけど、そんなのきっと方便で、最初から君に惹かれてただけなんだと今では分かる……。話していくうちに君の人柄にもどんどん好意を持つようになって。自覚したのは最近だけど、きっと初めから……」
ふわり、とカイの髪から洗髪剤の香りがする。耳元には、リンが渡したアイオライトのピアスが光っていた。リンを抱き締める両手は少し震えていて、声も上擦っている。
「…………好きだ……リン。君のことが……どうしようもなく。」
「君がちゃんと僕に好意を持ってくれたら、告おうと思っていた。……練習なんかじゃなく、僕と本当の恋人同士になってくれないか。」
カイの大きな手が、リンの髪を梳くように撫でる。吐息が耳を掠めて、リンの首筋がゾクリと粟立つ。カイはリンを抱えたままベッドに横になり、さらにきつく抱き締めた。
「今日は、このまま寝ても良いかな?……君の温もりを感じていたい……。これ以上は、何もしないと約束するから。」
(――どうしよう。嬉しくて泣きそう……。心がすごくポカポカする。……これが、お互いに愛し合うっていう感覚なのかな……?)
リンは感極まって、こくこくと頷きながらカイの胸の中で少し泣いた後、その温もりにだんだんと気持ちが落ち着けられたのか、いつの間にか眠りについていた。
*****
「……ああ、……か中は、……してこないでくれと………。何?……はあ、仕方ない。……了解した。明日の始発で戻る。……いや、それは事情があって使えない。……私が戻るまでは、何かあってもそちらで対応してくれ。」
どのくらい眠っていたのだろうか。バルコニーの方から誰かと会話する男性の声がして目が覚める。わずかに苛立ちを感じる、冷たい口調。朦朧とした意識の中、それがカイのものだと理解するのに、しばらくの時間を要した。何かあったのだろうか。初めて耳にする彼の冷徹な声音に、不安な気持ちが湧いてくる。
隣にいたはずの彼の温もりが、布団の中にまだ残っていて、一抹の寂しさを感じている自分に驚いた。ふと、就寝前のやり取りが鮮明に思い浮かび、羞恥に身悶えする。あれは、もしや夢だったのでは……。そんな風にリンが半信半疑になっていた時。
「……起こしてしまったかな。」
誰かとの通話を終えて室内に戻ってきたカイが、ベッドの中に潜り込みながら話しかけてきた。リンのことを気遣う、いつも通りの優しい口調。徐に伸びてきた両腕は、当然のように再びリンを包み込んだ。
「……っ、ま、待ってくださ……ちょっと、ちか……」
今更ながら冷静になったリンは、カイの胸に手を押し当てて少し空間を作ろうとするが、遮るようにギュッと引き寄せられてしまった。
「……やだ。もっと君とくっついていたい。」
子供が駄々を捏ねるように、頭の上でイヤイヤしたカイは、それでもリンを尊重してくれたのか、少しだけ腕を緩めて距離を空けてくれた。
「……何か、あったんですか?」
「……すまない。職場から連絡があって、どうしても明日の早朝に戻らなければならなくなった。せっかくの君との旅行だというのに……。君は、予定通りもう一日泊まっていくかい?」
リンが心配しながら尋ねると、カイは心底申し訳なさそうに、そして悔しそうに答えた。本来なら二泊三日の予定で来ており、明日も周辺を観光する予定であったのだが。
「そうなんですね。……私も、一緒に帰ってもいいですか?カイさんがいないのに、ここに残っても、つまらないですから。」
「……そうか。分かった。……この埋め合わせは近いうちに必ず。」
「……ふふ。ありがとうございます。……!そうだ。そうしたら、埋め合わせに一つ、お願いしてもいいですか?」
リンが思いがけずしてきた提案に、カイは興味深そうな目をして頷いた。
「なんなりと。僕にできることであれば。」
*****
「うわあああ!すごく綺麗!……やっぱり、空から見るのって全然景色が違いますね!」
湖面に月影が落ちて、キラキラと輝いている。視界を遮るものなく広大な湖が眼下に広がっている。遙か上空から見下ろす月夜のユネス湖の景色は、昼間の様相とはまた異なった静謐な美しさを湛えていた。
埋め合わせというのを口実に、また空中散歩をしてみたいとねだったリンは、カイにお姫様抱っこで抱き抱えられながら、ホテルのバルコニーから夜空へ飛び立った。昼間、元彼から姿を隠すのに使用した魔道具を使って、夜の闇に紛れている。
前回空を飛んだ時と、カイの靴が違うような気がするが、そこはあまり突っ込まないことにした。
「姫がお望みとあらば、どんな景色でもお見せしますよ。」
くすくす、と笑いをこぼしながら、愛しくてたまらないといった目つきでリンを見つめるカイ。完全にリンのことをお姫様扱いしてきて、なんだか擽ったい。
「またどこか綺麗な景色を空から見せてくれるんだったら、今回のことは許してあげても良くってよ。」
カイの腕にしっかりと抱かれた安定感から、リンは然程恐怖も感じることなく、悪ノリする余裕も出始めた。こんなことができるなんて、並大抵の人物ではなさそうだという気はしたが、この関係性が壊れるのが嫌で、カイの秘密を暴こうという気にはなれなかった。
ひとしきり空の散歩を楽しんだ後、またホテルのベッドに戻って二人で抱き合いながら眠りについた。この幸せがずっと続けば良いと願いながら。




