外伝三『シュレディンガーの告白』【B面】環奈に告白した未来
【B面】環奈に告白した未来
六月の第一土曜日。
悠真は環奈を、駅前のカフェに誘った。
二人きりで。
「珍しいわね、あなたから誘うなんて」
「たまにはいいだろ」
カフェの窓際の席。環奈はカフェラテ。悠真はブラックコーヒー。午後の日差しがテーブルの上に落ちている。
環奈は紅茶派だが、このカフェのカフェラテだけは好きだった。悠真がそれを知っていたことに、環奈は少し驚いた。
「話があるんだ」
「聞くわ」
環奈のカップを持つ手が、微かに止まった。悠真の声のトーンが、いつもと違う。飄々としていない。真剣な響きがある。
悠真はコーヒーを一口飲んで、カップを置いた。
「環奈。俺は確率を操作できる。世界の全てを、望む形に歪められる。でも、一つだけ、操作したくないものがある」
「……何?」
「お前の気持ちだ」
環奈の心拍数が、跳ね上がった。
「だから、操作しない。確率もいじらない。純粋に、俺の言葉だけで言う」
悠真は環奈を真っ直ぐに見た。
「好きだ、環奈。お前のことが」
カフェのBGMが、やけに大きく聞こえた。ジャズピアノの静かな旋律。
環奈は、カフェラテのカップを両手で包んだまま、固まっていた。
顔が赤い。氷の才媛の仮面が、音を立てて剥がれていく。
「……確率を、操作していない、のね?」
「していない」
「私が頷く確率を上げたり、断る確率を下げたりは」
「一切していない」
「……本当に?」
「本当に。氷室環奈の返事は、氷室環奈だけのものだ」
環奈は長い沈黙の後、カフェラテを一口飲んだ。手が震えていて、少しこぼした。
「……不覚ね」
「何が」
「こういう時に何を言えばいいか、本で読んだことがないわ」
「本に書いてないなら、自分の言葉で言えばいい」
環奈は悠真を見た。カフェの午後の光が、彼の横顔を照らしている。
「あなたのテストの点数が不自然だって気づいた日から、ずっと。あなたを観察して、分析して、知ろうとしてきた。知的好奇心だと思っていたわ。ずっと」
環奈はカップを置いた。
「でも今、言われて気づいた。知的好奇心だけなら、裏山で命を狙われた後に引き下がっている。合理的にはそうすべきだった。でも引き下がらなかった。なぜか」
環奈の黒い瞳が、悠真を射抜いた。
「あなたのそばにいたかったから。それ以外の理由が、見つからないの」
「それは」
「好き、ということよ。たぶん」
「たぶん?」
「確率論的には、99.7%の確信度で」
悠真は笑った。声を出して。
「お前らしい告白だな」
「うるさいわね。慣れてないのよ、こういうの」
環奈の頬が赤い。耳も赤い。首筋まで赤い。カフェラテの湯気のせいではなかった。
◇
それから。
悠真と環奈の距離は、目に見えて近くなった。
通学路を並んで歩く時、肩が触れる距離。以前なら環奈が半歩離れていたところを、今は離れない。時々、指先が触れ合う。どちらも引っ込めない。
「今日の小テスト、どうだった?」
「平均点だ」
「まだそれやってるの?」
「習慣だから」
「……今度、本気の点数、見せてくれる?」
「環奈だけなら、いいよ」
「約束よ」
寄り添って歩く二人を、クラスメイトたちはまだ知らなかった。だが、教室での二人の空気は明らかに変わっていた。
紅音は――気づいていた。
万象の簒奪で心理学者の観察眼をコピーしなくても、わかった。二人の距離感。視線の絡み方。声のトーン。全てが以前と違う。
放課後。紅音は教室の窓から、校門を出ていく悠真と環奈の後ろ姿を見ていた。
二人の肩が、触れ合っている。
紅音の胸に、冷たいものが広がった。
寂しい。
その感情を認識するのに、数秒かかった。紅音は「寂しい」を経験した回数が、人より少ない。施設で育ち、一人で生きてきた。寂しさは慣れっこのはずだった。
でも、これは違った。
一度「隣にいる幸せ」を知ってしまったから。悠真の隣にいる温かさを知ってしまったから。それが少しずつ遠ざかっていく感覚が、今までの孤独よりもずっと——痛かった。
紅音は教室の自席に座ったまま、スマートフォンの画面を見つめていた。
検索窓に、打ちかけた文字がある。
「うさぎ ペット 飼い方」
寂しさを埋めるために。何か温かいものが、傍にいてくれたら。赤い瞳の、小さな子。
紅音はスマートフォンをポケットにしまった。
「……何やってんだろ、わたし」
自嘲気味に呟いて、鞄を持って教室を出た。
◇
翌日の昼休み。
悠真は紅音の異変に気づいていた。
≪虚数演算≫の力ではない。純粋な観察で。紅音の笑顔がほんの少し作り物っぽいこと。いつもより声のトーンが半音高いこと。目が合った時にすぐ逸らすこと。
環奈も気づいていた。こちらも異能ではなく、偏差値七十八の観察力で。紅音の弁当の量がいつもより少ないこと。紅音が悠真と環奈の二人を見る時、一瞬だけ視線が揺れること。
昼休み。中庭のベンチ。いつもの三人。
だが今日の紅音は、食べ終わるのが早かった。
「ごちそうさま。わたし、ちょっと教室戻るね」
「紅音」
悠真が呼び止めた。
「何よ」
「拗ねてるだろ」
「拗ねてないし!」
即答。早すぎる。
「紅音」
今度は環奈が声をかけた。
「最近、元気ないわよ。何かあった?」
「何もないよ! 元気だよ! ほら!」
紅音は力こぶを作ってみせた。
二人は顔を見合わせた。
「「嘘つき」」
悠真と環奈の声が重なった。
紅音は唇を尖らせた。
「……嘘つきじゃないもん」
声が、小さくなっていた。
悠真はベンチから立ち上がり、紅音の前に立った。環奈も立ち上がって、紅音の横に並んだ。
「紅音。俺と環奈が付き合い始めて、寂しい思いさせてるなら、謝る」
「べっ、別に寂しくなんか……」
「紅音」
環奈が、紅音の手を取った。
「あなたは私たちの大切な人よ。それは何も変わらない」
紅音の赤い瞳が、揺れた。
涙が、一滴、零れた。
「……ずるい。二人とも、ずるいよ……」
紅音はぐしぐしと目を擦った。泣き顔を見せまいとして、でも止められなくて。
「わたしだって、わかってるよ……悠真と環奈がお似合いだって。二人が幸せそうだと、嬉しいって……でも……」
紅音の声が震えた。
「でもやっぱり、寂しいものは寂しいの……!」
中庭に、紅音の小さな叫びが響いた。
悠真は紅音の頭に手を置いた。くしゃくしゃと髪を撫でた。
「悪かったな」
「悪くないもん……悠真は悪くないもん……」
環奈が紅音の肩を抱いた。
「一つだけ約束する。三人でいる時間は、絶対に減らさない。放課後も、休日も。クレープも、遊園地も。三人で」
「……本当に?」
「本当よ。私たちだって、紅音がいないと寂しいもの」
悠真も頷いた。
紅音は二人の顔を交互に見た。面と向かってそんなふうに言われると、ちょっと照れくさい。でも、それ以上に——嬉しかった。
「……わたしもう、お邪魔虫なんじゃないかって、思ってた」
「お邪魔虫なわけないでしょう」環奈が呆れたように、でも優しく言った。
「三人でいるのが、俺たちの日常だろ」悠真が言った。
紅音は鼻をすすって、泣きながら笑顔を作った。
悠真と環奈は顔を見合わせて、同じことを思った。
この子は、守らなきゃいけない。二人で。
それから、三人の関係は少しずつ形を変えていった。
悠真と環奈は恋人。紅音は——紅音は。
「紅音は……なんだろうな」
悠真が考え込んでいると、環奈が即答した。
「妹よ」
「妹!? わたし悠真より年下だけど、環奈とは同い年だよ!?」
「精神年齢の話」
「ひどい!」
紅音はむくれたが、嫌ではなさそうだった。
悠真と環奈の間で、紅音はかわいがられる存在に収まった。悠真は紅音の頭をよく撫でた。環奈は紅音に弁当のおかずを多めに分けた。紅音は最初こそ「子ども扱いしないで!」と抵抗したが、三日で慣れた。一週間で甘えるようになった。
「悠真ー、ジュース買ってきてー」
「自分で買え」
「えー。環奈ぁ、悠真が冷たいー」
「悠真、買ってきてあげなさい」
「なんで俺が」
「紅音がかわいそうでしょう」
「……はいはい」
三人の日常は、少し形を変えて、続いていった。
二つの未来は、ここで再び重なり合う。




