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外伝三『シュレディンガーの告白』【A面】紅音に告白した未来

【A面】紅音に告白した未来

六月の第一土曜日。


悠真は紅音を、河川敷に呼び出した。


理由は言わなかった。「ちょっと話がある」とだけ伝えた。紅音は「何よ改まって」と言いながらも、約束の時間より十五分早く来ていた。


河川敷のベンチに、二人並んで座っている。夕陽が川面を金色に染めていた。


紅音はベンチの上で足をぶらぶらさせていた。隣の悠真が黙っているので、何を話すのかわからず、落ち着かない。


「ねえ、話って何? まさか結社がまた何か……」


「違う」


「じゃあ何よ」


「……」


悠真は黙っていた。


沈黙が長い。紅音は不安になってきた。悠真がこんなに言葉を選ぶのを見たのは初めてだった。十三席の刺客を相手にする時でさえ、こんなに躊躇しなかったのに。


「悠真?」


「紅音」


「な、何?」


悠真が紅音を見た。


夕陽を受けた横顔。いつもの飄々とした表情ではなかった。真剣で、少しだけ緊張した、十七歳の少年の顔。


「好きだ」


紅音の思考が、停止した。


処理落ち。万象の簒奪≪オムニ・テイカー≫はあらゆる才能を複製できるが、「好きだ」と言われた時の適切な反応は、どの才能にも含まれていなかった。


「…………え?」


「お前のことが好きだ。異能とか関係なく。遠山紅音という人間が好きだ」


紅音の顔が、耳の先まで赤く染まった。


赤い瞳が大きく見開かれて、唇が何か言おうとして開いて、だが音にならなくて、また閉じて。


心臓が壊れそうだった。


ドクン。ドクン。ドクン。


拍動が耳の奥で響いている。全身が熱い。顔が熱い。手が震えている。


「ちょ、ちょっと、ちょっと待って」


紅音は両手で自分の頬を押さえた。熱い。火傷しそうなくらい熱い。


「い、いきなり何言ってるの!? そういうのは、もっと、こう、前振りとか……!」


「前振りが必要か?」


「必要よ! 心の準備が……!」


「心の準備ができたら聞いてくれ。いくらでも待つ」


「待つっていうかもう聞いちゃったし!!」


紅音は両手で顔を覆った。指の隙間から、赤い瞳が覗いている。


悠真は待った。川の水が流れる音。遠くで子供が遊んでいる声。夕陽が少しずつ沈んでいく。


一分。二分。三分。


紅音が、指の隙間から悠真を見た。


「……ねえ」


「ん」


「虚数演算、使ってないよね?」


「使ってない」


「わたしが頷く確率を操作したりしてない?」


「してない。誓う」


「……本当に?」


「本当に」


紅音はゆっくりと手を下ろした。顔はまだ真っ赤だったが、瞳の色は変わっていた。揺れていた赤い瞳が、静かに落ち着きを取り戻していく。


「わたし……悠真に勝ちたかった」


紅音の声は、小さかった。


「訓練フロアで転ばされて、パンツ見られて、悔しくて。絶対に勝ってやるって、ずっと思ってた」


悠真は黙って聞いていた。


「でもね。いつからか、勝ちたいっていう気持ちが、別の何かに変わってた。悠真のそばにいたい。悠真が無事でいてほしい。悠真の笑った顔が見たい。そういう気持ちに」


紅音は膝の上で拳を握った。


「自分でもわからなかった。これが何なのか。万象の簒奪で世界中の心理学者の知識をコピーしたら、答えは出たかもしれない。でも、それはしたくなかった。自分の気持ちくらい、自分でわかりたかったから」


風が吹いた。プラチナブロンドの髪が揺れた。


「今、わかった」


紅音は悠真を見た。


真っ赤な顔で。潤んだ赤い瞳で。


「わたしも、好き。……たぶん、ずっと前から」


悠真の口元が緩んだ。世界最強の異能者の、最も無防備な笑み。


「……ありがとう」


「お礼言わないでよ、恥ずかしいんだから……!」


紅音は悠真の肩をばしばし叩いた。力加減がめちゃくちゃで、異能なしなのにけっこう痛い。


「あと一つだけ」


「何よまだ何かあるの!?」


「パンツの件は、本当に事故だったから。あの時は悪かった」


「今それ言う!?」


紅音の絶叫が河川敷に響いた。



それから。


紅音は悠真を意識するようになった。


当たり前の話だが、「好き」を自覚した途端、全てが変わった。


隣を歩く時、手が触れそうになるとびくっとする。目が合うと、慌てて逸らす。名前を呼ばれると、心臓が跳ねる。


「紅音、今日の弁当おかず多くないか?」


「べ、別に! 作りすぎただけだし! 悠真に食べてほしいとか思ってないし!」


思っている。明らかに。朝五時に起きて、環奈に教わったレシピで悠真の好きな唐揚げを揚げた。二回失敗して三回目でようやくカラッと仕上がった。異能は使わなかった。自分の手で作りたかったから。


「顔赤いぞ」


「赤くないもん!」


赤い。耳まで。


教室で環奈に目撃された。


「……紅音、最近悠真の前だとずいぶん挙動不審ね」


「き、気のせいよ!」


「気のせいではないわね。心拍数が上がっている。頬の紅潮。視線の不安定さ。全て恋愛初期の典型的な身体反応よ」


「やめて分析しないで!」


紅音はしどろもどろになりながら、環奈から逃げた。環奈は小さく笑ってそれ以上追及しなかったが、その笑みの奥に、ほんの少しだけ寂しさが混じっていたことを、紅音は気づかなかった。



環奈は知っていた。


悠真と紅音の関係が変わったことを。二人の間に流れる空気が、以前とは異なることを。氷室環奈の観察力は、そのくらいの変化は一瞬で見抜く。


帰り道、環奈は一人で歩いた。いつもは三人で帰るのに、今日は悠真と紅音が二人で帰っていくのを見送った。


「行かないの?」と紅音が聞いた時、環奈は微笑んで「今日は図書館に用事があるの」と嘘をついた。


一人の帰り道。夕陽が長い影を引いていた。


環奈は考えた。冷静に。合理的に。氷室環奈らしく。


悠真は紅音を選んだ。それは悠真の選択だ。尊重すべきだ。環奈にとって、悠真は大切な人だが、恋愛感情と友情は異なる。悠真のことは忘れて、新たな恋を見つけるのが合理的だ。


偏差値七十八の頭脳は、そう結論を出した。


感情の整理には時間がかかるだろうが、時間が解決する。新しい日常に適応する。それが最も効率的なアプローチだ。


――そう、決めたはずだった。


翌日。教室で悠真と目が合った。悠真がいつもの笑顔で「おはよう、環奈」と言った。紅音が悠真の後ろで恥ずかしそうに赤面していた。


環奈は微笑んで「おはよう」と返した。


胸が、痛かった。


合理的に考えれば、距離を置くべきだ。悠真と紅音の二人の時間を邪魔しないように。友人として適度な距離を保って。


でも。


昼休み、環奈はいつもの席で本を読んでいた。紅音が「環奈、一緒にお昼食べよ!」と声をかけてきた。悠真が横で弁当を広げている。


離れた方がいい。合理的にはそうだ。でも紅音は環奈を友達だと思っていて、悠真も環奈を大切な仲間だと思っていて、二人とも環奈に「来て」と言っている。


断る理由が、見つからなかった。


いや、理由はある。胸が痛いから。隣にいると苦しいから。


でもそれ以上に——離れたくなかった。


環奈は本を閉じた。


「……ええ。一緒に食べましょう」


結局、離れられなかった。


氷室環奈は、合理性の権化だ。偏差値七十八の頭脳で最適解を導き出せる。だが、最適解が正解とは限らない。少なくとも、人の心に関しては。


環奈は三人でいることを選んだ。胸の痛みを抱えたまま。いつか、この痛みが友情の温もりに変わる日が来ることを、静かに信じて。


それは合理的な選択ではなかった。


でも、環奈にとっては——正しい選択だった。

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