外伝一『最後の日に、できること』
――これは、小惑星の衝突により、地球が滅びてしまった世界線の物語。
この世界には、天叡結社≪エデン・オルド≫は存在しない。
遠山紅音は、うさぎを飼っていた。
名前は、モコ。
ネザーランドドワーフの小さなうさぎ。毛色はクリーム。そして瞳が、赤い。
紅音がペットショップでモコを見つけた時、一目で決めた。赤い瞳。自分と同じ色。鏡に映した自分の目と、ケージの中の小さな生き物の目が、同じ色をしていた。
それだけで、十分な理由だった。
「ね、モコ。わたしたち、おそろいだね」
紅音はモコを膝の上に乗せて、そっと頭を撫でた。モコは鼻をひくひくさせて、紅音の指に頬を寄せた。
小さなアパートの一室。紅音の部屋は、年頃の少女にしては殺風景だった。必要最低限の家具。清潔だが温もりのない空間。壁にはポスターもなく、棚にぬいぐるみもない。
遠山紅音には、家族がいなかった。
両親は物心つく前にいなくなった。施設で育ち、異能に目覚めてからは一人で生きてきた。万象の簒奪≪オムニ・テイク≫。あらゆる才能を「視る」だけで複製できる異能。この力があれば、一人で生きていくことに困難はなかった。
勉強。運動。仕事。生活。全て、異能でコピーした才能が解決してくれた。
でも、異能では解決できないものがあった。
寂しさ、とか。
モコは、紅音にとって唯一の家族だった。
テレビの画面が、青白い光を部屋に投げかけていた。
ニュースキャスターの声が、淡々と事実を伝えている。
『――小惑星2024-XR7は、当初の予測に反して軌道を変更し、地球に衝突する見込みです。衝突予想時刻は本日午後十一時三十七分。各国政府は市民に対し冷静な行動を呼びかけていますが――』
紅音はテレビを消した。
何度聞いても、同じ情報だった。
小惑星の衝突は、もう避けられない。
紅音は異能を使った。万象の簒奪≪オムニ・テイク≫で、世界最高峰の頭脳を呼び出した。理論物理学の権威。天体力学の第一人者。NASAの軌道計算チームのリーダー。一人では足りないから、二人、三人、四人と。人類が到達した知性の極致を、自分の脳にインストールして、考えた。
何か方法はないか。小惑星の軌道を変える方法。衝突を回避する方法。あるいは衝突の被害を最小化する方法。
何でもいい。何か一つでも。
答えは——なかった。
ゼロだった。
質量。速度。距離。時間。全てのパラメータが、「不可能」を示していた。残された時間では、どんな技術を使っても、どんな天才が束になっても、直径八百メートルの岩の塊の軌道を変えることはできない。
紅音は、世界最高峰の頭脳を四つ重ねて、その結論に辿り着いた。
仕方ない。
だって——万象の簒奪で紅音が解決できるのならば、それは世界の誰かにも解決できるということ。紅音の異能は才能の「複製」であって「創造」ではない。人類の誰かが持っている才能しかコピーできない。
そして、人類の誰もが解決できないから、こうなっているのだ。
紅音は膝の上のモコを見下ろした。
赤い瞳が、紅音を見上げている。何もわかっていない。小惑星のことも、世界の終わりのことも。ただ飼い主の膝の上が温かいから、そこにいるだけ。
「ごめんね」
紅音の声が、小さく震えた。
「わたし、こんな異能があるのに、何もできなかった」
モコは紅音の声に耳をぴくりと動かしただけで、また鼻をひくひくさせた。
紅音はモコの頭をそっと撫でた。柔らかい毛。小さな温もり。
「……ごめんね、モコ」
もう一度、謝った。
今度は声にならなかった。
◇
でも。
遠山紅音は、じっとしていることができなかった。
紅音の辞書に「立ち止まる」という言葉は存在しない。
小さい頃からずっとそうだった。施設にいた時も、一人で生きてきた時も、困難の前で足を止めたことは一度もなかった。
たとえ何もできなくても、何もしないなんて、自分が許せなかった。
紅音はモコをケージに戻し、水とエサを多めに入れた。
意味のない行為だと、わかっていた。数時間後には全て終わる。でも、やらずにはいられなかった。
「いい子にしてるんだよ、モコ」
モコが鼻をひくひくさせた。紅音は小さく笑って、玄関のドアを開けた。
◇
外に出ると、五月の風が頬を撫でた。
空は青かった。雲ひとつない。信じられないほど普通の、美しい青空。今日が世界最後の日であることを、空だけは知らないかのように。
街は——意外と、秩序を保っていた。
紅音はアパートを出て、大通りに向かって歩きながら、周囲を観察した。
コンビニは営業していた。店員が通常通り棚を整理している。ただし、客の数はいつもより少なかった。自動販売機の前で缶コーヒーを飲んでいるサラリーマン。犬を散歩させている老婆。自転車で通り過ぎる中学生。
局所的な混乱はあった。一部の店舗はシャッターが下りていたし、遠くでサイレンの音が聞こえた。交差点に一台、横転した車が放置されていた。
だが、パニックになってやりたい放題やっている、という感じではなかった。
もしかしたら、突然すぎて、まだ受け入れられていないのかもしれない。「世界が終わる」という情報と、目の前の穏やかな青空が結びつかなくて、脳が処理を保留しているのかもしれない。
「世界最後の日って、こんな感じなんだ」
紅音は、他人事のような感想を呟いた。
映画やドラマでは、世界の終末は劇的に描かれる。暴動。略奪。炎上する都市。叫び。混沌。
現実は、もっと静かだった。
人々は穏やかに、それぞれの最後の時間を過ごしていた。コンビニの店員は棚を整理し、サラリーマンは缶コーヒーを飲み、老婆は犬を散歩させていた。
それが、人間の強さなのか、弱さなのか。紅音にはわからなかった。
◇
路地裏から、声が聞こえた。
「――来いっつってんだろ!」
男の声。複数。そして、もう一つ。
「やめてっ……!」
女の子の声。高い。若い。怯えている。
紅音の足が、止まった。
路地の奥を覗き込んだ。薄暗い路地。ゴミ箱が並んでいる。その奥に、三人の男と、一人の少女がいた。
男たちは二十代前半。チンピラ風。一人が少女の腕を掴み、残りの二人が退路を塞いでいる。
少女は中学生くらい。小柄で、髪をポニーテールにしている。目に涙が浮かんでいる。
「どーせ今日で終わりなんだから、いいだろぉ?」
「最後の日くらい楽しもうぜ」
「おい、こっち向けって」
男たちはへらへらと笑っていた。
紅音の赤い瞳が、細くなった。
世界が滅ぶ日だから、何をしてもいい。そう思っている人間が、いるのだ。
紅音は路地に足を踏み入れた。
「ちょっと」
声を上げた。明るく、はっきりと。
男たちが振り返った。三つの顔が、紅音を見た。
プラチナブロンドの髪。赤い瞳。小柄な体躯。可愛らしい顔立ち。どこからどう見ても、華奢な美少女。
男たちの表情が、にたりと歪んだ。
「おお? もう一人来たぞ」
「今日はツイてんなぁ」
「かわいい子が自分から来てくれるとか、最高だろ」
獲物が一人増えた。彼らの目は、そう言っていた。
紅音は一歩、二歩と近づいた。
「その子から手を離しなさい」
「はぁ? なんだよお前。正義の味方気取りか?」
「どうせもう世界は終わりだっつの。警察も今日ばかりは休業だ」
男の一人が、紅音の腕を掴もうと手を伸ばした。
万象の簒奪≪オムニ・テイク≫——発動。
呼び出した才能:総合格闘技UFC、ヘビー級チャンピオン。
紅音の右手が、伸ばされた男の手首を掴んだ。細い指。華奢な腕。だがその握力は、九十キロ超の格闘家のそれと同一だった。
「いっ……!?」
男が驚きの声を上げる間もなく、紅音は手首を捻り、体勢を崩させ、そのまま腕を引いて投げた。小内巻き込みの変形。男の身体が宙を舞い、路地のアスファルトに叩きつけられた。
「がっ……!」
残りの二人が、一瞬固まった。
「な……っ、てめぇ……!」
二人目の男が拳を振り上げて向かってきた。紅音はステップで半歩横にずれ、男の拳をかわし、がら空きになった脇腹に右ストレートを叩き込んだ。UFCヘビー級チャンピオンの技術で放たれた一撃。五十キロに満たない少女の体重でも、技術が完璧なら威力は十分だった。
「おぐっ……!」
男が身体を折った。
三人目は逃げようとした。だが紅音の方が速かった。万象の簒奪で呼び出した身体能力が、瞬時に距離を詰める。背後から足を払い、転ばせ、地面に押さえつけた。
十五秒。
三人のチンピラは、路地のアスファルトの上で呻いていた。
どう見ても弱そうな小柄な少女に、手も足も出なかった。何が起きたのか理解できない驚きの表情が、三つの顔に張り付いていた。
「さっさと消えなさい」
紅音は冷たく言い放った。
男たちは這うようにして路地から逃げ出した。一人がよろめきながら振り返ったが、紅音の赤い瞳と目が合った瞬間、弾かれたように走り去った。
路地に静寂が戻った。
紅音は腰に手を当てて、にっと笑った。
「ふん、わたしにかなうわけないじゃない!」
得意げな声。ドヤ顔。万象の簒奪者≪オムニ・テイカー≫の矜持。
それから、紅音は表情を切り替えた。努めて明るく、柔らかい笑顔を作って、路地の奥で蹲っている少女に歩み寄った。
「……大丈夫? 今はこんな時だから、危ないよ」
少女は震えていた。涙が頬を伝っている。だが、紅音の顔を見て——赤い瞳を見て——少しだけ、安心したように息を吐いた。
「あ、ありがとう……ございます……」
「うんうん。怪我してない? どこか痛いところは?」
「だい、じょうぶ……です……」
少女は立ち上がった。膝が笑っていたが、なんとか自分の足で立てた。
紅音は少女の服についた埃を払ってあげながら、聞いた。
「こんな日に、どうして一人で外に?」
少女は目を伏せた。
「……おばあちゃんの、ところに、行きたくて」
「おばあちゃん?」
「お父さんとお母さんは、もういなくて……おばあちゃんだけなの。おばあちゃんが心配で……無事なら、最後の日は……一緒にいたくて……」
少女の声が震えた。涙がまた溢れてきた。
紅音は黙って少女を見つめた。
両親がいない。大好きなおばあちゃんに会いたい。最後の日を、一人で過ごしたくない。
紅音には、痛いほどわかった。
「おばあちゃんの家、どこ?」
「えっ……」
「一緒に行ってあげる」
少女が顔を上げた。涙に濡れた目が、紅音を見た。
「で、でも……お姉さんも、最後の日なのに……」
「いいのいいの!」
紅音はぱたぱたと手を振った。
「さ、行こう! おばあちゃんの家まで、わたしがエスコートしてあげる!」
少女は数秒、呆然と紅音を見つめた。それから——泣き笑いの顔で、頷いた。
◇
二人は並んで歩いた。
少女の名前は、ユイと言った。中学二年生。十四歳。
私立の中高一貫校に通っていて、今はおばあちゃんを後見人として、学生寮で生活しているらしい。
おばあちゃんの家は、隣町にあった。電車で二駅。だが電車は動いていないので、歩くしかない。徒歩で四十分ほどの距離。
「ユイちゃんのおばあちゃん、どんな人?」
「優しい人。おはぎを作るのが上手で……お正月はいつもおばあちゃんの家に行ってたの」
「おはぎかぁ、いいなぁ。わたし、おはぎ好きだよ」
「あ、紅音ちゃんは……ご家族は……?」
紅音は一瞬、笑顔を保ったまま、答えた。
「いないよ。ずっと一人」
ユイは口をつぐんだ。何か悪いことを聞いてしまったと思ったのだろう。
「あ、でも、うさぎのモコがいるから! モコはわたしの家族!」
紅音は明るく言って、スマートフォンの画面をユイに見せた。モコの写真。クリーム色の毛。赤い瞳。
「かわいい……! 目が、紅音ちゃんと同じ色だね」
「でしょ? おそろいなの」
二人は歩きながら、他愛のない話をした。学校のこと。好きな食べ物のこと。テレビのこと。モコのこと。
世界最後の日の午後に、二人の少女が歩道を歩いている。それだけ見れば、普通の日常の風景だった。
途中、一度だけ、また絡まれた。
別のチンピラ。今度は二人組。やはり「最後の日だから」を免罪符にして、少女二人に近づいてきた。
紅音は溜息をついた。
「本当に……こういう人たち、いなくならないね」
今度はUFCではなく、柔道のオリンピック金メダリストを呼び出した。一人目を巴投げで地面に叩きつけ、二人目を袈裟固めで締め上げた。二人とも、一分もかからなかった。
ユイは目を丸くしていた。
「紅音ちゃん、すっごく強いんだね……」
「まあね! わたし、こう見えて、世界最強なんだから!」
紅音は腰に手を当ててドヤ顔をした。ユイが、ぷっと吹き出した。
「紅音ちゃん、面白い」
「面白い? わたしが?」
「うん。強いのに、全然怖くない。面白くて、かわいくて……スーパーヒロインみたい」
紅音は一瞬、目を瞬いた。それから、照れたように頬を掻いた。
「スーパーヒロイン、か……えへへ」
まんざらでもない顔だった。
◇
四十分後。隣町。
おばあちゃんの家は、住宅街の奥にある古い一軒家だった。
ユイがインターホンを押した。
数秒の沈黙。
紅音は、ユイの横顔を見ていた。祈るような表情。もしおばあちゃんがいなかったら。もし何かあったら。
ドアが開いた。
小柄な老婆が、玄関に立っていた。白い髪。深い皺。だが、目だけは若々しく、温かい光を湛えていた。
「ユイ……!」
「おばあちゃん……!」
ユイが老婆に飛びついた。
老婆の細い腕が、ユイを抱きしめた。二人とも泣いていた。声を上げて。
「よかった……よかったね、ユイ……無事で……」
「おばあちゃん、会いたかった……」
紅音は一歩下がって、二人を見ていた。
胸の奥が、じんわりと温かくなった。同時に、きゅっと締めつけられた。
紅音には、抱きしめてくれる家族がいない。
モコは紅音を好いてくれているが、言葉は話せない。こうして泣きながら抱き合うことは、できない。
でも——目の前で、大切な人同士が再会している。それだけで、紅音の心は満たされた。
何もできなかった。小惑星は止められなかった。世界は救えなかった。
でも、この子を——ユイを——おばあちゃんの元に届けることは、できた。
それで十分だと、紅音は思った。
「あの……」
老婆が紅音に気づいた。ユイが涙を拭いて、紹介した。
「おばあちゃん、この人、紅音ちゃん。途中で助けてくれたの。ここまで一緒に来てくれたの」
老婆は紅音を見て、深く頭を下げた。
「ありがとうございます……本当に、ありがとうございます……」
「あ、頭上げてください! 大したことしてないですから!」
紅音は慌てて手を振った。
ユイが紅音の手を取った。涙で濡れた、温かい手。
「ありがとう、紅音ちゃん……でも、ごめんなさい。紅音ちゃんも、最後の日なのに……わたしなんかのために、時間を使わせちゃって……」
紅音は、ユイの手を両手で包んだ。
そして——笑った。
心の底から。混じり気のない、まっすぐな笑顔で。
「いいのいいの! 最後の日に人助けできるって、いい気分で人生終われるって、最高じゃない?」
ユイの目から、新しい涙が溢れた。今度は、悲しみの涙ではなかった。
「紅音ちゃん……」
「泣かないの! おばあちゃんと一緒にいられるんだから、笑って!」
紅音はユイの涙を指先で拭った。ユイは泣き笑いの顔で頷いた。
老婆がまた深く頭を下げた。紅音はそれに手を振って応え、踵を返した。
「じゃあね、ユイちゃん。おばあちゃんと、素敵な時間を過ごしてね」
「紅音ちゃんも……紅音ちゃんも、幸せでいてね……!」
紅音は振り返らずに、片手をひらひらと振った。
◇
帰り道。
紅音は、元来た道を一人で歩いていた。
午後の日差しが傾き始めていた。影が長くなっている。空は青いままだ。あと数時間で、この空に火の玉が現れる。
紅音の足取りは、軽かった。
最後の時は、モコを撫でながら迎えよう。
そう考えながら、紅音は歩いた。
商店街を通り過ぎる。シャッターの下りた店が多いが、一軒だけ、花屋が開いていた。店先に色とりどりの花が並んでいる。世界が終わる日に花を売っている。不思議な光景だった。
紅音は足を止めた。
小さな花束を一つ、買った。黄色いガーベラとかすみ草。
「部屋に飾ろう。モコと一緒に見るんだ」
紅音は花束を抱えて、歩き出した。
夕陽が街を金色に染めていた。
長い影が、紅音の後ろに伸びている。
一人ぶんの、小さな影。
紅音は空を見上げた。
まだ、何も見えない。ただの青空。ただの夕陽。ただの五月の風。
「……もし」
紅音は呟いた。
「もし、生まれ変われるなら」
誰にも聞こえない声で。
「次は……友達が、たくさん、いるといいな」
風が、プラチナブロンドの髪を攫った。
紅音は目を閉じて、風を感じた。
それから目を開けて、花束をぎゅっと抱きしめて、早足で歩き始めた。
モコが待っている。
最後の時間を、一緒に過ごすために。
◇
遠山紅音は、最後の日に、人を助けた。
世界は救えなかった。小惑星は止められなかった。
でも、一人の女の子を、おばあちゃんの元に届けた。
チンピラを二度撃退して、花束を買って、うさぎの待つ家に帰った。
それが、万象の簒奪者≪オムニ・テイカー≫の、最後の一日だった。
――もし、生まれ変われるなら。
次は、友達がたくさんいるといいな。
その願いが届いたかどうかは、わからない。
でも、どこかの世界線に、
プラチナブロンドの髪と赤い瞳の少女が、教室でクラスメイトに囲まれながら微笑んで――
天才の少年と、氷の才媛と一緒に、放課後にクレープを食べている世界があるなら。
きっと、届いたのだろう。
外伝一『最後の日に、できること』 了




