おまけ『笹平瑛士 VS 雨貝ハルキ』
これは、本編第五章『亀裂――日常と非日常の境界線』で、描かれなかった物語。
扉の向こうに立っていたのは、中肉中背の男だった。
二十代後半。整った顔立ちだが、目つきが悪い。薄く笑った口元が、どこか赤羽斎を思わせる陰湿さを帯びていた。
笹平瑛士。
天叡結社≪エデン・オルド≫序列保持者候補。赤羽斎と同じく、十三席の「補欠」に位置する実力者。
笹平は部屋の中を一瞥した。本棚とトレーニング器具。サングラスをかけた上半身裸のマッチョマン。トルストイを手にしている。
異様な光景だったが、笹平は気にしなかった。この男の奇行は結社内では周知の事実だ。
「雨貝ハルキ」
「おう」
雨貝はトルストイから顔を上げなかった。
「何の用だ? 模擬戦なら断ってるぞ。知ってるだろ?」
「模擬戦じゃない」
笹平は一歩、部屋の中に踏み込んだ。扉が背後で閉まる。
「本気で俺と戦え」
雨貝のページをめくる手が止まった。
サングラスの奥の目が、初めて笹平を見た。少なくとも、笹平にはそう感じられた。
「……本気で、ねえ」
「ああ。俺が勝ったら――十三席を譲ってもらう」
雨貝は数秒、黙っていた。
それから本を閉じ、ベンチプレス台の端に腰かけた。タオルを肩にかけ、ゆっくりと首を回す。関節がぽきぽきと鳴った。
「No.13の席が保留になってるから、そっちを狙うのが筋だと思うが」
「赤羽が死んだ」
笹平は端的に言った。
「元No.13の榊原悠真を消しに行って、逆にやられた。詳細は不明だが、確率操作で逃走経路を歪められて、ダムに落とされたらしい」
雨貝は「ほう」と小さく声を上げた。感心したような、呆れたような、曖昧なトーン。
笹平は続けた。
「赤羽の次元開閉は、この結社でも屈指の殺傷力を持つ異能だった。それがあっさり封殺された。元No.13の確率操作能力は、正面から挑んで勝てる相手じゃない」
「だろうな」
「だから――別の席を狙う」
笹平の目が、鋭く光った。
「噂は知ってる。雨貝ハルキ、お前はコネで入ったとか、実は弱いとか。模擬戦を全て断っているのは実力を隠すためじゃなく、実力がないのを隠すためだとか。No.2の席次は、盟主への何らかの貢献――情報提供とか資金援助とか――の見返りに与えられた名誉職だとか」
笹平は嘲笑した。
「お前が十三席で一番弱いなら、お前の席を奪うのが一番合理的だ」
雨貝は黙って聞いていた。サングラスの奥の表情は読めない。
沈黙が流れた。
やがて、雨貝が口を開いた。
「いやあ……お前、運が悪いよ」
その声は穏やかだった。穏やかすぎた。脅しでも、怒りでも、虚勢でもない。天気予報を読み上げるような自然さで、雨貝は言った。
「……何だと?」
「俺はたぶん、十三席で一番強いよ」
笹平の表情が、一瞬固まった。
雨貝は続けた。サングラスの奥の目が、笹平をまっすぐに見据えていた。見据えているという確信が、サングラス越しでも伝わるほどの圧。
「そして、俺に勝負を挑んだら――お前は死ぬことになる」
静寂。
トレーニングルームの蛍光灯が、微かに明滅した。
笹平は――笑った。
「ハッタリだ」
即断だった。この男の実力は、噂通り大したことがない。「一番強い」などという大言壮語は、弱者が強がる時の典型的なパターンだ。本当に強い人間は、わざわざ自分が強いとは言わない。
少なくとも、笹平はそう判断した。
「コネで手に入れた席にしがみつくために、ハッタリで威嚇か。惨めだな、雨貝」
笹平は右手を持ち上げた。
異能の発動に、発声は必要ない。念じるだけでいい。
≪念動圧力≫。
対象物に、プレス機のような圧力をかける。念じるだけで。距離も、物質の硬度も関係ない。人体なら骨格ごと歪めて圧縮し、車両ならフレームを折り畳み、建築物ならコンクリートの柱を握り潰すように粉砕する。
笹平がこれまで潰してきたものは数知れない。人間の身体が、プレス機にかけられた空き缶のように歪んでいく光景を、何度も見てきた。
「序列外だからって舐めてるだろ……!」
笹平の右手が、雨貝に向けられた。
「ひしゃげて潰れろッ!!」
≪念動圧力≫、全力発動。
雨貝の全身に、数トンの圧力が――
――かからなかった。
「……は?」
笹平の目が見開かれた。
右手は雨貝に向けられている。意識は集中している。異能は発動しているはずだ。脳内の回路は正常に稼働している。なのに、力が出ない。
いや、違う。力は出ている。しかし、出た瞬間に消えている。水が砂に吸い込まれるように、異能の力が雨貝の周囲で霧散している。
「な……何だ、これ……!?」
笹平は両手を突き出した。出力を上げる。限界まで。脳が焼けるような負荷をかけて、全力の≪念動圧力≫を叩きつける。
何も起きなかった。
雨貝はベンチプレス台に座ったまま、微動だにしていなかった。
圧力は届いていない。一ミリも。一グラムも。そよ風ほどの力すら、雨貝の肉体に作用していない。
「……あ……あり得ない……」
笹平の顔から血の気が引いた。
雨貝はゆっくりと立ち上がった。
百八十五センチ、九十三キロの肉体が、蛍光灯の下で影を落とす。上半身裸の筋肉が、一つ一つの動きに合わせて波打った。
「言っただろ。運が悪い、って」
雨貝が一歩、踏み出した。
笹平は反射的に後ずさった。背中が壁にぶつかる。
「ま、待て……! 何をし――」
「お前さ」
雨貝の声は、相変わらず穏やかだった。
「俺がなぜ本を読んでいるか。なぜ筋トレをしているか。考えたことあるか?」
笹平は答えられなかった。
「なぜ模擬戦を断るか。なぜ誰にも能力を見せないか。考えたことあるか?」
雨貝がもう一歩、近づいた。
「俺の肉体は、異能の効果を受けない。お前の念動圧力も、久能のハッキングも、紅音の才能複製も、悠真の確率操作も。全部、無効だ。何もかもが通じない。だから――」
サングラスの奥で、雨貝の目が光った。
「俺の前では、全員がただの人間に戻る。純粋な知力と、身体能力だけの勝負になる。だから俺は本を読む。だから俺は筋トレをする。素の人間として、誰にも負けないために」
笹平の膝が震えていた。
壁に背をつけたまま、へたり込みそうになるのを必死にこらえている。
「嘘だ……そんな異能、聞いたことが……」
「聞いたことがないのは、知った人間が生きていないからだよ」
雨貝が右手を上げた。
拳を握る。鍛え抜かれた前腕の筋繊維が、蛍光灯の光を受けて浮き上がった。
「悪いな。お前が俺の能力を知ってしまった以上、生かしておくわけにはいかない。俺が模擬戦を断り続けてきた理由を、理解してくれ」
笹平は悟った。
模擬戦を断っていたのは、弱いからではなかった。
能力を知られたくなかったからだ。
そして能力を知った者は、消される。
「ま、待ってくれ……! 誰にも言わない……! 頼む……!」
雨貝は首を傾げた。まるで、子供が虫の命乞いを聞いた時のような、純粋な戸惑いの表情。
「うーん……悪いけど、信用する根拠がないんだよな」
笹平は走った。扉に向かって。しかし三歩で追いつかれた。当然だった。笹平の身体能力はごく平凡だ。これまで全てを≪念動圧力≫で解決してきた。走る必要も、殴る必要も、なかった。素の身体を鍛える理由がなかった。
雨貝は違う。
毎日、百四十キロのベンチプレスを上げている男だ。
笹平の襟首が掴まれた。引き戻され、床に叩きつけられた。衝撃で視界が明滅する。
「がっ……!」
仰向けに倒れた笹平の視界に、蛍光灯の光と、サングラスをかけた男の顔が映った。
「あんまり恨まないでくれよ。俺だって好きでやってるわけじゃない」
雨貝の拳が振り下ろされた。
鈍い音が、部屋の中で反響した。
それきり、声は聞こえなくなった。




