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第十三章『面白くない、でしょ?――虚数演算の真実』(後編)

* * *

東京の街は、いつも通りだった。


電車が走り、信号が変わり、人々が歩き、雲が流れた。


世界が救われたことを、誰も知らない。


小惑星2024-XR7が地球を逸れていったことを、天文学者たちは「予測通りの結果」として淡々と発表した。テレビのニュースは三十秒でその話題を終え、次の天気予報に移った。


地球が滅亡の危機にあったことを、知る人間はごくわずかだ。


ペンタゴンの最深部で、マーカス・ウォレン統合参謀本部議長が深い溜息をつき、コードネーム"グレイ・ゴースト"のファイルを金庫にしまった。


内閣情報調査室の担当官が、極秘報告書の最後の一行に「脅威レベル:低下」と記入した。


そしてそのどちらも、本当の真実は知らなかった。


小惑星が地球を逸れた本当の理由を。


一人の少年が「退屈じゃない」と感じていたから、世界が救われたということを。


日常は、続いていく。


何事もなかったように。


* * *

放課後。


悠真は鞄を肩にかけ、教室を出た。


校門の前で、環奈が待っていた。


「クレープ屋さん、一緒に行ってくれるんでしょ?」


「覚えてる覚えてる。奢るって言ったからな」


二人は並んで歩き出した。五月の風が心地よい。街路樹の若葉が揺れて、木漏れ日が歩道にちらちらと落ちている。


駅前のクレープ店で、環奈は苺とカスタードのクレープを選んだ。悠真はチョコバナナ。二人とも自分で選んだ。確率操作で「一番おいしいクレープが出てくる確率」を上げたりはしなかった。


「おいしい」


環奈がクレープを一口食べて、珍しく素直に笑った。氷の才媛の仮面の下の、年相応の笑顔。


「……そりゃよかった」


悠真はチョコバナナを齧りながら、少しだけ目を細めた。


二人が駅前の通りを歩いていると、後ろから足音が近づいてきた。


「ふたりともー! 待ってよー!」


紅音が走ってきた。息を切らしながら、髪を揺らして。


「紅音、どうした。今日は用事があるって言ってなかったか」


「用事終わった! 終わったから来た! ていうか、私を置いてクレープ行くなんてひどい!」


「置いていったわけじゃないわ。あなたが用事があると言ったから……」


「環奈もグルだ!」


紅音は頬を膨らませて、悠真のクレープを一口奪った。


「あ、おい」


「チョコバナナ、おいしー!」


三人は笑いながら、駅前の通りを歩いた。


その時、紅音の足が止まった。


「あ、見て見て!」


通りの脇に、小さな仮設のブースがあった。のぼり旗が風にはためいている。


「うさちゃんジャンボ宝くじ 一等・前後賞合わせて七億円!」


看板には、丸っこいウサギのキャラクターがでかでかと描かれていた。ピンク色の耳。つぶらな瞳。にっこり笑った口。


紅音の赤い瞳が、ウサギに釘付けになった。


「かわいい~! 欲しくなっちゃう!」


「キャラクターが欲しいのか、七億が欲しいのか」


「どっちも!」


環奈がクレープを齧りながら冷静に言った。


「宝くじの期待値は購入額の約四十七パーセントよ。三百円で買って、統計的な期待リターンは約百四十円。長期的には必ず損をする構造だわ」


「環奈はほんとそういうとこ環奈だよね!」


悠真はクレープの最後の一口を頬張りながら、宝くじ売り場を眺めた。


「だが確かに、宝くじは期待値的に不利だ。伊達に『貧者の税金』とか呼ばれてない」


紅音が振り返った。赤い瞳が、じとりと悠真を見た。


「悠真がそれ言う?」


「は?」


「『買った宝くじで一等が当たる確率』を操作すれば勝ち確定じゃない! あなたの異能があれば、期待値もへったくれもないでしょ!」


「紅音の言う通りよ。確率を100%にすれば、七億円は確定。悠真に限れば、合理的に考えて、やらない理由がないわ」


環奈もこくこくと頷いて、紅音に全面同意する。


「お前ら、俺の異能を金儲けに使えって言ってるのか」


「言ってる」と紅音。


「言ってるわ」と環奈。


ハモった。もう数え切れないほどのハモり。


悠真はため息をつき、空を見上げた。


夕陽が、茜色から紫に変わりかけている。最初の星が、薄明の空にひとつ瞬いていた。


「俺の異能は、使い方次第で、なんでも思い通りになる」


悠真は静かに言った。


「よく考えて使えば、宝くじどころか……世界の支配者にだってなれるだろう」


環奈と紅音が、悠真を見た。


悠真の横顔は、夕陽に照らされて、いつもとは少し違って見えた。飄々とした仮面でも、戦闘者の冷徹な顔でもない。穏やかで、静かで、どこか遠くを見ている目。


「でもそれじゃ――」


「面白くない、でしょ?」


悠真の言葉を継いで、紅音が笑った。


屈託のない笑み。一年前、結社の訓練フロアで転ばされて鼻血を出した少女が、今は夕陽の中で、クレープのチョコレートを口元につけたまま笑っている。


悠真は紅音を見て、少しだけ目を細めた。


「そういうこと」


悠真は頷いた。


「俺は自分で考えて切り拓いた未来を、この手で掴みたい」


夕陽が、三人の影を長く伸ばしていた。


「異能で好きな人を振り向かせる、とかじゃなく」


悠真の声が、少しだけ低くなった。


「俺の言葉で……好きだ、と伝えたい」


沈黙が降りた。


夕方の街のざわめき。車の音。人の声。風の音。全てが遠くなって、三人の間だけが静かになった。


紅音が、不思議そうに首を傾げた。


「……え?」


赤い瞳が、悠真を見ている。クレープのチョコレートが口元についたまま。


言葉の意味が、処理できていない。万象の簒奪者≪オムニ・テイカー≫は、あらゆる才能を複製できる。世界最高の頭脳をインストールすることもできる。だが今、紅音は異能を使っていなかった。素のままの自分で、悠真の言葉を聞いていた。


だから——理解が、追いつかなかった。


「好きな人を……振り向かせる……?」


紅音は、ゆっくりと言葉を反復した。


「それって――」


環奈が、口を開きかけた。


誰のこと。


そう、喉まで出かかって、環奈はぎりぎりのところで飲み込んだ。


聞いてはいけない。今は、聞いてはいけない。


なぜなら——答えを聞くのが、怖かったから。


偏差値七十八の頭脳は、既にいくつかの仮説を立てていた。だが、仮説と確信の間には、深い溝がある。確率的にほぼ確実でも、最後の一パーセントの不確定性が、環奈の口を閉ざしていた。


確率操作で恋心すら操れる男が、「自分の言葉で伝えたい」と言った。


その言葉が向けられた相手は。


環奈は知りたかった。


知りたくなかった。


その矛盾を抱えたまま、環奈は言葉を飲み込んだ。


悠真は笑った。


いつもの飄々とした笑みではなかった。血まみれの戦場で浮かべた笑みでもなかった。平凡な少年のテンプレートでもなかった。


ただの——―十七歳の少年の、照れくさそうな笑みだった。


「……行くぞ、ふたりとも!」


悠真は歩き出した。


振り返らずに。前だけを向いて。


確率操作で全てを思い通りにできる男が、不確定な未来に向かって一歩を踏み出した。


「――うん!」


紅音は、悠真の背中を見て――理解は追いついていなかったけれど――走り出した。


そのまま、悠真の隣に並ぶ。プラチナブロンドの髪が、五月の風に踊った。


「ええ」


環奈は、二人の背中を見て――全てを理解していたけれど、あえて理解しないふりをして――静かに歩き出した。


宝くじ売り場のウサギが、のぼり旗の上からにっこり笑って三人を見送っていた。


平凡を装う天才。万能の異能を持つ少女。異能を持たない才媛。


三人の少年少女が、駅前の通りを歩いている。


宝くじは、買わなかった。


確率は、操作しなかった。


明日、何が起こるかはわからない。テストがあるかもしれない。体育があるかもしれない。結社の誰かがまたちょっかいをかけてくるかもしれない。


それでいい。


不確定な未来を、自分の足で歩くこと。


それが――世界で一番、面白いことだから。


FIN

――これは、世界を設計した者たちと、その設計図を書き換えようとした少年の物語だった。


あるいは単に、退屈を殺すために世界を敵に回した、どうしようもない男の子の話だった。


確率を操る天才は、すべてを思い通りにできる力を持ちながら、不確定な未来を選んだ。


すべてが自分の思う通りになったら、面白くないから。


自分の足で歩いた方が、自分の言葉で伝えた方が、ずっと面白いから。


世界は救われた。


一人の少年が「面白い」と笑い続けたから。


小惑星は銀河の彼方へと消え、盟主は背負っていた荷物を下ろし、十三席は日常へと帰って行った。


そして三人の高校生は、明日も学校に行く。


テストでわざと平均点を取り、体育で手を抜き、放課後にクレープを食べに行く。


退屈じゃない日常が、続いていく。

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