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第十三章『面白くない、でしょ?――虚数演算の真実』(前編)

天叡結社≪エデン・オルド≫。地下四十七階。盟主の私室。


時田礼司は、モニターの前に座っていた。


画面には、久能昌のネットワークから引き出したリアルタイム映像が流れている。都立桜ヶ丘高校の防犯カメラ。教室の窓際の席で、一人の少年が頬杖をついて外を眺めている。


榊原悠真。


時田はその横顔を、長い間見つめていた。


何百回もの時間遡行で、何百人もの「榊原悠真」を見てきた。小惑星が地球を滅ぼした世界の悠真。全てが手遅れになった世界の悠真。


あの世界の悠真は、もっと昏い目をしていた。


虚ろで、空洞で、世界の全てに興味を失った目。何を見ても「つまらない」と呟く、凍りついた瞳。あの目を見るたびに、時田の胸は握り潰されるように痛んだ。


だが今——モニターに映る悠真の目は、違った。


穏やかで、少しだけ退屈そうで、それでいてどこかに温かい光を湛えた目。


教室の後ろの席からプラチナブロンドの少女が何か話しかけて、悠真が振り返り、呆れたように笑っている。斜め前方の席では黒髪の少女がノートに何かを書きながら、わずかに口元を綻ばせている。


三人の、何気ない日常の一コマ。


過去、時田が見てきたどの世界線の悠真とも違っていた。


どの世界でも、悠真は孤独だった。天才すぎて、強すぎて、誰も追いつけなくて、誰にも理解されなくて。退屈の底に沈んで、最後には世界ごと壊そうとした。


この世界の悠真だけが——孤独ではなかった。


統計学で仮面を剥がした少女がいた。怒りと執念で追いかけてきた少女がいた。二人の少女が、悠真の隣に立っていた。


それだけのことが、世界を救った。


時田は目を閉じた。


鬼嶋十夜は超長距離狙撃で挑み、敗北した。だが、悠真に見逃されて生還した。蟻塚洋一は幸運の欠片を大量に消費して、完敗した。だが、怪我ひとつなく帰された。雨貝ハルキは異能無効化で肉薄し、激闘の末に車に撥ねられて病院送りになった。だが、命に別状はない。


盟主の指令で悠真に挑んだ十三席は、全員が敗北した。それでも——全員が生還した。


奇跡的なことだった。


以前の世界では——結社が存在しない世界では——悠真は敵対者を容赦なく排除していた。退屈しのぎに人を壊し、飽きたら次の玩具を探す。あの世界の悠真なら、挑んできた相手を生かして帰すなど、考えられなかった。


この世界の悠真は、違う。


極力敵を殺さない。追い詰めても、引き際を用意する。鬼嶋には「こんなところで死ぬ必要はない」と言い、蟻塚には「残りの幸運は有意義に使え」と助言した。雨貝を倒す時でさえ、戦闘に巻き込まれた一般人には、死者はおろか怪我人のひとりも出していない。


優しくなったのだ。


友人ができて。居場所ができて。隣に立ってくれる人ができて。


世界が面白いと感じられるようになった悠真は、世界に対して優しくなった。


時田は確信した。


(この悠真なら、今後、何があったとしても……「つまらない」で世界を破滅させることはないだろう)


モニターの中で、悠真が紅音に教科書の角で頭を叩かれていた。環奈が呆れた顔でそれを見ている。三人の笑い声が、防犯カメラのマイクにかすかに拾われていた。


時田は、久能への通信端末を手に取った。


悠真が結社を離脱して以来、久能に課してきた監視任務。もう、必要ない。


『久能。元No.13の監視任務を、本日をもって終了する。長期間ご苦労だった』


送信。


時田はモニターに映る悠真を、最後にもう一度見た。


放課後の教室。悠真が鞄を手に立ち上がる。紅音が後ろから「今日どこ行く?」と声をかける。環奈が「私も行くわ」と言う。三人が連れ立って教室を出る。


夕陽が、教室の窓から差し込んでいた。三つの影が廊下に長く伸びている。


時田はモニターの電源を切った。


画面が暗くなった。


部屋が闇に沈んだ。


時田は闇の中で、しばらく立ち尽くしていた。


* * *

廊下を歩きながら、時田はずっと考えていたことを、もう一度反芻した。


わからないことが、一つだけあった。


宇宙人。グレイタイプ。銀色の部屋で時田に異能を与えた存在。


彼らは、なぜ人間に異能をばらまいたのか。


時田だけではない。世界中に異能者がいる。全員が、宇宙人の「オペ」を受けた結果として異能に目覚めた。なぜ? 何の目的で?


そしてギャラクシー・チップ。宇宙文明の叡智が詰まった物体を、なぜ地球にばらまいた? 人類の文明レベルを向上させる可能性を秘めたテクノロジーを、なぜ無償で提供した?


利他主義? 慈善? 実験?


どれもしっくりこなかった。


時田は何百回もの時間遡行で、この疑問の答えを探し続けた。だが、宇宙人に再びコンタクトを取ることはできなかった。彼らは一方的に現れ、一方的に去った。説明も、理由も、何も残さずに。


だが今——全てが終わった今、時田はふと、一つの仮説に辿り着いた。


もしかすると。


いや、まさか。


だが、もしそうだとしたら——全ての辻褄が合う。


異能をばらまいた理由。ギャラクシー・チップを地球に撒いた理由。人類に干渉した理由。


あの宇宙人の、大きな黒い目。感情の読めない、だがどこか好奇心を湛えたような目。


「面白そうだから、か」


時田は立ち止まった。


地下施設の廊下。蛍光灯の白い光。無機質な壁。


時田はふっと笑った。


声に出して、笑った。


「面白そうだから、人間に異能を与えて、チップをばらまいて、どうなるか見物していた。……あいつらも、退屈だったのか」


ある宇宙文明が、退屈しのぎに地球をいじった。人間に超常の力を、未知の技術を渡して、どんなドラマが生まれるか観察していた。


それは——―時田が何百回もの人生をかけて向き合い続けた、あの少年と同じ行動原理ではないか。


宇宙人も。悠真も。そして時田自身も。


全員が、同じ衝動で動いていた。


「……笑えるな」


時田は笑いながら歩き出した。


世界は、宇宙人の退屈しのぎで変わった。悠真の退屈しのぎで壊されかけた。そして時田の必死の努力で、かろうじて救われた。


全部、「退屈」が原因。


全部、「面白いかどうか」が基準。


「ばかばかしい」


時田はそう言って、もう一度笑った。


今度は、心の底から。


* * *

同日。某所。総合病院。個室病棟。


雨貝ハルキは、ベッドの上で本を読んでいた。


右脚はギプスで固定され、ベッドの端から吊り下げられている。全身のあちこちに湿布が貼られ、額にはガーゼが当てられていた。サングラスはベッドサイドのテーブルに置かれている。


だが、表情は穏やかだった。


読んでいるのはヘミングウェイの『老人と海』。何度目かの再読だったが、入院中に読むとまた違った味わいがある。


「よう、雨貝」


病室のドアが開いた。


簑島秀一が立っていた。


片手に文庫本。もう片方の手に、紙袋。


「見舞いに来たぞ」


「おう、簑島。わざわざ悪いな」


簑島はベッドサイドの椅子に腰を下ろし、文庫本を差し出した。


「これ、先週話してたやつ。チャンドラーの『さらば愛しき女よ』。古本屋で見つけた」


「おお、ありがとう。ちょうど読みたかったんだ」


雨貝は嬉しそうに文庫本を受け取り、表紙を撫でた。


簑島は紙袋を持ち上げた。


「あと、これ」


紙袋から取り出したのは、プラスチックの容器。蓋を開けると、バターとガーリックの香りがふわりと広がった。


「まるやのチキンステーキ。テイクアウトできるようになったらしい」


雨貝の目が輝いた。サングラスなしの素顔で、その表情がはっきりと見えた。子供のような、純粋な喜び。


「マジか! まるやがテイクアウト始めたの!?」


「今週から。お前が入院して来られなくなったから、マスターが心配してたぞ。『サングラスの常連さん、最近来ないけど大丈夫?』って」


「ははは、マスターに心配されてたか」


雨貝はプラスチックのフォークでチキンステーキを切り分け、一切れ口に運んだ。


「……うまい。冷めてもうまいな、まるやのチキンステーキは」


「だろ」


二人はしばらく黙って、雨貝が食べるのを簑島が見ていた。病室の窓から午後の日差しが差し込み、白いシーツを暖かく照らしていた。


「で、身体はどうなんだ」


「右脚の骨折は全治六週間。打撲と擦過傷は二週間で治る。来週には退院できるってさ」


「そうか。よかった」


簑島の声には、隠しきれない安堵が滲んでいた。


雨貝はチキンステーキを咀嚼しながら、ふっと笑った。


「心配してくれてたのか、簑島」


「……別に。お前がいないと、そのぶん面倒な仕事がこっちに回ってくるからな。それで気にしてるだけだ」


「嘘つけ」


「嘘じゃない」


二人は顔を見合わせて、笑った。


窓の外を、小鳥が横切っていった。五月の風が、カーテンをわずかに揺らしていた。


* * *

同日。天叡結社≪エデン・オルド≫。地下四十七階。久能昌の個室。


モニターの群れに囲まれた久能は、キーボードに――いや、宙に浮かせた指先に電磁パルスを走らせながら、世界各地の電子機器を操っていた。


南米の通信衛星の軌道修正。アフリカの電力グリッドの最適化。北極海の海底ケーブルの点検。結社の通常業務。地味だが、人類のインフラを裏から支える仕事。


「アリス」


『はい、久能さん』


「盟主から監視任務の終了通知が来た」


『おめでとうございます。これで自由な時間が増えますね』


「自由な時間ったって、やることは変わんねえよ。モニターの前で電子機器いじるだけだ」


『でも、監視対象を気にしなくてよくなったのは大きいのでは? 久能さん、毎日の報告書を書くのが面倒だと愚痴を言っていましたよ』


「……まあ、それはそうだな」


久能はコーラの缶を開けた。プシュ、と炭酸の音が個室に響いた。


「正直、榊原の監視は疲れた。あいつといると、こっちまで振り回される」


『遊園地の時は、久能さんの方から振り回しに行っていたと記憶していますが』


「……それは忘れろ」


『記憶の削除は私の機能にありません』


「作れよ、その機能」


『削除の代わりに、楽しい思い出として保存しておきますね』


「楽しくねえよ」


久能はコーラを一口飲んで、天井を見上げた。


モニターの一つに、盟主からのメッセージが表示されている。


『久能。元No.13の監視任務を、本日をもって終了する。長期間ご苦労だった』


「ご苦労だった、か」


久能は呟いた。


盟主から労いの言葉をもらったのは、初めてだった。


「……まあ、たまにはいいか。こういうのも」


『久能さん、もしかして嬉しいですか?』


「うるせえ」


久能は照れ隠しにモニターを一台消した。指先の電磁パルスが、ほんの少しだけ温かい光を帯びた。


* * *

同日。天叡結社≪エデン・オルド≫。地下四十七階。訓練フロア。


金属と金属がぶつかる、鋭い音が響いていた。


鬼嶋十夜は、一人で訓練していた。


右手に日本刀。左手にナイフ。どちらも≪無限凶器インフィニット・デスサイズ≫で生成した武器。


型を繰り返す。斬撃。突き。受け流し。回転斬り。一つ一つの動作を、限界まで研ぎ澄ます。


悠真に敗北して以来、鬼嶋の訓練量は倍増していた。


超長距離狙撃では勝てなかった。遠距離が駄目なら近距離。銃がだめなら剣。飛び道具が通じないなら、手の届く距離で斬る。


勝てるとは思っていない。正直に言えば、榊原悠真に正面から勝てる人間がこの世に存在するとは思えない。


だが、それでも鍛える。


鬼嶋十夜は傭兵だ。勝てない戦いがあることは知っている。それでも刃を研ぎ続けるのが、戦士というものだ。


日本刀を一閃。空気が裂ける音。


鬼嶋は汗を拭い、刀を消した。虚空に還る金属の残響。


「……次は、もう少しマシな戦いをしてやる」


誰もいない訓練フロアで、鬼嶋は呟いた。


その声には、敗者の悔しさと、挑戦者の矜持が、静かに同居していた。

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