第8章:協力
無重力の歪みを抜けた先、二人の前に現れたのは、轟音を立てて渦巻く『隠し水路』だった。
暗い地底の底を流れるその水は、ただの川ではない。上流の鉱脈から溶け出した重金属を含み、触れるだけで体温を奪い去る、鉛のように冷たい黒い濁流だ。
「……まともに泳げば、三分と持たずに心臓が止まるな」
レクスは水面に折れた木の枝を投げ入れる。枝は一瞬で引きずり込まれ、見えなくなった。
向こう岸への距離は約十メートル。飛び越えるには遠すぎる。
「僕の『風の魔術』でも、二人分の身体を向こう岸まで浮かすだけの出力は出せないよ。……ちくしょう、本当に効率が悪い」
ヒューゴは濡れた前髪を乱暴にかき上げ、悔しそうに舌を巻いた。
彼が持つ正確な地図には、この水路を安全に渡るための「跳ね橋」が記されていたはずだった。しかし、目の前にあるのは、経年劣化で完全に崩落した木と鉄の残骸だけだ。
正規ルートを誇るヒューゴの知識と、泥臭い状況適応力を持つレクスの身体。
どちらか一方だけでは、この冷たい境界線を越えることはできない。
「ヒューゴ、お前の地図に載っている崩落した橋の支柱――あれの基礎は、まだ水底で生きているか?」
「え……? ああ、魔術的な構造診断によれば、中央の岩盤に打ち込まれた芯鉄は残っているはずだけど。それがどうした?」
レクスは不敵に口元を歪め、ガザルの店から新調した肉厚な大剣を強く握り直した。
「だったら、話は早い。お前が風で『足場』を固定しろ。俺がこの大剣で、あそこに見える巨大な鍾乳石を叩き落として、臨時の架け橋にする」
「正気か!? あの太さを一撃で叩き切るつもりかよ、野良犬!」
「生き延びるためだ。行くぞ、スマートな冒険者様」
――ガツンッ!
レクスが放った渾身の一撃が、天井から垂れ下がる巨大な鍾乳石の根元を捉えた。肉厚な大剣の重量と、傭兵の正確な打撃点。凄まじい衝撃音と共に、数トンはある岩の塊が、狙い通り濁流の中央へと轟音を立てて崩れ落ちる。
「ヒューゴ、今だ!」
「くっ……『吹き荒べ、不動の楔』!」
ヒューゴが即座に手を突き出し、風の魔術を放つ。凝縮された空気の塊が、水底の芯鉄と落ちた鍾乳石の隙間に強引に割り込み、激流に流されそうになる巨岩を力技で固定した。
白く泡立つ濁流の中に、かろうじて一本の「岩の道」が架かる。
「よし、渡るぞ!」
レクスが先頭を切り、濡れて滑る岩肌を凄まじいバランス感覚で駆け抜ける。
続いてヒューゴが跳んだ。しかし、その瞬間、水路の奥から「ゴオオオ」という不気味な地鳴りが響き渡る。
上流で局所的な鉄砲水が発生したのだ。
一瞬にして水嵩が増し、黒い波濤がヒューゴの足元を激しくさらった。
「う、あ……っ!?」
魔術の維持に意識を割いていたヒューゴは、踏ん張りが利かず、そのまま足を滑らせて冷たい濁流へと滑り落ちた。
重金属を含んだ黒い水が、一瞬で彼の身体を飲み込もうとする。体温が急速に奪われ、ヒューゴの指先から力が抜けていく。
「ヒューゴ!」
レクスは迷わず岩肌に腹這いになり、濁流の中へと右腕を突き出した。
波間に見えたヒューゴの濡れたマントを、強引に掴み取る。
ズシ、と水圧の乗った凄まじい重量がレクスの肩にのしかかった。ガザルの大剣を支点にして身体を固定するが、引きちぎられそうな激痛が走る。
「手を、伸ばせ……! 効率主義の天才サマが、こんなところで溺れてんじゃねえ!」
「か、はっ……手が、動か、ない……っ!」
水の冷たさでヒューゴの筋肉は完全に硬直していた。
見捨てるのは簡単だ。ここで手を離せば、ライバルは消え、四階層の利権は自分のものになる。
だが、レクスは奥歯が砕けんばかりに噛み締めた。
泥水をすすって生きてきた男のプライドが、ここで仲間(一時的とはいえ)の手を離すことを許さなかった。
「動かねえなら、歯で食いしばりやがれ!」
レクスは左手も泥の中に突っ込み、ヒューゴの襟元を両手で鷲掴みにすると、背中の筋肉を爆発させて、その身体を濁流から力任せに引きずり揚げた。
ドサリ、と向こう岸の乾いた地面にヒューゴの身体が転がった。
レクスもその場に大の字に倒れ込み、激しく上下する胸を押さえながら、濁った天井を睨みつける。
「……はぁ、はぁ……。死ぬかと、思った……」
ヒューゴは歯の根をガチガチと鳴らしながら、生きている実感を確かめるように自身の両手を見つめた。
全身が紫色の冷水で濡れそぼり、スマートさなど微塵もない。
「言ったろ、死にやしないってな。……ただし、これで貸しは二つだ」
レクスは重い身体を起こし、ガザルの大剣を引き抜いて鞘に収めた。
二人が冷たい息を吐き出しながら、ようやく安堵の空気が満ちようとした、その時だった。
――カツン、カツン。
激しい水路の轟音に混じり、背後の暗闇から小さな、だが妙に規則正しい『硬い音』が響いた。
それは、迷宮の岩肌を軽やかに蹴る、特殊な軽量革靴の足音。
「誰だ……!?」
ヒューゴが青ざめた顔で瞬時に杖を構えるが、寒さで腕が小刻みに震えている。
レクスは無言で大剣の柄に手をかけ、足音の主へと鋭い視線を向けた。
一階層からずっと、自分たちの背後にまとわりついていた、微かな気配の正体。
暗闇の奥から現れたのは、顔を古い防砂布で覆い、手首に音を消すための金属製の特殊な糸巻き(リール)を巻き付けた、小柄な人影だった。
その影は、レクスとヒューゴの泥まみれの惨状を冷徹に見つめると、布越しに低く、鈴の鳴るような声を漏らした。
「……なるほど。野良犬の牙と、へっぽこ魔術師の組み合わせ。意外と悪くない観察対象ね」
彼女の腰には、戦うためではなく「痕跡を消す」ための異形の短剣が握られていた。
四階層の本当の暗闇が、彼らの前にその姿を現した瞬間だった。




