第46章:壊死の玉座、あるいは虚無の戴冠
すべての振動が失われ、完全な無音が第八階層の底を支配していた。
少女の胸の核から溢れ出た暗緑色の壊死液体は、津波となってレクスたちの視界を丸ごと呑み込み、存在の定義そのものを泥へと変えていく。かつて骨の山で埋め尽くされていた『世界の裏骨』は、いまや形を失った黒いヘドロが脈動する、巨大な不浄の沼地へと変貌していた。
(ここが……終わりの場所か)
レクスは、右腕を失い、左半身を炭化させた形のまま、ヘドロの底へと深く沈み込んでいた。
痛覚はとうの昔に死に絶えている。だが、彼の左胸に溶接されたガザルの首級から、体内の血管代わりにうねる黒い根を伝って、脳髄へと直接流れてくる冷徹な拒絶命令だけが、彼の最後の精神を執拗に引き裂いていた。
『……ロット番号……00。……システムの一部として、完全な融解を確認……』
ガザルの口から漏れ出る機械的な声。それはもう恩人の意志ではなく、迷宮が侵入者をすり潰すために出力しているただの警告音だった。
レクスは勝つためにすべてを捨ててきた。かつての仲間を喰らい、神の光を砕き、自らの心臓を檻に閉じ込めた。しかし、その旅路の最果てで彼を待っていたのは、自分が救おうとした少女の亡霊によって、内側からすべてを腐らせて灰にされるという最悪の不条理だった。
「……ハ、……ハハッ」
レクスは、感覚の消えゆく脳の片隅で、冷たく、そして陰惨に笑った。
四肢は動かない。大剣は砕け散り、鉄槌も壊死した。誰も救いに来ない。世界はただ、自分というバグを完全に消去するために、この最深部の闇を用意したのだ。
「だったら……その壊死ごと、オレの肉に、してやるよ……」
レクスは、左胸の奥で沈黙していたはずの『迷宮の真の心臓』の全安全弁を、内側から強引に爆破した。
心臓を拒絶するのをやめ、少女の放つ壊死の呪いを、逆に対流する自らの黒い根の檻で『強引に捕食し、簒奪する』。
ドグォォォォンッ!!!!!
第八階層の底で、これまでとは根本的に異なる、世界そのものの存在を拒絶するような黒い衝撃波が炸裂した。
レクスの肉体から湧き出た黒い根が、暗緑色の壊死液体を逆に吸い上げ、それを自らの新たな『鉄の外殻』として急激に硬化させていく。失われた右腕の断端からも、骨の残骸を触手のように巻き込んだ、黒鉄と植物の悍ましい異形のアームが爆発的に再構築されていく。
彼は迷宮に消去されたのではなかった。
世界を腐らせるはずの呪いそのものを自らの「飢え」で支配し、真の『壊死の王』として再誕したのだ。
激しい泥のうねりを突き破り、レクスはゆっくりと立ち上がった。
彼の左胸には、ボルトで固定されたガザルの首級が、黒鉄の肉壁と完全に一体化し、その隻眼から赤黒い魔力光を放って脈動していた。
「ヒューゴ、ニクス。……生きてるか、……死に損ないども」
レクスが喉の金属摩擦の音を響かせると、ヘドロの影から、もはや生者としての輪郭を失った二つの影が這い出してきた。
ヒューゴは右脚に続き左腕をも植物の根に侵食され、衣服の隙間に埋め込まれた鉄殻の破片が彼の肉を完全に黒く焼き焦がしていたが、そのギラついた両眼だけは、レクスの戴冠を特等席で見届けるために、狂気的に輝いていた。
「最高だよ、レクス。……君は本当に、世界のすべてを敵に回して、その玉座に座ったんだね……」
ニクスもまた、両手の骨を剥き出しにしたまま、調停人としての冷徹な瞳をレクスに向けていた。
「灰色ギルドの監査も、これで完全に終了ね。……これからは、地上の全人類が、あなたの『壊死』に怯える番よ」
レクスが新たな右腕を前に突き出すと、頭上の陥没した縦穴を通じて、地上の『黒鉄の街』の焦土、そしてその先にある中央教会の領域にまで、彼の肉体から伸びる無数の黒い根が、大地を内側から腐らせながら浸食し始める感覚がリアルに伝わってきた。
しかし、レクスが地上への真の「侵攻」の咆哮を上げようとしたその刹那、第八階層のさらに奥、完全な虚無の境界線の向こうから、カツン、カツン、と、場違いなほど規則正しい『硬い革靴の足音』が響いた。
三人が息を呑み、視線を向けた先。
黒いヘドロの霧の向こうから現れたのは、あの第17章でレクスが確実に解体し、ただの泥の塊へと変えて滅ぼしたはずの傭兵団の長――『バルトの生前と全く同じ姿をした、五体満足の男』だった。
彼の右腕には、あの黒い大刀が握られ、その隻眼には、迷宮のものではない、十年前のあの【裏切りの日】と完全に同じ、冷酷でいて生々しい人間に満ちた知性が宿っていた。
「久しぶりだな、レクス。……お前がそこまで上り詰めるのを、ずっと待っていたぞ」
バルトは冷たく笑い、大刀を静かに水平に構えた。
彼がそこにいるのではない。迷宮は、レクスが主となった瞬間、彼が最も激しい「飢えと怨嗟」を抱く対象を、彼の精神の死角から『本物の人間として完全に複製・新生』させたのだ。
自分がどれだけ世界のシステムを簒奪しようとも、迷宮はそれ以上の冷酷さで、彼の過去の因縁を無限に再生産し、彼を永遠の戦い(地獄)へと縛り付けようとする。
壊死の玉座に座った偽物の王は、自分を裏切った始まりの男の幻影の前に立ち尽くし、その飢えた右眼をかつてないほど陰惨にギラつかせながら、終わりの嵐の中で、静かに黒鉄の右腕の大剣を再び構え直した。世界の裏側を舞台にした真の決算は、より深く、救いのない暗黒の底へと、彼らを道連れにしながら完全に暗転していった。




