第45章:寄生聖遺、あるいは無為の壊死
呼吸の代わりに、黒いガスが虚無の底を満たしていく。
第八階層――『世界の裏骨』と呼ばれるその最深部には、地上の雨も、迷宮の地熱も届かない。あるのはただ、押し潰された歴史の残渣が、冷たい無音の中でさらに細かく砕けていく乾いた音だけだ。
レクスは黒鉄の右腕を震わせ、正面に浮かび上がる『逆さ十字の繭』を、ただ一つ残された右眼だけで見つめていた。
繭の表面を覆う数え切れないほどの赤ん坊の腕は、生き物のようにうねりながら、ガラスの向こう側にある「少女の顔」を締め付けている。第39章で彼女の胸を貫き、そのシステムごと解体したはずの無垢な生贄。しかし、彼女の瞳には、かつて温室の底で震えていた時の光はなく、世界を内側から腐らせるための、底なしの『壊死のルーン』が暗緑色の燐光を放っていた。
「……オレが、……お前を、……また殺すのか」
レクスの喉から漏れ出たのは、声帯の擦り切れた金属摩擦の音だった。
彼の左胸、ボルトで固定されたガザルの首級(生首)のさらに奥。石化して沈黙したはずの『迷宮の真の心臓』が、少女の形をしたバグの拍動と同調し、体内の黒い根を内側から千引きちぎるような激しい悪寒をもたらしていた。
彼が世界を逆支配し、「主」となったことで生まれた新たな拒絶反応。彼が手を伸ばし、そして生存のために切り捨ててきたすべての因縁が、より悍ましい呪いとなって彼の肉体を内側から蝕んでいく。
「ハハッ……、本当に、どこまでも分の悪い計算式だよ。……今度は、自分の犯した『罪』そのものが、次の階層の壁になるってわけか」
背後の暗闇から、植物の根で編まれた歪な一本の脚を引きずりながら、ヒューゴが這い出してきた。
彼の皮膚の隙間に食い込んだ断頭刀の破片からは、過負荷による魔力遮断の冷たい煙が絶え間なく噴き出し、彼の生者としての輪郭を急速に消し去っている。洗練されていた魔術師の姿はもうない。だが、そのギラついた両眼だけは、レクスの破滅を最後まで見届けるために、なおも狂気的に輝いていた。
「灰色ギルドの契約書も、これで完全に消炭ね。……レクス、あなたが彼女を殺したことで、迷宮は『生者を腐らせる段階』へ移行したわ」
ニクスが天井の黒い肉壁から影のように滑り降りた。彼女の両手は、骨が剥き出しになったまま黒い繊維で強引に縛り上げられ、指先からは凝固した黒い体液が滴っている。しかし、調停人としての彼女の瞳は、この世界の裏側で交わされる最悪の決算を、冷徹に脳裏に刻み込んでいた。
「……個体名『レクス(主)』。……および、不浄の随伴体たち。……これより、全システムの『壊死処理』を開始する……」
繭の中の少女が、平坦で、しかし歪に歪んだレクス自身の生前の声で静かに呟いた。
彼女がその骨の融着した手を前に突き出した瞬間、第八階層を満たす黒い肉の絨毯が一斉に波打ち、そこから無数の『白緑色の不浄な根』が、牙を剥くようにしてレクスたちへと襲いかかってきた。
その根に触れた骨の山が一瞬で黒く腐り、脆い塵へと変わっていく。魔力を吸い取るのではない。存在そのものを「腐敗」させ、虚無へと帰す、迷宮の自己崩壊システム。
「ヒューゴ、ニクス! 下がってろ! 触れれば一瞬で灰になるぞ!」
レクスは叫びながら、黒鉄の右腕でガザルの大剣を逆手に構え、地を爆破するようにして前方の根の津波へと突撃した。
――ギチチチチ、ガキィィンッ!!!
激突。
レクスの一撃は、正面から迫る白緑色の根を数本まとめて叩き切ったが、大剣の刀身がその不浄な体液に触れた瞬間、パチパチと高い音を立てて、黒い錆の亀裂が根元から一気に広がり始めた。
武器の壊死。ガザルが削り出した頑丈な鉄が、少女の放つ呪いによって、ただの脆い炭屑へと変えられていく。
「親父の形見を、ナマクラにするんじゃねえよ……っ!」
レクスは笑わなかった。その右眼にある冷徹な飢えは、今や目の前の「自分の罪」をその喉笛ごと噛み千切るという、狂気的な執念だけで駆動していた。
彼は大剣を投げ捨て、左腕に融着したガザルの鉄槌を強引に振り上げた。炭化した左半身の筋肉を限界まで締め付け、鉄槌の内部に眠る『老ドワーフの怨嗟のルーン』を最大出力で開放する。
――ゴォォォンッ!!!
重厚な破壊音が第八階層に炸裂した。
鉄槌の放つ魔力遮断の衝撃波が、迫り来る白緑色の根を内側からショートさせ、少女の繭の前方に決定的な亀裂を生み出す。
「ヒューゴ! 今だ、あの脳髄の基部を叩け!」
「呪文の詠唱なんて、とうに忘れたよ……。だけど、この『現象』の質量なら、まだ残っている!」
ヒューゴは自身のちぎれかけた右腕を杖代わりに地面に突き立て、残された全生命力を衝撃波に変えて放った。
ドォン! と、少女の繭を支えていた背後の巨大な鉄の逆さ十字が脆く破砕され、繭の巨体がバランスを崩してレクスの方へと大きく傾く。
その一瞬の隙へ、レクスは自らの身体を弾丸のように滑り込ませた。
黒鉄の右腕を伸ばし、割れた繭の隙間から覗く、少女の左胸の『第二の心臓(世界を腐らせる核)』へと、その指先を深く突き立てる。
しかし、レクスの指がその核に触れた瞬間、世界の時間が完全に凍りついた。
「……あ……、れ……く……す……」
繭の中の少女が、ゆっくりと首を動かし、その濁りきった瞳でレクスを正面から見つめた。
彼女の胸の核から放たれたのは、衝撃波ではない。レクスの黒鉄の右腕を、そして彼の左胸に埋め込まれたガザルの首級の肉を、一瞬で内側から『壊死』させるための、圧倒的な不浄の熱量だった。
レクスの右腕の植物の繊維が、ボロボロと黒い灰となって崩れ落ちていく。
さらに、ガザルの首級の灰色だった皮膚が、少女の呪いによって黒く変色し、その口から、レクス自身を拒絶するための、冷たい機械的な駆動音が漏れ聞こえ始めた。
「……ロット番号……00……。……これ以上の……生存は……認めない……」
ガザルの声。だが、それは迷宮のシステムによって完全に上書きされた、レクスを圧殺するための最後の宣告だった。
胸に抱いた恩人の首が、そして目の前の少女の亡霊が、同時にレクスの命を内側から引きちぎろうと牙を剥く。
「が……あ、ああ、あああああああっ!!!」
レクスの左胸の空洞から、白銀の炎混じりの咆哮が漏れる。
右腕を失い、左腕の鉄槌も壊死し始め、彼は自らが作り出した二重の呪いの前に、完全に動きを止められていた。
救いなど、最初からこの世界のどこにも出会えやしない。
彼が誰かを救おうと手を伸ばすたび、世界はその大切な者の形を使って、彼を最も残酷に、そして正確に破壊しに来るのだ。
少女の胸の核が、眩いばかりの暗緑色の光を放ち、第八階層全体を埋め尽くさんとするほどの、ドロドロとした『壊死の液体の津波』が、彼らを丸ごと飲み込もうと迫ってきた。
「レクス!!」
ニクスとヒューゴの叫び声が、崩壊する世界の無音の轟音にかき消されていく。
レクスは、右腕を失い、左胸の親父の首から呪いを受けながらも、その残された右眼をかつてないほど陰惨にギラつかせ、その不敵に歪んだ口元から、最後の金属摩擦の音を響かせた。
「……誰も来ねえ。……なら、お前ごと、この世界を泥水に変えてやるよ」
狼は、自らの左胸のワールド・コアの出力を完全に暴走させ、迫り来る壊死の津波の中へと、自ら笑いながら深く、深く飛び込んでいった。
世界の裏側を舞台にした真の終焉は、彼らの一切の存在を消滅させるための、最も暗く、救いのない暗黒の底へと、完全に沈み込んでいった。




