第44章:世界の裏骨、あるいは無音の玉座
終わりを迎えた世界には、叫び声すら残されていなかった。
焦土と化した地上、引き裂かれた聖騎士団、そしてガザルの武器屋の残骸。そのすべてを丸ごと飲み込んだ迷宮の巨大な胃袋は、ゆっくりと収縮し、数え切れないほどの命の残滓を黒い泥へと変えて第七階層のさらに底――存在してはならないはずの『第八階層』へと吐き出していた。
底なしの暗黒を落下しきったレクスの身体は、硬い骨の山ではなく、冷たく脈動する「黒い肉の絨毯」の上へと横たえられていた。
「……ぁ……、ぐ……」
レクスの喉の奥から、人間のそれとは完全に異なる、駆動油が擦れるような金属摩擦の音が漏れる。
彼の左胸。かつて『真の心臓』が収まっていた空洞は、いまや完全に周囲の黒い肉壁と融着し、無数の太い根が血管のように彼の四肢へと侵入していた。炭化した左腕はガザルの鉄槌を巻き込んだまま一本の巨大な鉄の杭へと変貌し、右腕の植物の繊維は黒鉄のルーンを刻んだ外殻に覆われている。
全身の皮膚は消失し、そこにあるのは迷宮そのものの質感。
レクスは勝ったのだ。自分を裏切ったバルトを噛み殺し、神の放った断頭台を叩き割り、恩人の首を掲げた聖騎士団を喰らい尽くした。だが、そのすべての不条理に抗い続けた狼の旅路の終着駅は、生者としての帰還ではなく、世界そのものを呪う化け物の『玉座』だった。
レクスは、黒鉄の右腕を震わせながら、自身の胸元へと視線を落とした。
そこには、あの焦土の戦場で聖騎士団の総長から強引に取り返した、ガザルの『物言わぬ首級』が、彼の体内の黒い根によって、レクスの左胸の空洞(心臓のあった場所)の真上へと、埋め込まれるようにして完全に固定されていた。
ガザルの虚ろな隻眼のルーンは消え、ただの枯れ木のような灰色に変色している。レクスは恩人の首を、自らの新たな「胸当て」として、そして二度と消えない呪いの楔として、自らの肉体へと溶接したのだ。
「……親父。……最高の、仕上がり、だろ……」
掠れた金属の声が、無音の空間に虚しく響く。
「ハハッ……、本当に最悪の、最高傑作だよ。君は」
背後の闇から、濡れた肉を引きずりながら這い寄る影があった。
ヒューゴだ。彼の肉体もまた、迷宮の崩壊に巻き込まれたことで、完全に生者としての限界を迎えていた。右脚は完全に消失し、代わりに黒い植物の根が歪な一本の脚を形成している。割れ落ちた断頭刀の破片が彼の皮膚の内側に食い込み、呼吸をするたびに、体内から不気味な黒い蒸気が噴き出していた。
洗練されていた魔術師の面影はどこにもない。だが、そのギラついた両眼だけは、レクスの異形を「特等席」で嘲笑うために、なおも冷たく輝いていた。
「灰色ギルドの監査記録……、これで、最初の章のすべてのページが、真っ黒に塗り潰されたわね」
ニクスが天井から影のように降り立った。彼女の両手は、骨が剥き出しになったまま黒い植物の繊維で強引に縛り上げられ、衣服はボロ布のように裂けている。しかし、調停人としての彼女の瞳は、レクスが迷宮のシステムそのものを逆支配したその瞬間を、冷徹に脳裏に刻み込んでいた。
「レクス。あなたがこの第八階層――『世界の裏骨』の主となったことで、地上の人類は、迷宮をただの『資源の穴』と呼ぶことができなくなったわ。……これからは、地上があなたの『胃袋』に怯える番よ」
ニクスの言う通りだった。
レクスが左胸のワールド・コアに僅かに意識を向けると、頭上の陥没した縦穴の向こう、地上の全域に、彼の肉体から伸びる無数の黒い根が、血管のように大地を浸食し始めている感覚がダイレクトに伝わってきた。
彼は迷宮に呑まれたのではない。
迷宮の力を自らの「飢え」で支配し、今度は地上世界そのものを『捕食』するための、新たなる終末の王として覚醒したのだ。
レクスはゆっくりと立ち上がった。
ガザルの首級を胸に抱き、刃こぼれした大剣を、黒鉄の右腕で静かに正眼に構える。
誰も救いには来なかった。世界はただ、自分をゴミのように扱った。
なら、この狂った世界のすべてを、オレの牙で、この檻の中で、完全に噛み砕いて終わらせるだけだ。
しかし、レクスが地上への最初の「侵攻」の意志を込めて大剣を振り下ろそうとした刹那、第八階層の奥、完全な無音の境界線の向こうから、ジュク、……ジュク、と、悍ましい液体の音が響いた。
三人が鋭い視線を向けた先。
黒い肉の絨毯の隙間から、数え切れないほどの人間の『引き千切られた赤ん坊の腕』が、網目のように絡み合いながら、一つの巨大な『逆さの十字架』の形をした繭を形成し始めていた。
そして、その繭の表面に浮かび上がってきたのは、神代のルーンではない。
かつてレクスたちが戦場で失い、第39章でレクス自身の手で確実に解体して泥に変えたはずの、あの**『無垢な少女の、血に濡れた完璧な素顔』**が、ガラスの向こう側から、狂気的な笑みを浮かべてレクスをじっと見つめていた。
『……ロット番号……00……『レクス(偽物)』。……お前が主になったのなら、私はその世界を……内側からすべて『腐らせる』ための、新たな寄生虫になるわ……』
少女の形をした迷宮のバグ。それは、レクスが彼女を殺し、システムを奪ったことで生まれた、世界を真の虚無へと導くための、最悪の「第二の心臓」だった。
誰も救われやしない。自分がどれだけ不条理に抗おうとも、彼が手を伸ばしたすべての命が、最悪の呪いとなって彼の目の前に立ちはだかる。
心臓の沈黙した黒鉄の王は、自らの罪の形をした繭の前に立ち尽くし、その飢えた右眼をかつてないほど陰惨にギラつかせながら、終わりの嵐の中で、静かに大剣を再び構え直した。世界の裏側を舞台にした、偽物の王と、彼が殺した少女の亡霊による、世界を完全に無へと帰すための真の「終末の第二章」が、今、最悪の暗黒と共に幕を開けようとしていた。




