第43章:血塗られた聖域、あるいは終末の祝祭
灰の雪が、ガザルの冷たくなった隻眼の瞼の上に降り積もる。
聖騎士団の総長が乗る軍馬の鞍に無造作に吊るされた、老ドワーフの首級。頭部に打ち込まれた神代のネジの隙間から、ドロドロとした黒い迷宮の体液が、今も焦土の泥水へと滴り落ちている。彼が命を賭して鍛え上げた武器屋『黒鉄堂』の誇りは、地上の「秩序」を自称する者たちの手によって、文字通り塵にまみれた戦利品へと変えられていた。
「……ロット番号、00。……および、不浄の残滓ども」
白銀の甲冑を纏った総長が、馬上で冷酷に黒い大剣をレクスへと向けた。
彼の背後に控える数百の聖騎士団。彼らが構える軍用剣の刀身には、皮肉にも迷宮の死体どもと全く同じ『魔力吸収』の歪なルーンが、白く発光しながら刻まれていた。神の秩序も、迷宮の不条理も、本質は変わらない。弱者をすり潰し、利権を貪るための、ただの冷徹な「システム」だ。
「……ハ、……ハハッ」
レクスの喉から、ひどく掠れた、金属同士が擦れ合う笑い声が漏れた。
左胸の『真の心臓』は、先ほどの神罰の光を限界まで喰らったことで完全に沈黙し、石のように冷たく静止している。しかし、その内側に溜め込まれた圧倒的な破壊の熱量が、彼の黒鉄の外殻の隙間から、赤黒い蒸気となって激しく噴き出していた。
右腕は植物の根と鉄の合成物。左腕は炭化し、ガザルの鉄槌と完全に融着している。
人間としてのパーツをほぼすべて失い、心音すら失った狼の眼には、もはや絶望も悲しみも残っていなかった。あるのは、ただ一つ。
自分の命をゴミのように扱い、親父の誇りを踏みにじったこの世界を、その根底から噛み千切るという、底なしの『飢え』だけだ。
「ヒューゴ、ニクス。……動けねえなら、そこに転がってろ。……オレが、全部喰う」
「……言われなくても、もう指一本動かないよ……。だけどさ、その綺麗な白銀の連中を泥水に沈めるなら、特等席で見せてもらうさ」
ヒューゴは泥水の中に伏したまま、血の泡混じりの笑みを浮かべ、自身の胸に突き刺さった鉄殻の過負荷ルーンをさらに深く押し込んだ。魔力を遮断する冷たい圧力が、彼の最後の生命力を強引に繋ぎ止める。
ニクスもまた、肉の削げ落ちた白い両手を焦土の石畳に固定し、血走った右眼で、この焦土の聖戦を記録せんと凝視していた。
「聖騎士団、前へ。……神の名の元に、完全に間引け」
総長の冷徹な号令と共に、数百の白銀の鉄蹄が、焦土の泥水を跳ね上げて一斉に突撃してきた。地響きが街の残骸を震わせ、魔力吸収のルーンが放つ白い光の波が、レクスたちを包囲するように迫る。
レクスは、正面から迫る白銀の津波に向かって、地を爆破するように地を蹴った。
――ズガァァァンッ!!!
激突。
レクスが放った植物の根の右腕による大剣の一撃は、最前列の聖騎士三人の白銀の甲冑を、その軍馬ごと真っ直ぐに両断した。内臓と鉄の破片が焦土へと激しく飛び散る。
しかし、聖騎士団は動じない。死を恐れぬ統率された動きで、左右から無数の軍用剣が、レクスの炭化した左半身へと一斉に突き立てられた。
チチチチ、ガキィィンッ!
肉を割る音ではない。レクスの皮膚と一体化した黒鉄の外殻が火花を散らし、魔力吸収のルーンが彼の体内の黒い根からエネルギーを強引に吸い取ろうとする。
だが、ワールド・コアの支配者はレクスだ。吸われるのではない。逆に、突き刺さった軍用剣の刀身を介して、聖騎士たちの『生命力』と『秩序の魔力』を、レクスは自らの左胸の空洞へと力任せに簒奪し返した。
「ア……ガ、ああああああっ!!」
剣を握っていた聖騎士たちの顔が、一瞬で恐怖の絶叫に歪んだ。彼らの肉体は甲冑の中で急速に干からび、脆い灰となって泥水へと崩れ落ちていく。
レクスは止まらない。左腕に融着したガザルの鉄槌を狂ったように振り回し、迫り来る鉄蹄を、盾を、頭蓋を、次々と粉砕していった。
戦場は、凄惨な捕食域と化していた。
白銀の美しい甲冑が泥と黒い血で汚れ、秩序の軍勢が、一匹の黒鉄の化け物によって次々と「解体」されていく。
しかし、聖騎士団の数は圧倒的だった。
総長が馬上から放った黒い大刀の鋭利な刺突が、レクスの唯一残された右の眼球の真横――彼の頬の肉を深く切り裂き、黒い体液が噴き出す。さらに、数条の神聖な魔術の鎖が闇から伸び、レクスの四肢を強引に焦土の石畳へと縫い留めた。
「動くな、不浄の獣。……お前の牙は、ここで折れる」
総長が馬から飛び降り、レクスの脳天に向けて大刀を上段に構え直した。完全な、逃げ場のない断頭の構え。
右腕の根は千切れかけ、左腕の鉄槌は鎖に縛られ、レクスは再び、十年前のあの日と同じ「死の境界線」へと立たされていた。
(誰も来ない。誰も救いやしない。……ああ、分かっているさ)
レクスは薄れゆく意識の底で、左胸の沈黙したワールド・コアの『最後の安全弁』を、自らの意志で完全に破壊した。
心臓を檻に閉じ込めるのをやめ、自らが迷宮の呪いそのものと同化する。
ドグォォォォンッ!!!!!
レクスの左胸の空洞から、これまでの赤黒いエネルギーではなく、完全な漆黒の『不浄の泥の触手』が、数え切れないほどの数となって爆発的に噴き出した。
鎖は一瞬で腐食して弾け飛び、総長の大刀が振り下ろされるより早く、その漆黒の根の束が、総長の身体を、そして彼の背後にいた数十人の聖騎士たちを丸ごと包み込み、引きずり倒した。
「な……んだ、これは……!? 神の加護が……消える……ッ!」
総長の絶叫。
レクスは黒鉄の右腕で大剣を毟り取るように引き抜くと、総長の胸甲へと垂直に踏み下ろした。
――ゴキィィンッ!
破壊音。総長の甲冑が粉砕され、彼の生命力のすべてがレクスの肉体へと吸い尽くされていく。
レクスは残された左手の鉄槌で、総長の馬の鞍からガザルの首級を静かに取り返した。煤と泥にまみれた恩人の生首を、自身の黒い根の蠢く左腕のなかに、壊れ物を抱くようにしてそっと抱き締める。
「……親父。……これで、終わりだ」
金属摩擦の声が、焦土の静寂に響いた。
聖騎士団の残党は、総長の無惨な死と、レクスの圧倒的な異形を前に、初めてその鉄の統率を失い、恐怖に震えながら後退を始めていた。
しかし、本当の終焉は、彼らの頭上から訪れた。
レクスがガザルの首級を抱き締めた瞬間、彼の左胸のワールド・コアと、地上の焦土に残されていたあの『巨大な繭』が、完全に一つに融合し、世界の崩壊の最終段階へ移行したのだ。
燃え盛る街の地平線全体から、数え切れないほどの『白く太い迷宮の根』が、地底の底から空を突き破るようにして一斉に噴き出した。家屋の残骸も、生き残った冒険者たちも、逃げ惑う聖騎士団も、そのすべての命が、迷宮の巨大な「胃袋」へと強引に巻き込まれ、泥の中に沈んでいく。
そして、レクス自身の足元の地面もまた、底なしの暗黒の奈落へと大きく口を開けた。
「レクス……ッ!!」
ニクスとヒューゴの叫び声が、崩壊する世界の轟音にかき消されていく。
レクスはガザルの首級を抱いたまま、自らが生み出した真の終末の渦(地獄の底)へと、ゆっくりと落下していった。
彼の右眼からはすでに全ての光が消え失せ、全身が黒い根と鉄の外殻に包まれた完全な「迷宮の主」の姿へと変質していた。
自分が守ろうとした街も、救おうとした親父も、すべてを自らの牙で破滅へと導いた最悪の王。
狼は、夜明けの決して来ない完全な暗黒の底へと、ただ一つの終わらない飢えだけを抱いて、陰惨に、静かに沈み込んでいった。世界の意思を噛み砕いた代償は、すべての存在の完全な消滅だった。




