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第42章:神罰の天秤、あるいは餓狼の捕食域

 白と黒の境界線が、焦土と化した『黒鉄の街』の空で激しく擦れ合っていた。

 頭上から雲を裂いて降り注ぐのは、中央教会が放った禁忌の広域消滅魔術『神の断頭台(ルシフェル・フォール)』の巨大な光の杭。それは、迷宮の逆流もろとも、生き残った人間ごとこの街を歴史から抹消するための、冷徹な秩序の質量だった。光の巨杭が近づくにつれ、大気は激しく電離し、衣服や肌の表面がジリジリと焦げるような高熱の静寂が街を支配していく。


 そして正面には、かつて自分を裏切り、報酬を持ち逃げした傭兵仲間の成れの果て――『千手の百足(ムカデ)』が、無数の人間の腕を蠢かせながら泥水を跳ね上げて迫っていた。


「助けて……レクス……痛い、熱いよ……ッ!」

「お前が前衛だ……盾になれ……死ね……ッ!」


 百足の肉壁に埋め込まれたかつての戦友たちの顔が、過去の記憶と現在の狂気を混濁させながら、歪な顎をガチガチと鳴らして怨嗟の声を撒き散らす。


「……ハハッ。神様の処刑台と、昔の仲間たちの死体袋が同時にご到着か。これ以上ないほどスマートな終幕だな」


 ヒューゴが泥水の中に両膝をついたまま、不敵に歪んだ笑みを漏らした。彼の革鎧に埋め込まれた魔術遮断の鉄殻の破片は、頭上からの聖なる光を浴びて激しくパチパチと融解し、彼の胸の皮膚を焼き焦がしていたが、魔術師の目は死んでいなかった。

 ニクスもまた、肉の削げ落ちた指先で最後の鋼糸を焦土の石畳へと深く突き刺し、ただ冷徹に、世界の終わりと『黒鉄の狼』の動向を見つめていた。


「灰色ギルドの監査記録も、これで完全に消失ね。……レクス、世界があなたを消しに来たわよ」


「……世界だと?」


 レクスは喉の金属摩擦の音を響かせ、低く笑った。

 左胸の空洞に収まった『迷宮の真の心臓(ワールド・コア)』が、頭上からの光の圧力に呼応するように、凍りつくような冷たい怒りの拍動を刻む。体内の黒鉄の外殻が軋み、植物の根が彼の骨を限界まで締め上げる。


 裏切られたあの日から、自分を救う者など誰もいなかった。迷宮の底でも、地上の焦土でも、世界はただ執拗に、自分という不条理な存在を圧殺しようと牙を剥き続けてきた。


「誰も来ねえ。誰も救いやしねえ。……だったら、神様の席ごと、オレの胃袋の中に引き摺り下ろすだけだ」


 レクスは黒鉄の右腕でガザルの大剣を逆手に構え、地を爆破するようにして前方の百足へと突撃した。


 ――ギチチチチ、ガキィィンッ!!!


 凄まじい金属音が焦土に炸裂する。

 レクスの一撃は、千手の百足が放った無数の白骨の腕を強引にへし折り、その肉壁の中心へと真っ直ぐに突き刺さった。百足の体内に寄生していた植物の根が、レクスの右腕の根と接触した瞬間、簒奪のシステムが起動する。


「ア……ガ、ああああああっ!!」


 百足に融合していた仲間たちの顔が、一斉に恐怖の絶叫を上げた。彼らの肉体と、迷宮から与えられていた魔力のすべてが、レクスの左胸のワールド・コアへと、濁流のように強制簒奪されていく。かつての仲間たちを救うのではない。彼らの怨嗟も、裏切りも、その肉の質量ごと、己の反逆のエネルギーとして『喰らい尽くす』のだ。


 一瞬にして巨大な百足の肉体が干からび、脆い灰となって崩れ落ちていく。

 しかし、真の地獄はその直後に訪れた。


 頭上から迫っていた『神の断頭台』の光の巨杭が、ついにレクスの頭頭へと直撃したのだ。


 ――ドゴォォォォンッ!!!!!


 焦土の街のすべての光景が、真っ白な虚無の閃光によって完全に塗りつぶされた。

 聖なる消滅の魔術は、レクスの黒鉄の肉体を外側から容赦なく融解させ、彼の骨を炭化させていく。衝撃の余波だけで街の家屋の残骸が一瞬で蒸発し、周囲の泥水が沸騰して消え失せる。


「が……あ、ああ、あああああああっ!!!」


 レクスの口から、白銀の炎混じりの咆哮が漏れる。

 しかし、狼の左手は、泥の中に突き刺さっていた**『ガザルの鉄槌』**の柄を、決して離していなかった。


 彼は消滅の光に焼かれながらも、左胸のワールド・コアの出力を限界まで開放した。魔力を遮断するのではなく、受けた神罰のエネルギーそのものを体内の黒い根の檻で強引に受け止め、鉄槌の内部に眠る『老ドワーフの怨嗟のルーン』へと強制的に充填していく。


 神の光を、反逆の火薬に変える。


「……落ちろ」


 レクスは炭化した両足で焦土を深く踏み締め、左手の鉄槌を、頭上の光の巨杭の『中心核』に向けて、下から突き上げるようにして全力で振り下ろした。


 ――ズガァァァンッ!!!!!


 不条理な衝突。

 ガザルの鉄槌が光の杭と激突した瞬間、世界が完全に反転したかのような、悍ましい黒い衝撃波が四方に放たれた。

 中央教会の禁忌魔術は内側から完全に破壊され、白い光の破片が、まるで引き裂かれたカーテンのように夜空へと虚しく散っていく。世界の意思を、野良犬の牙が強引に叩き割ったのだ。


 激しい閃光が収まり、再び黒い灰の雪が降る静寂が戻る。


「はぁ……はぁ……、ガハッ……!」


 ヒューゴが泥水の中に倒れ込み、激しく咳き込んだ。彼の断頭刀は完全に消滅し、杖も炭化していたが、その目はまだ生きていた。

 ニクスもまた、衣服を全て焼き剥がされながらも、岩陰からレクスの姿を凝視していた。


 光を砕いたレクスの肉体は、もはや元の形を保っていなかった。

 全身の皮膚は白銀の炎で完全に焼き尽くされ、黒鉄の外殻はドロドロに融解して肉と一体化している。そして、彼の左胸の空洞――そこにあった『迷宮の真の心臓』は、神罰の光を限界まで喰らったことで、脈動を完全に停止し、不気味に静止したまま赤黒い高熱を放っていた。


 心臓の完全な沈黙。それは生存ではなく、彼自身が迷宮の『終わらない呪いの発信源(バグそのもの)』として完全に固定されたことを意味していた。


 レクスはゆっくりと、力なく大剣を引きずりながら、崩壊した大門の境界線へと歩みを進めた。彼の右眼からはすでに感情の光が完全に消え失せ、ただ世界そのものを呪うかのような、底なしの暗黒だけが宿っていた。


 だが、真の絶望は、彼らの背後――滅び去ったはずの『黒鉄の街』の地平線から響いてきた。


 ――カツン、カツン、カツン。


 焦土の静寂を破り、数え切れないほどの『硬い革靴の足音』が、燃える煙の向こうから近づいてくる。

 現れたのは、中央教会の紋章を血塗られた鎧に刻んだ、白銀の『聖騎士団』の大軍勢だった。彼らの手には、迷宮の死体どもと全く同じ、魔力を吸い取るルーンの刻まれた軍用剣が握られていた。


 教会は、街を消し去るだけでなく、最初から『この街にいる全ての生存者を虐殺する』ために、本隊を送り込んでいたのだ。


 そして、その聖騎士団の先頭を行く総長の馬の背に、括り付けられていたのは、上半身を完全に剥ぎ取られ、頭部に神代の鉄のネジを何本も打ち込まれた、あのガザルの『物言わぬ首級(生首)』だった。

 ガザルの虚ろな隻眼からは、黒い泥のような涙が一条、焦土へと滴り落ちていた。


「……個体名『レクス』、および不浄の生存者たちを……神の名の元に、完全に間引く……」


 聖騎士団の冷徹な一斉の詠唱が、夜空を満たす。

 救いはやはり、どこにも出会えやしない。自分がどれだけ世界に牙を剥こうとも、世界はそれ以上の冷酷さで、大切な者の命を塵に変えていく。

心臓を失った黒鉄の狼は、恩人の首を掲げる世界の軍勢の前に立ち尽くし、その飢えた右眼をかつてないほど陰惨にギラつかせながら、終わりの嵐のなかで、静かに大剣を再び正眼へと構え直した。焦土の夜は、本当の地獄の深淵へと、彼らを道連れにしながら完全に暗転していった。

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