第41章:逆行の鉄蹄、あるいは焦土の天秤
第七階層の底が、物理的な限界を迎えて鳴動していた。
『迷宮の真の心臓』を自身の左胸の空洞へと強引にねじ込み、逆にそれを支配下に置いたレクスの肉体は、すでに生物の境界線を完全に踏み越えていた。炭化していた左半身は、コアから噴き出す赤黒いエネルギーの奔流を浴びて黒鉄の鱗のような外殻へと変質し、植物の根で編み上げられた新たな右腕は、神代の魔術刻印をその繊維の隙間にギラギラと発光させている。
「……オレの、足跡を……邪魔するな」
レクスが低く呟いた瞬間、彼の背後から黒い根の束が爆発的に触手となって噴き出し、周囲の骨の山を完全に粉砕した。
痛覚の麻痺ではなく、肉体が世界そのものの質量を凌駕していく感覚。大剣を握る新たな右腕には、かつてガザルの店で値踏みされていた頃の「野良犬の軽さ」など微塵もなかった。
「はぁ……はぁ……、本当に……とんでもない計算違いだよ、君は」
崩落した瓦礫の影から、ヒューゴが折れかけた杖を支えに立ち上がった。彼の革鎧に強引に埋め込まれた魔術遮断の鉄殻の破片が、レクスの放つ圧倒的な余波と衝突し、パチパチと青白い火花を散らしている。
ニクスもまた、両手の肉を失いながらも、髪で編んだ即席の鋼糸を指に巻き付け、冷徹な観測者の瞳をレクスの異形へと向けていた。
「灰色ギルドの契約は、もう破綻しているわね。……けれど、その『世界のバグ』がどこまで昇り詰めるか、最後まで見届けさせてもらうわ」
「喋る元気が残ってるなら、置いてかねえよ。……行くぞ」
レクスは黒鉄の右腕で大剣を斜めに構え、天井の陥没した縦穴に向かって、文字通り地を爆破するようにして跳躍した。
重力そのものを反転させるような、ワールド・コアの簒奪された力。三匹の獣は、崩壊し、沸騰する迷宮の階層を、今度は超高速で「駆け上って」いった。
第六階層の自動工場は完全に沈黙し、溶接されていたガザルの機械化された巨体も、崩落の渦に巻き込まれて奈落へと消えていた。第五階層の沼は干からびてひび割れ、第四階層の水路は重金属の泥の焦土と化している。
かつて彼らが数日をかけて泥水をすすりながら降りてきた地獄の産道を、レクスたちはわずか数分で強引に突破し、再び第一階層の『大門』へと殴り込みをかけた。
――そこは、真の終末の光景だった。
焦土と化した『黒鉄の街』の空は、さらに赤黒く染まり、迷宮から噴き出した黒いガスが雲となって街全体を覆い尽くしていた。
路地には、生き残った数少ない冒険者たちの悲鳴と、四階層の鉄殻を纏った死体どもの悍ましい足音が交錯している。
だが、何よりも異常だったのは、かつてガザルの武器屋『黒鉄堂』があった場所の真上に浮かび上がる、あの巨大な『黒い繭』だった。
第34章の終わりに焦土の泥水の中で孵化を始めていたあの繭は、今や家屋数軒分の大きさにまで膨れ上がり、その表面には、死んだバルトの血の筆跡――『お前が最初から【主】だったんだよ』という呪いの言葉が、赤黒いルーンとなって発光していた。
ピキ……、ピキピキピキ。
レクスが地上の土を踏み締めた瞬間、その黒い繭が、待っていたと言わんばかりに激しく割れた。
内部から溢れ出たのは、粘度の高い黒い液体と、数え切れないほどの人間の「千切れた腕」によって構成された、巨大な『千手の百足』のような異形の化け物だった。
そして、その化け物の頭部にあたる部分には、かつてレクスを裏切り、報酬を持ち逃げした『傭兵団の残りのメンバー全員の顔』が、歪に融合し、苦悶の表情を浮かべたまま埋め込まれていた。
「レクス……! 助け……て……! バルトが……バルトがオレたちを……ッ!」
死んだはずの仲間たちの顔が一斉に顎をガチガチと鳴らし、レクスに向かって絶望の声を上げる。
彼らもまた、バルトの裏切りの連鎖の犠牲となり、迷宮の最終的な防衛システムとして、地上で強制的に『一つの化物』へと鋳造されていたのだ。
「……あいつらは、よく眠れているかね」
プロローグで自らに問いかけたその言葉が、今、最悪の皮肉となってレクスの目の前に現れた。
裏切ったかつての仲間たちが、自分を殺すための最後の壁として、地上の光を遮るようにして立ちはだかる。
「言ったはずだ。……誰も来ねえし、誰も救いやしねえ」
レクスは不敵に、そして己の過去のすべてを嘲笑うように口元を歪めた。
左胸のワールド・コアが、ドクン……と冷酷な拍動を刻む。体内の黒鉄の筋肉が軋み、植物の根が彼の骨を限界まで締め付ける。
彼は大剣を正眼に構え、燃える街の灰の雪が降り注ぐ中、かつての仲間たちの成れの果てへと向かって、無言で一歩を踏み出した。
しかし、レクスがその大剣を振り下ろそうとした刹那、背後の空が異様な紫色に変色した。
振り返ったニクスとヒューゴが、息を呑む。
街の反対側の地平線から、灰色ギルドのさらに上層に位置する、地上の『中央教会』が放ったとされる、迷宮ごとこの街を地図から消し去るための禁忌の広域消滅魔術――『神の断頭台』の白い光の巨杭が、雲を突き破って、彼らの頭上へとゆっくりと落下し始めていた。
迷宮の逆流を感知した地上世界が、侵入者も、生存者も、この街にいる全ての命をゴミのようにまとめて焼き尽くすための、冷徹な『世界の意思』。
誰も救いには来ない。それどころか、世界そのものが彼らを圧殺しにきたのだ。
レクスは、正面の傭兵たちの化け物と、頭上から迫る白い滅びの光を同時に見据え、その飢えた右眼を狂気的にギラつかせながら、終わりの嵐の中へと、自ら哄笑を上げて飛び込んでいった。




