第40章:追憶の錆、あるいは叛逆の産声
ドクン。……ドクン。
第七階層の底を満たす黒い不浄の液体が、レクスの視界を漆黒に染め上げていく。
左胸の空洞に強引に収まった『迷宮の真の心臓』は、彼の肉体を構成する植物の根を一本残らず支配し、膨大な暗黒のデータを脳髄へと直接流し込んでいた。意識が薄れ、人間としての記憶が迷宮のシステムに上書きされていく。
(消えるな……。オレは、オレだ……!)
レクスは、感覚の消えゆく脳の片隅で、必死に一本の『錆びた剣』の感触を掴み続けていた。
なぜ、自分はここまで泥水をすすって歩いてこられたのか。なぜ、自分が迷宮の「主」などという悍ましい化け物に祭り上げられなければならなかったのか。そのすべての元凶であり、彼の「飢え」の始まりとなった、十年前のあの【雨の日】の記憶が、濁流のような意識の底から鮮烈に浮かび上がってくる。
――それは、十年前の、第四階層『隠し水路』のさらに奥での出来事だった。
「おい、レクス! お前が正面でその大盾を維持しろ! 報酬は山分けだ、約束する!」
松明の炎に照らされた、若き日のバルトの顔。
当時の傭兵団は、今の荒みきった姿とは違い、地上の貧民街から這い上がってきた若者たちが「明日を生きるため」に結成した、泥臭くも確かな絆を持つ群れだった。まだ右腕のあったバルト、まだ生きていた仲間たち。彼らは、迷宮の四階層に眠る未知の金属を掘り当て、これでようやく、泥水をすする生活から抜け出せると誰もが信じていた。
「任せろ……ッ! 一歩も退かねえよ!」
若き日のレクスは、傷一つない支給品の軍用剣を握り締め、迫り来る魔物の大群の前に自ら肉壁となって立ちはだかった。
だが、彼が魔物の牙をすべてその身で受け止め、血の海に伏した瞬間、背後から響いたのは、金属が肉を裂く、生々しい裏切りの音だった。
――グサリ。
レクスが驚愕に目を見開いて振り返った先。バルトの右腕の大刀が、レクスの左胸を、まさにその『心臓』ごと真っ直ぐに貫いていた。
「バ……ルト……? なぜ……」
「すまねえな、レクス。……ギルドの奴らが言うにはさ、この鉱脈の利権を得るには、誰か一人の『生きた心臓』を、この大門の楔として捧げなきゃいけないんだとよ」
バルトの隻眼には、すでに仲間を想う光はなく、富と生存への異常な執念だけが宿っていた。
他の仲間たちも、レクスから目を背け、掘り出した金目の物を袋に詰め込んで退路へと走り出していた。誰も助けには来ない。信じていた絆も、共に泥水をすすってきた日々も、すべては目先の金貨のために叩き売られたのだ。
「お前はここで死ね、レクス。お前の死体は、オレたちが地上で豊かに生きるための礎にしてやる」
バルトは冷酷に大刀を引き抜き、レクスの心臓を毟り取ると、それを大門のギミックへと埋め込んだ。
レクスは左胸に巨大な空洞を開けたまま、死体の山の中へと崩れ落ち、ただ冷たい地下水の中に沈んでいった。
だが、そこで物語は終わらなかった。
裏切られた怒りではない。ただ、明日も生きていたい、あいつらに奪われた自分の命の価値を、このままドブに捨てられてたまるかという、狂気的なまでの『生存への反逆』。
そのレクスの強烈な執念に、迷宮の『根』が呼応した。心臓を失った彼の肉体に植物の繊維が入り込み、記憶と戦術を引き写した『最初の模倣体』として、彼は死体の山から這い上がったのだ。
――バルトたちは知らなかった。自分たちが裏切って作ったその『空洞』こそが、迷宮が地上を喰らうための最大のバグ(主)の器になったということを。
「……ハ、……ハハハハハ!」
第七階層の底、暗黒の津波の中で、レクスは再び、金属摩擦のような笑い声を漏らした。
すべての『なぜ(理由)』が繋がった。
オレは迷宮に作られた偽物なんかじゃない。あの裏切りの日、バルトたちの不条理に抗って、自ら生き延びると決めたあの瞬間に、オレの『飢え』は、誰のものでもないオレ自身のものになったんだ。
「迷宮の主だと……? 世界の破滅だと……? 笑わせるな」
レクスは、体内を侵食する膨大なシステムデータを、その剥き出しの精神の牙で強引に噛み砕いた。
左胸の『真の心臓』が放つ赤黒い光を、彼は受け入れるのではない。自分の左胸の空洞という「檻」の中に、その簒奪者の力を力任せに引き摺り込み、逆に自らの『奴隷』として支配下に置いたのだ。
ドクン!!!!!
かつてない、重厚で圧倒的な反逆の拍動が第七階層に響き渡る。
レクスの炭化した左半身から湧き出ていた白い根が、彼の強烈な意志によって黒く染まり、強靭な『鉄の筋肉』へと再構築されていく。
失われた右腕の断端からも、黒鉄のルーンを刻んだ、植物と金属の合成アームが爆発的に生えてきた。
彼は迷宮に呑まれたのではない。
迷宮のシステムそのものを、自らの飢えで『喰らい尽くし』、真の反逆者として君臨したのだ。
「ヒューゴ、ニクス。……死んでねえなら、その貧相な眼を開けろ」
レクスは新調された黒鉄の右腕で、床に転がっていたガザルの大剣を毟り取るように引き抜いた。
彼の両眼には、もはや迷宮の冷徹な知性はない。そこにあるのは、自分を裏切った過去、自分をオモチャにした迷宮、そしてこの不条理な世界そのものを、根底から噛み千切って生存を証明しようとする、飢えた狼の『真の反逆の光』だった。
上空の陥没した天井の向こう、第一階層の『大門』のさらに先にある、滅びゆく地上を見据え、半死半生の王は、大剣を静かに正眼に構えた。
誰も救いには来ない。なら、この狂った世界のすべてを、オレの牙で支配して終わらせるだけだ。




