↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
40/48

第39章:簒奪の聖骸、あるいはそれを取り巻く無音

 骨の山が崩れる乾いた音だけが、第七階層の底に響き渡っていた。

 上層がどれだけ崩壊しようとも、この『虚無の褥』には衝撃すら届かない。ただ、押し潰された歴史の残骸が、冷たい静寂の中でさらに細かく砕けていくだけだ。


 レクスは残された左腕をだらりと垂らし、巨木の幹に溶接されていく少女の姿を、ただ右眼だけで見つめていた。

 彼女のワンピースだった麻の布地は、今や半透明の植物性粘膜に覆われ、衣服としての機能を失っている。背骨の隙間に侵入した『白く太い根』は、彼女の未発達な肋骨を内側から押し広げ、迷宮の新しい神経回路として完全に固定を完了していた。


「……オ、……レ、が……」


 レクスの喉から漏れ出たのは、声ですらなかった。

 ガザルの眼帯をねじ込んだ左胸の空洞から、じわりと蒸発する黒いガス。彼の本物の心臓は、煤けた石のまま、巨木の中心にある『巨大な脳髄』の脈動と完全に同調している。


 一拍ごとに、レクスの潜意識に染み込んでいくのは、絶望ではなく「機能」の感覚だった。

 分かってしまう。自分がなぜ作られたのか。なぜ、十年間も傭兵として泥水をすする旅をさせられたのか。迷宮は、地上の戦術と、人間の持つ「生存への執念」という最も効率的な駆動データを、レクスという模倣体(レプリカ)を使って採集していたのだ。そして今、その最高密度のデータを、この無垢な少女という『新品の器』へと移し替える作業が、最終工程を迎えている。


 少女を守ろうとした彼の行動そのものが、データを成熟させ、彼女を完璧な「生贄」に仕立て上げるための、最後の手順だった。


『……個体名『レクス(廃棄ロット)』の、全戦闘記録の抽出を完了。……次世代統括コアへ、統合を開始する……』


 巨木の脳髄から放たれる、感情の排された不条理な意志。

 幹に埋め込まれた少女の頭部が、ガチガチと不自然な音を立てて上を向いた。彼女の濁りきった両眼から、最後の一滴の黒い体液が溢れ落ちる。その瞬間、彼女の背中から、レクスが第四階層で手に入れた大剣と全く同じ形状をした、しかし『純白の骨と鉄』で編み上げられた異形の大刀が、肉を割って直接生えてきた。


「……ハ、……ハハッ」


 レクスは、乾いた笑いを一つだけ零した。

 右腕のあった断端から、血管代わりの植物の根を狂ったように這い出させ、泥の中に突き刺さっていたガザルの大剣の柄へと巻き付ける。肉の繊維が擦り切れる音など、もう彼の耳には届かない。


 誰も来ない。救いなんてない。

 なら、せめて、この迷宮が誇る最悪の最高傑作(システム)を、その喉笛ごと噛み千切って終わらせるだけだ。


 レクスは植物の根で編んだ右腕で大剣を逆手に構え、地を這うような低い姿勢から、自分自身の過去(巨木)へと向かって突撃した。


 ――ガギィィィンッ!!!


 激突。

 少女の肉体を依代にした巨木の根が、背中から生えた白骨の大刀を正確に操り、レクスの一撃を正面から受け止めたのだ。生前、レクスが戦場で十年間繰り返してきた、最も無駄のない防衛の型(フォーム)。自分が鍛え上げてきた技術が、自分を殺すための壁として目の前に立ち塞がる。


「お前の動きは、全部オレが知ってんだよ……!」


 レクスは肉の腕である左手で大剣の峰を押し込み、力任せに白骨の大刀を滑らせた。金属摩擦の音が骨の山を震わせる。

 しかし、巨木の脳髄がドクンと跳ねた瞬間、少女の肉体から放たれた無色透明の衝撃波が、レクスの炭化した左半身を容赦なく直撃した。


 ベキベキと、体内で植物の根が圧壊する音が響く。

 レクスは後方へと弾き飛ばされ、骨の山に深く背中を叩きつけられた。左胸の檻の隙間から、石化した心臓が吐き出す熱い血が溢れ出る。


 だが、彼は立ち止まらない。

 右足の骨が砕けていようとも、植物の根がそれを強引に繋ぎ留め、操り人形のように彼の肉体を前へと進ませる。

 二度、三度と、レクスは大剣を振り下ろした。白骨の大刀とガザルの大剣が激突するたびに、第七階層の暗黒の中に、不浄な火花が散っていく。


 戦いは、陰惨な泥仕合だった。

 レクスが怪物の根を切り落とせば、少女の肉体から新たな根が湧き出し、レクスの炭化した肉が削げ落ちれば、彼の左胸から伸びる触手がそれを補う。互いが互いのデータを引き写し合う、終わりのない自己解体。


 しかし、限界は確実に近づいていた。

 レクスの大剣の刀身は、度重なる衝突によってすでに中央から無数のひび割れが走り、いつ砕け散ってもおかしくない状態だった。


「これで、終わりよ」


 不意に、上空の闇から冷たい声が降った。

 崩落した第六階層の瓦礫の隙間から、満身創痍のニクスが、自らの指の肉を全て失った白い両手で、最後の『鋼糸』を巨木の脳髄へと目掛けて投げ下ろしたのだ。彼女の背後には、意識を失いながらも、その身に焼き付いた魔力遮断の鉄殻を暴走させているヒューゴの姿があった。


 ニクスが命を賭して放った鋼糸が、巨木の脳髄を蜘蛛の巣のように締め付ける。

 一瞬、システムに強烈なノイズが走った。少女の持つ白骨の大刀の動きが、僅かに止まる。


「そこだッ!!」


 レクスは植物の右腕を爆発的に収縮させ、大剣を巨木の幹――少女の左胸の、まさに『心臓』のある場所へと目掛けて突き立てた。


 ――グサリ。


 肉を割る、生々しい音が静寂を破る。

 大剣の刃は、少女の胸を、そしてその奥にある迷宮の統括コアを正確に貫いていた。

バリバリバリッ! と、青白い不条理な魔力が刀身を伝って逆流し、レクスの大剣は、ついに耐えかねて木端微塵に粉砕された。


「……あ……、れ……く……す……」


 コアを破壊された少女の瞳に、一瞬だけ、あの温室の底で震えていた時の「無垢な光」が戻った。

 彼女は、自分の胸を貫くレクスの異形の腕を、その小さな、骨の融着した手でそっと包み込んだ。


 だが、救いはやはり、どこにも出会えやしない。


 破壊された統括コアから溢れ出たのは、光ではなく、第七階層全体を埋め尽くさんとするほどの、ドロドロとした『黒い不浄の液体の津波』だった。

 少女の肉体は、レクスの腕の中で、その液体へと溶けるようにして急速に崩壊を始め、ただの黒い泥の塊へと変わっていく。


 そして、その崩壊の渦の中心。

 少女の溶け去った胸の奥から、一つの、眩いばかりの赤黒い光を放つ『結晶』が転がり出た。

 それは、彼女の命の残滓ではない。

 レクス自身の本物の心臓と、この迷宮の最深部が完全に融合して生み出された、世界を完全に喰らい尽くすための、最終段階の『迷宮の真の心臓(ワールド・コア)』だった。


 結晶は、生き物のようにのたうち回ると、レクスの左胸の空洞――あの割れた黒鉄の檻の中へと、彼の意志を完全に無視して、強引に滑り込み、一体化した。


 ドクン!!!!!


 第七階層の、いや、迷宮全体の岩盤が、かつてないほどの巨大な地鳴りを立てて震動を始めた。

 レクスの全身の皮膚が破裂し、そこから白と黒の根が、数え切れないほどの触手となって空洞全体へと爆発的に広がり始める。

 彼は少女を救えなかった。それどころか、彼女を殺したことで、彼は迷宮の『真の主(システムそのもの)』へと、完全に祭り上げられてしまったのだ。


「……オレが、……主、だと……? 笑わせるな……っ!」


 レクスは、自らの肉体から伸びる無数の根に締め付けられ、身動きが取れなくなりながらも、その右眼だけで、迫り来る完全な暗黒の津波を睨みつけていた。

 知性が消えていく。自分が誰であるかの記憶が、迷宮の膨大なデータによって上書きされていく。


 救いはない。誰も来ない。自分自身が、この世界のすべての絶望の核となった。

 狼は、自らが完全に世界を滅ぼす化け物へと変質していく恐怖のなかで、ただ一つ残された「飢え」だけを胸の奥で研ぎ澄まし、暗黒の底へと、静かに、そして最も陰惨に沈み込んでいった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。