↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
39/48

第38章:虚無の褥、あるいは拒絶の終着駅

 落下には、終わりがなかった。

 第六階層の岩盤が崩壊し、赤黒い溶岩の光が遥か頭上へと遠ざかっていく。視界を埋め尽くすのは、完全な、光すら届かない真の暗黒。重力さえもが希釈されたかのような錯覚の中、レクスの耳に届くのは、風を切る音ではなく、自身の体内でうねる植物の根が、パチパチと炭化した肉を内側から焼き千切る不快な摩擦音だけだった。


 その暗黒のなか、レクスの左腕は、依然として少女の小さな身体を壊れ物を掴むようにして強く抱き締めていた。


「……あ……、う、ぁ……」


 胸元から漏れ出る、喉を詰まらせたような短い呼吸。

 それは恐怖によるものではなかった。レクスの右眼は、暗黒の中でも微かに発光する『白く太い根』が、少女のワンピースの背中を突き破り、彼女の細い背骨の隙間へと、まるで血管の一部に成り代わるようにして侵入を完了しているのを、克明に捉えていた。


 守ろうとした。この地獄の不条理から、誰も来ない世界の中で、せめてこの小さな命だけは己の牙で噛み千切ってでも連れ出そうとした。

 だが、彼が彼女を強く抱けば抱くほど、レクスの肉体を構成する「迷宮の呪い」が、彼女の生身の肉体を最も確実に、そして残酷に浸食していく。彼自身が、彼女にとっての「破滅の引き金」そのものだった。


 ――ドサリ。


 どれほどの時間が経ったのか。衝撃は、予想よりも遥かに小さかった。

 地面を満たしていたのは、硬い岩盤でも、沸騰した泥水でもない。それは、数え切れないほどの人間の、そして魔物の「干からびた骨の山」だった。第七階層。迷宮の最深部にして、すべての廃棄物が辿り着く『虚無の褥(しとね)』。


「ガハッ……!、う……っ!」


 レクスは骨の山に叩きつけられ、黒い体液を吐き出した。

 千切れ落ちた右腕の断端から、再び細い触手のような根が這い出し、周囲の骨を吸い上げて、歪な臨時の「腕」を再構築しようとのたうち回る。痛覚は死んでいる。だが、左胸の奥――煤けた石と化した『本物の心臓』が、ドクン……ドクン……と、地上の焦土に残してきた『繭(まゆ)』と共鳴し、彼の脳髄を内側から執拗に掻き回していた。


「……離して……、お願い……痛いの……っ!」


 腕の中から、少女が狂ったように身を悶えさせた。

 彼女の青白かった皮膚の下には、今やレクスと同じ、白緑色の不気味な光を放つ植物の細い脈が、網目のように浮き上がっていた。彼女の瞳は濁り、レクスを見つめるその視線には、先ほどまでの「救いを求める無垢な輝き」はなく、侵入者を排除せんとする、迷宮独自の冷徹な「殺意」が、徐々に混ざり合い始めていた。


「……オレが、お前を、殺すのか……」


 レクスの喉から、ひどく掠れた、金属摩擦のような声が漏れる。

 彼は残された左腕の力を緩め、少女を骨の山へと横たえた。少女は激しく咳き込みながら、レクスから距離を置くようにして後ろへと這いずる。その小さな手には、いつの間にか地面の骨が融着し、鋭利な『骨の爪』へと変貌しつつあった。


 救いなど、最初からこの世界のどこにも出会えやしない。

 

 上空を見上げても、ヒューゴやニクスの気配はなかった。あの第六階層の崩落に巻き込まれたのか、あるいは別の奈落へと落とされたのか。この世界の最底辺で、レクスは完全な孤立無援のなかに取り残されていた。


 その時、骨の山の奥、闇の境界線から、さらに巨大な『別の脈動』が響いてきた。


 ズズ、ズズズ……。

 現れたのは、かつて戦ったどの怪物よりも巨大な、人間の形を模した「植物の巨木」だった。その巨木の中心、太い幹の割れ目には、あの地上の焦土で孵化を始めていたはずの『繭』と同じ、剥き出しの巨大な脳髄が、不気味に明滅しながら鎮座していた。


 バルトが残した言葉――『お前が最初から【主】だったんだよ』。


 巨木の脳髄が脈動するたび、レクスの左胸の心臓が、そして彼が守ろうとした少女の体内の根が、完全に同じリズムで、狂ったように共鳴を起こした。

 少女は頭を抱えて絶叫し、その全身から白緑色の胞子の霧が噴き出す。彼女の自我は、今まさに迷宮の最深部のシステムによって、完全に噛み砕かれようとしていた。


「……ロット番号……00……『レクス』。……そして、次世代型コアの……回収を完了……」


 空間全体から響く、平坦で、しかし圧倒的な迷宮の意志。

 少女の肉体は、レクスをさらに完璧な「主」として完成させるための、ただの『生贄の苗床』に過ぎなかったのだ。少女の濁りきった眼球から、一筋の黒い涙がこぼれ落ちる。


「……あ……れく……す……」


 それが、彼女が人間として放った、最後の掠れた声だった。

 次の瞬間、少女の身体は巨木から伸びた太い根によって強引に巻き上げられ、あの脳髄の直下へと、新たな部品として溶接されるようにして引きずり上げられていった。


 レクスは、ただ一本の大剣を泥の中から引き抜き、残された右の植物の腕でそれを強く握り締めた。

痛覚はない。涙も出ない。自分が偽物であり、自分の存在そのものが、この少女を地獄へと叩き落とした元凶であるという最悪の真実。


「……誰も、来ねえ。……なら、オレがその心臓ごと、お前を終わらせてやる」


 レクスは不敵に、そしてこの旅路のなかで最も陰惨に口元を歪め、大剣を正眼に構えた。

 左胸の心臓を、ガザルの怨嗟を、そして自分が犯した最悪の罪をその牙の奥へと呑み込み、半死半生の狼は、自分自身の真の呪い(迷宮の心臓)へと向かって、終わりの一歩を踏み出した。第七階層の暗黒が、すべてを呑み込むように、深く、重く彼らを包み込んでいった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。