第37章:生贄の連鎖、あるいは不条理の終着駅
思考の余裕を、神代の火床は一瞬たりとも与えない。
上空から振り下ろされるガザルの巨大な鉄槌。その鉄の質量が空気を圧縮し、レクスの頭上に逃げ場のない破砕の風圧を叩きつける。それと同時に、レクスの左胸の裂け目、割れた黒鉄の檻の隙間から這い出た白く太い植物の根が、彼の腕の中に抱かれた少女の、細く汚れなき喉元へと触手を伸ばしていた。
迷宮の意志は、レクスの保護衝動さえも利用して、新たな、そしてより若い肉体をその生産ラインの苗床として簒奪しようとしている。
「いや……っ、いやぁぁっ!!」
少女の短い悲鳴。それは十年前、戦場の泥水の中でレクス自身が上げたはずの、誰も救いに来なかった絶望の叫びそのものだった。
(誰も来ない。救いなんてない。……なら、オレの手で毟り取るだけだ!)
レクスは、脳の命令に反逆して自殺を強制しようとする右腕の神経を、体内の植物の根を逆流させることで強引にマヒさせた。ガチガチと骨が鳴る。彼は少女を抱く炭化の左腕を内側へと引き込み、自身の引き裂かれた胸の空洞を、彼女の小さな頭部を丸ごと覆い隠すようにして肉の壁で塞いだ。
寄生しようとする己の根を、自らの肉肉しい内壁で押し潰し、食い止める。
直後、頭上からガザルの鉄槌が容赦なくレクスの右肩へと直撃した。
――ズガァァァンッ!!!
金属と骨が肉肉しく噛み潰し合う、悍ましい破壊音が空洞に響き渡る。
レクスの右肩の骨が完全に砕け、肉が裂けて黒い体液が鉄滓の海へと激しく飛び散った。衝撃の余波だけで、彼の足元の床がクレーター状に陥没する。
痛覚は死んでいる。だが、物理的な破壊は彼の巨体を強引に斜面へと叩きつけ、レクスは少女を抱きかかえたまま、赤黒い溶岩の波打つ鉄滓の底へと転がり落ちた。
「ガ、ハッ……、あ……っ!」
口から溢れ出たのは、人間の血ではなく、煤混じりのどす黒い液体だ。
右腕は完全に千切れかけ、皮一枚で繋がっている状態だった。大剣は手元から離れ、数メートル先の熱い鉄滓の中に突き刺さっている。
「レクス!!」
ヒューゴが泥水の中から、自身の革鎧に突き刺さっていた鉄殻の破片を強引に引き抜き、それを素手で握り締めて騎士の足元へと這い寄った。彼の指先から滴る鮮血が、鉄殻の過負荷ルーンと交わり、青白い小規模な爆発を起こす。
ドォン、とガザルの機械化された左脚のピストンが一時的にショートし、巨体が僅かに傾いた。
「ニクス……、そのガキを……連れて……!」
ヒューゴは吐血しながら、残された全ての力を振り絞って叫んだ。
影のように滑り込んだニクスが、骨の露出した指先でレクスの外套の影から少女を引き剥がそうとする。しかし、少女は狂ったように泣き叫びながら、レクスの焦げ付いた、植物の根の蠢く胸元を、小さな指の爪が剥がれるほどの力で強く握りしめて離さなかった。
「嫌、嫌ぁっ! この人から離さないで……っ!」
少女にとっては、異形化していくレクスこそが、この地獄の中で自分を温室の熱波から庇ってくれた唯一の「壁」だった。彼女のその無垢な執念が、ニクスの冷徹な計算を僅かに狂わせる。
「……チッ、本当に分の悪い足手まといね」
ニクスは短剣を引き抜き、少女を引っ張るのを諦め、代わりにレクスの千切れかけた右腕の皮膚を、その異形の刃で容赦なく切り落とした。
皮一枚で繋がっていた壊れた右腕が、ボタチと鉄滓の中に転がる。完全な隻腕。レクスは人間としてのパーツをまた一つ失い、その肉体はより歪な、植物と機械の合成物へと近づいていく。
「親父……、ロット番号、00……だ。お前の打った、ネジの強度を……試してやるよ」
レクスは少女を左腕だけで強く抱き締め直したまま、残された右の断端から、血管代わりにうねる太い『白く太い根』を触手のように何本も体外へと放出させた。
根は生き物のように泥の中を泳ぎ、数メートル先に突き刺さっていた大剣の柄へと巻き付く。肉の繊維で編み上げられた臨時の「腕」。レクスはその異形の植物の腕で大剣を引き抜くと、不敵に、狂気的に口元を歪めた。
バルトに裏切られ、自分が偽物だと知り、街を滅ぼす引き金になった。
だが、この胸の中で震えている小さな命。これだけは、迷宮のシステム(命令)が決めたデータではない。オレが自分の牙で、この地獄から噛み千切って守ると決めた『唯一の現実』だ。
「ヒューゴ、ニクス! 親父の『炉裏(心臓部)』の直上へ行くぞ! 戻り道を塞ぐ!」
「ハハッ……、やっぱり、最高の狂犬だ……っ!」
ヒューゴは残った右脚を爆破するようにして地を蹴り、ガザルの鉄槌の攻撃軌道を自身の身体を肉壁にして逸らした。金属の塊がヒューゴの脇腹を掠め、彼の骨が粉砕される音が響くが、魔術師の目は死んでいなかった。
レクスは少女を抱いたまま、植物の根で編まれた腕で大剣を狂ったように振り回し、生産ラインの基部――ガザルが溶接されている巨大な鉄の杭へと突撃した。
大剣の刃が、神代の配管を、歯車を、次々と断ち切っていく。融解した高熱のオイルが雨のように降り注ぎ、レクスの炭化した皮膚をさらに白く焼き焦がしていく。
――ギチチチチ、ガシャアンッ!!
レクスの一撃が、ガザルの下半身を固定していた最大の油圧パイプを破壊した。
高圧の蒸気が爆発的に噴き出し、ガザルの巨体が機械ごとバランスを崩して、さらに下層へと続く『真の暗黒の底』へと傾いていく。自動工場の生産ラインが完全に停止し、赤黒い溶岩の光が徐々に消え失せていく。
しかし、それは勝利を意味してはいなかった。
生産ラインが破壊されたことで、第六階層全体の岩盤が耐えかねて、凄まじい地鳴りと共に崩壊を始めたのだ。頭上から数体分の金属人形の残骸や、巨大な歯車が丸ごと彼らの逃げ道を塞ぐようにして落下してくる。
「レクス、早くそのガキを放り投げなさい! 崩落に巻き込まれるわ!」
ニクスの叫び。
だが、レクスの足元の鉄滓の海が大きく割れ、底なしの亀裂が口を開けた。
レクスは少女を抱きしめたまま、その暗黒の亀裂へと真っ直ぐに落下していった。落下していく視界の先、地上の焦土に残してきたはずの、あの『繭』から響くドクン……ドクン……という拍動が、さらに大きく、重厚になって彼の脳髄を狂わせていく。
自分が偽物であるという呪い。
そして、抱きしめた少女のワンピースの背中から、いつの間にかレクスの体内から伸びた**『白い植物の細い根』が、彼女の皮膚の内側へと、静かに、確実に侵入を完了している**のを、レクスの右眼は見逃さなかった。
守ろうとした。自分の牙で、この不条理から救い出そうとした。
だが、彼が彼女を強く抱きしめれば抱きしめるほど、彼の肉体を構成する「迷宮の呪い」が、彼女の命を最も残酷に侵食していく。
少女は、レクスの腕の中で、恐怖からではない、身体の内側から神経を侵される不気味な熱感に、小さく、喉を鳴らして痙攣し始めていた。
「あ……、あ……れく……す……?」
少女の濁り始めた瞳。
誰も来ない。誰も救いやしない。自分が彼女にとっての「唯一の地獄」であったという最悪の結末を突きつけられながら、狼は少女と共に、完全な暗黒の底(第七階層)へと、狂ったように笑いながら沈んでいった。




