第36章:不浄の揺り籠、あるいは最後の残火
皮膚が裂け、黒い迷宮の体液が滴る音が、火床の駆動音に虚しくかき消される。
レクスの右腕は、彼の脳の命令を完全に拒絶していた。左胸の奥、煤けた石と化した『本物の心臓』が鳴らすドクン、ドクンという致命的な共鳴が、彼の肉体を操る植物の根を強制的に逆駆動させている。大剣の冷たい刃が、彼の喉元の皮膚をあと数ミリというところまで切り裂いていた。
「が……、あ……っ!」
自らの牙で己の喉を噛み千切るような、理不尽な自己簒奪。
対面に立つガザル――機械の杭と一体化し、目に悍ましい魔術ルーンを宿したかつての恩人は、巨大な鉄槌を容赦なく振り上げ、レクスをシステムごと粉砕せんとしていた。
「レクス! 動きを止めなさい!」
ニクスが指の骨を剥き出しにしながら、自身の髪を編んだ最後の糸をレクスの右腕へと絡みつける。ヒューゴもまた、革鎧の隙間に突き刺さった鉄殻の破片を強引に引き抜き、その魔力遮断の負荷でレクスの左胸の共鳴を一時的に歪ませようと、泥の中に這いつくばっていた。
だが、その混沌の最中、自動生産ラインの影――巨大なピストンが激しく上下する屑鉄の隙間から、場違いな「小さな影」が転がり出た。
「いや……っ! 来ないで……っ!」
それは、煤と油にまみれた薄汚れた麻のワンピースを纏った、小さな少女だった。
年齢はレクスが生前、傭兵団で犬のように戦わされていた頃と同じ――十代半ばほど。迷宮の逆流によって上層の崩壊した集落から落ちてきたのか、あるいは自動工場の労働力として迷宮に拉致されてきたのか。彼女の剥き出しの足は、熱い鉄滓でひどく焼け爛れ、その細い腕は恐怖で狂ったように震えていた。
怪物の足元で、ただ捕食されるのを待つだけの、無垢で、無力な、圧倒的な生贄。
その少女の、涙と煤で汚れた絶望の瞳が、喉元に剣を突き立てて異形化していくレクスの姿を正確に捉えた。
少女は恐怖のあまり声を失い、ただ小さな手をレクスの方へと伸ばした。その手は、救いを求めているのではない。地獄の中で出会った、同じ「形をした何か」にしがみつこうとする、生物としての最後の本能だった。
ドクン。
レクスの左胸の奥で、これまでとは全く異なる拍動が跳ねた。
迷宮の命令による自殺の強制。自分が偽物であるという絶望。そのすべてを、少女の怯えた瞳を見た瞬間、レクスの潜意識が激しく拒絶した。
(オレが……迷宮の作ったゴミだろうが……)
十年前、戦場で死にかけた自分には、誰も手を差し伸べなかった。誰も来なかった。救いなど最初からどこにもなかった。
だが、この目の前で震えているガキを、あの時の自分と同じように、ただ泥水の中で肉片に変えさせるわけにはいかない。
「……あ……あああああああっ!!」
レクスは喉の金属摩擦の音を引き裂き、咆哮した。
彼は暴走する右腕の神経を強引に引き千切るような力技で、大剣の軌道を自身の喉元から外側へとねじ曲げた。骨が砕ける音が体内で響く。
自由を取り戻した炭化の左腕を伸ばし、レクスは床に転がった少女の小さな身体を、自身の黒い外套のなかに強引に引き込み、抱え上げた。
ジウウウッ、とレクスの胸の熱量が少女の肌をかすめるが、彼はその炭化した身体で、彼女を迷宮の熱波から遮断する『壁』となった。
「ヒューゴ! ニクス! このガキを連れて引くぞ!」
「はあ!? 君、その身体でさらに足手まといを増やすつもりかよ!」
ヒューゴが血の泡を吹きながら叫ぶが、レクスの右眼にある冷徹な飢えは、今やその少女を「守り切る」という狂気的な執念へとすり替わっていた。
少女はレクスの煤けた外套の胸元を、小さな指で壊れ物を掴むように強く握りしめ、彼の胸の黒鉄の檻の奥から響く、冷たい機械的な心音にただ怯えながら身を寄せていた。
レクスは少女を左腕で抱いたまま、右腕一本で刃こぼれした大剣を構え直し、生産ラインの奥へと向かって吠えた。
しかし、狼の覚悟を嘲笑うように、空間の底から、最も陰惨な残響が響き渡った。
ガザルの機械化された巨体が、レクスが少女を庇ったことで生まれた決定的な隙を見逃さず、頭上からあの血塗られた鉄槌を垂直に振り下ろしたのだ。
それと同時に、レクスの左胸の檻の隙間から、あの白い植物の根が、少女の首元へ向かって、まるで新たな宿主を見つけた寄生虫のように触手を伸ばし始めた。
自分が彼女を守ろうと抱きしめたその腕こそが、彼女を最も確実に絞め殺す迷宮の「罠」となる。
救いなど、最初からどこにも出会えやしない。
赤黒い火床の光の中で、レクスの絶叫と、少女の悲鳴が重なり合い、三匹の獣たちは、自らが招いた新たな呪いの渦の中へと完全に呑み込まれていった。




