↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
36/48

第35章:不帰の間道、あるいは観測者の網

 迷宮の第一階層へ逆行する足取りは、もはや生きた人間のそれとは根本的に異なっていた。

 炭化したレクスの左足が岩を叩くたび、カツン、カツンと、中が空洞の硬い木片のような乾いた音が響く。肉の焼ける凄惨な臭いは、彼の体内で血管代わりにうねる『白く太い根』から溢れ出る、清浄でいてどこか毒々しい、あの第六階層の胞子の香気によって強引に塗り潰されていた。


「レクス、歩度を落としなさい。その速度では、上層から逆流してくる二次津波の瓦礫に巻き込まれるわ」


 背後から影のように付き従うニクスが、かすれた声で警告する。

 彼女の指先は鋼糸の張力に耐えかねて今や肉が裂け、白い骨が露出していたが、彼女はそれを自身の衣服の切れ端で縛り、ただ冷徹に、変質していく「レクス(偽物)」の背中を観測し続けていた。


 調停人(オーディター)としての仕事は、すでに利権の査定を超えていた。彼女が今見つめているのは、迷宮の生態系そのものをバグらせた、不条理な怪物の誕生の瞬間だった。


「……親父、が……待って、いる」


 レクスの喉の奥から漏れ出たのは、人間の声帯が擦り切れたような、不快な金属摩擦の音だった。

 彼の右眼だけはギラギラと飢えた光を失っていなかったが、その視線は焦土となった『黒鉄の街』でも、自分自身の崩壊していく身体でもなく、ただ垂直に地底へと続く『大門』の暗黒だけを見据えていた。


「ハハッ……、言うことを聞きやしない。完全に狂犬病の末期症状だ」


 ヒューゴは粉々に砕けた魔術剣の鉄殻の破片を、自身の血まみれの革鎧の隙間に強引にねじ込み、その過負荷による魔力遮断の特性で、自身の傷口の痛覚を無理やり麻痺させていた。

 洗練されていたはずの魔術師は、今やレクスの狂気に感染し、ただ「この怪物の最期を特等席で笑う」という執念だけで動くゾンビのようになっていた。


 三人は、境界線の崩壊した縦穴を、今度は垂直に「滑り降りて」いった。

 第四階層の水路は干上がり、第五階層の沼は地熱で沸騰して干からびた泥のクレーターへと変貌している。階層が混ざり合い、一つの巨大な「巨大な産道」と化した迷宮を、彼らは重力に身を任せて降下していく。


 そして、再び辿り着いた第六階層――『神代の火床』。


 そこは、数時間前とは比較にならないほど、赤黒い溶岩の熱量と、狂ったような機械の駆動音で満ちていた。

 中央の自動生産ラインの奥、かつて破壊したはずのシリンダーのあった場所に、一本の巨大な『黒鉄の杭(パイル)』が打ち込まれ、そこから無数の血管のような太い根が、天井の巨大な歯車群へと伸びている。


 その根の中心、生産ラインの「核(コア)」として強引に溶接されていたのは、老ドワーフ、ガザルだった。


「……親父……」


 レクスの金属的な声が響く。

 ガザルの下半身は完全に神代のピストン機械と一体化し、彼の隻眼の眼帯があった場所からは、赤く発光する魔術的なルーンが埋め込まれ、不規則に明滅していた。

 彼はまだ生きていた。だが、その口からは、侵入者を迎撃するための、冷徹な機械の駆動音が漏れ聞こえていた。


「……ロット番号……00……『レクス』の……返還を確認。……製造ライン、最終工程へ移行……」


 ガザルの声。しかし、その知性はすでに迷宮のシステムによって完全に上書きされていた。ガザルの分厚い右腕が、溶接された巨大な鉄槌を、レクスたちに向けてゆっくりと持ち上げる。


 だが、絶望はそれだけではなかった。


 レクスがガザルへ一歩を踏み出そうとした瞬間、彼の左胸の奥――石のように炭化し、黒い根に縛られた『本物の心臓』が、突如として地鳴りのような共鳴を起こした。


 ドクン……!


 激しい衝撃がレクスの脳細胞を焼き、地上の焦土に残してきたはずの、あの『繭(まゆ)』の拍動が、ダイレクトに彼の潜意識へと流れ込んできた。

 地上で孵化を始めたあのバグ。バルトが血で残した言葉――『お前が最初から【主】だったんだよ』という声が、レクスの炭化した左半身の神経を内側から強引にハッキングしていく。


 レクスの右腕が、自分の意志を完全に裏切り、ゆっくりと自らの喉元に向けて大剣の刃を突き立てた。


「な……んだ、これ、は……っ!」


「レクス!?」


 ヒューゴが叫ぶ。

 レクスの肉体は、ガザルと戦うためではなく、地上の『繭』が完全な孵化を迎えるための「生贄」として、自ら自害するように迷宮のシステム(心臓)から命令されていたのだ。


 自分の心臓が、自分の肉体を殺そうと牙を剥く。

 レクスは動かない左足と、植物の根で縫合された全身の筋肉をギチギチと軋ませながら、自らの右腕の暴走を必死に抑え込もうとするが、大剣の刃は、確実に彼の喉元の皮膚を切り裂き、黒い汁を滴らせていく。


 救いはない。誰も来ない。自分を救うための心臓すら、自分を殺すための最悪の罠だった。

神代の火床の赤黒い光の中で、狼は自らの牙によって自らの喉を噛み千切るという、最も陰惨で不条理な絶望の渦へと、完全に引きずり込まれようとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。