第2巻 - エピローグ:第47章:不壊の逆賊、あるいは神罰の棺
すべての因縁が、この最底辺の泥濘の中で狂おしく円を描いていた。
第八階層、壊死した世界の王座。黒いヘドロが呼吸するように脈動する無音の空間で、レクスは再構築された黒鉄の右腕を軋ませ、対峙する男を睨みつけていた。
そこに立っていたのは、迷宮の怪物でも、寄生された死体でもない。十年前、自分を背後から突き刺し、心臓を毟り取ったあの日のままの姿をした、五体満足のバルトだった。その隻眼に宿る冷徹な人間の知性が、レクスが偽物として生きてきた十年間そのものを、根底から嘲笑っている。
「……バルト。お前は、オレがこの手で、泥水に変えたはずだ」
レクスの喉から漏れ出た声は、肉の振動ではなく、錆びた鋼鉄が擦れ合う悍ましい重低音だった。
左胸に溶接されたガザルの首級。その虚ろな眼窩から染み出す赤黒い体液が、レクスの胸壁を伝い、床のヘドロへとボタボタと落ちていく。親父の首も、自らの『真の心臓』も、バルトの姿を見た瞬間に、まるで内側から引き裂かれるような狂暴な共鳴を起こしていた。
「ああ、お前は俺を殺したさ、レクス。だが忘れたか? お前という『器』を作ったのはこの迷宮だ。そしてお前が最も深く、冷たい飢えを抱く対象が俺である限り、この深淵はお前を縛り付けるために、何度でも俺を創り出す」
バルトは冷たく笑い、黒い大刀を正眼に構えた。その無駄のない歩法は、かつて傭兵団の頂点に君臨していた男の、洗練された殺戮の技術そのものだった。
「お前が迷宮の主(王)になったのではない。お前自身が、この無限の地獄を駆動させるための『永久機関のネジ』になったんだよ、野良犬」
「……ハ、……ハハハハハ!」
レクスは、残された右眼を血走らせ、狂気的な哄笑を上げた。
分かっている。すべては最初から、逃げ場のない不条理の檻だった。自分がどれだけ抗おうとも、世界のシステムはそれを新たな絶望の火薬として吸収し、目の前に再生してみせる。
「ネジだと……? 永久機関だと……? だったら、そのシステムごと、オレの牙で噛み砕いてやるよ……ッ!」
地を爆破するようにして、二つの影が激突した。
――ガギィィィンッ!!!!!
空間全体を圧壊させるような、金属と骨の衝突音が第八階層を震撼させる。
レクスの黒鉄の右腕が振るう大剣と、バルトの黒い大刀が真っ向から噛み合い、周囲のヘドロの海を十メートル以上も跳ね上げた。バルトの剣技は生前と完全に同じ、いや、レクスが十年間で培った戦術データをも内包し、さらに冷徹に、レクスの炭化した左半身の隙間へと滑り込んでくる。
チチチチ、ガキィィン!
大刀の切っ先が、レクスの左胸に埋め込まれたガザルの首級の、まさにその『額のネジ』へと突き立てられた。火花が狂ったように四散し、レクスの体内から、黒い植物の根が悲鳴を上げて噴き出す。
「レクス!!」
泥水の中から叫んだのはヒューゴだった。
彼の肉体はすでに左腕も右脚も消失し、全身が黒焦げの植物の繊維で岩壁へと縫い留められていたが、その剥き出しの両眼には、レクスの敗北を拒絶する異常な執念が宿っていた。
「死ぬな……! 君がここで消えたら、僕のこの最低で、泥臭い生命の計算式が……完全にゼロになる……っ!」
ヒューゴは残された右の指先を自分の剥き出しの肋骨へと突き立て、自身の魂そのものを物理的な衝撃波へと変換して放った。魔術師としての生を捨てた、純粋な命の自爆。
ドォンッ!!
バルトの足元の肉壁が強引に爆破され、彼の完璧だった制動が、一瞬だけ、わずか一フレームだけ狂った。
ニクスもまた、両手の白い骨を剥き出しにしながら、自身の切り落とした髪の糸でバルトの右足首を強引に締め付け、その移動力を一瞬だけ阻害した。
「そこだ、狂犬……ッ! 噛み殺しなさい!」
二匹の死に損ないが作った、一瞬の、不条理な隙。
レクスは笑わなかった。ただ、右眼の暗黒の光を爆発させ、黒鉄の右腕を前へと突き出した。大剣を捨て、素手の拳を、バルトの胸甲――彼の心臓のある場所へと、力任せにブチ込んだ。
――ドゴォォンッ!
肉を、骨を、内側から粉砕する生々しい手応え。
レクスの黒鉄の腕は、バルトの胸を正確に貫き、その内部の『偽物の心臓』を、自らの手のひらの中で粉々に握りつぶした。
「ガハッ……!、見事だ、レクス。……だが、言ったろう……」
バルトの肉体は、口から黒いヘドロを吐き出しながら、急速に青白くふやけ、ただの泥の塊へと崩れていく。しかし、その崩壊の直前、彼の隻眼は、レクスの左胸を、哀れむように見つめていた。
「……お前が俺を憎む限り……俺はまた、お前の内側から生まれる……」
バルトの身体が完全に泥へと還り、第八階層に再び、冷たい無音の静寂が戻る。
しかし、本当の終焉――第二巻を終わらせる最悪の地鳴りは、彼らの頭上からではなく、彼らの『内側』から響き渡った。
バルトの心臓を握りつぶした瞬間、レクスの左胸のワールド・コアが、限界を超えた過負荷を起こしたのだ。
ドクン! ドクン! ドクン!
空間全体の黒いヘドロが一斉に逆流を始め、天井の縦穴を通じて、地上のすべての都市、すべての生命を内側から腐らせるための、最終段階の**『迷宮の完全崩壊』**のカウントダウンが始まってしまった。
レクスの肉体から、数え切れないほどの白と黒の根が、空へと、大地へと、世界の裏骨を突き破って爆発的に広がり始める。
彼は勝った。すべての敵を屠り、神の秩序さえも叩き割った。だが、その結果として彼が手に入れたのは、自らが『世界を完全に無へと帰すための巨大な棺』そのものに成り下がるという、最悪の戴冠だった。
「……ハ、……ハハハ。誰も、来ねえ。誰も、救いやしねえ」
レクスは、無数の黒い根に全身を締め付けられ、身動きが取れなくなりながらも、その唯一残された右眼だけで、崩壊していく世界の暗黒を睨みつけていた。
意識が消失していく。自分が誰であるかの記憶が、迷宮の膨大な終わりのデータによって、今度こそ完全に上書きされていく。
しかし、レクスの精神が完全に消滅する直前。
第八階層のさらに底、奈落の最深部の亀裂から、一つの、眩いばかりの『純白の光の巨塔』が、地底を突き破って逆に出現した。
その光の塔の表面に刻まれていたのは、中央教会のルーンでも、迷宮の呪いでもない。
それは、第39章でレクスが殺し、第44章で亡霊となったはずの、あの『無垢な少女の、血に濡れた本物の右腕』が、光の塔の中心から、レクスの黒鉄の肉体を引きずり下ろそうと、無数に伸びてくる不気味な光景だった。
『……ロット番号……00……。……お前が世界を滅ぼす棺になったのなら、私はその棺を……外側から永遠に焼き尽くすための、『神の心臓』として、お前を地獄へ連れて行くわ……』
少女の形をした、世界を再生するための、そしてレクスを永遠に破壊するための、もう一つの絶対的なシステムの覚醒。
救いなど、どこにも出会えやしない。戦いは終わらず、絶望は形を変えて彼を永遠の檻へと閉じ込める。
半死半生の王は、自らを焼き尽くそうとする純白の光の腕の群れを見つめ、その飢えた右眼をかつてないほど陰惨にギラつかせながら、大剣を握る力を失ったまま、真の不条理(第三巻)へと、笑いながら深く、深く沈み込んでいった。世界が完全に二つの光と闇に引き裂かれる轟音だけを残し、第二編は、最悪の終幕と共に完全に暗転した。
(『錆びた剣と、飢えた狼。』第二編・完)




