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第31章:逆流の産道、あるいは夜明けの生贄

 音が、消えた。

 鉄と泥の津波がレクスたちの視界を丸ごと呑み込んだ瞬間、世界は強烈な圧力の塊へと変わった。


 ゴボボボッ、と肺の奥まで侵入してくる重金属の泥水。だが、レクスの肉体はそれを「溺死」として拒絶することをすでにやめていた。左胸の露出した心臓が、濁流の毒を吸い上げては黒い繊維を吐き出し、彼の四肢の筋肉を強制的に肥大化させていく。


(誰も、来ない。なら、この泥をすべてオレの肉にしろ)


 レクスは泥水の中で眼を見開き、刃こぼれした大剣を上に向けて突き立てた。

 彼の身体は津波に流されているのではない。津波に群がる死体どもの肉を足場にして、自ら「上」へと、垂直の産道を這い上がるように突き進んでいた。一体の死体の頭を大剣で叩き割り、その反動でさらに上の死体の鉄殻を掴む。


 泥の壁を突き破り、レクスは水面に顔を出した。

 そこは、かつて第二章で戦った第三階層――『根の処刑人』が眠っていたはずの洞窟だった。しかし、天井の岩盤は完全に陥没し、第二階層、そして第一階層の境界線が強引に混ざり合って、巨大なひとつの「縦穴」と化していた。


「レクス……ッ! 掴まれ!」


 頭上から声が降る。

 見上げると、崩落した岩の隙間にヒューゴが魔術剣の鞘を楔として打ち込み、かろうじて濁流から這い上がっていた。彼の左腕は不自然な方向に曲がり、息を吸うたびに血の泡が口から漏れている。そのさらに奥では、ニクスが自らの髪を切り落とし、それを指の傷口に巻き付けて臨時の鋼糸代わりにしながら、上層への足場を確保していた。


「ヒューゴ、ニクス! 止まるな! 地上が近い!」


 レクスは叫びながら、さらに押し寄せる死体の津波を背中で受け止めた。

 彼の背中の肉はすでに千切れ、骨が剥き出しになっていたが、痛覚の死んだ肉体はそれをただの「軽量化」として処理していた。三人は互いの泥を、血を、そして終わらない飢えを共有しながら、ついに迷宮の最上層――第一階層の『大門』へと辿り着いた。


 だが、そこに待っていたのは、生者の世界の温もりではなかった。


「……嘘、だろ……」


 ヒューゴの喉から、絶望の掠れ声が漏れた。

 巨大な鉄製の大門は、内側からの圧力によって無残に外側へとへし折られていた。門の向こうに広がるはずの『黒鉄の街』の夜空は、赤黒い炎と、迷宮から逆流した不浄のガスによって、まるで血の海のようなどす黒い色に変色していた。


 街は、すでに死んでいた。


 あちこちの家屋から火の手が上がり、路地には防衛戦を張ったであろう冒険者たちの、上半身を喰いちぎられた死体が転がっている。そしてその中心、レクスたちが旅を始めた始まりの場所――老ドワーフ・ガザルの武器屋『黒鉄堂』のあった路地は、数え切れないほどの「鉄殻を纏った死体」の群れによって、完全に埋め尽くされていた。


 煤けた看板は叩き割られ、店の入り口には、一本の巨大な黒鉄の『鉄槌』が、血に濡れたまま寂しく転がっている。

 ガザルの姿はどこにもない。ただ、店の床から、鉄の怪物の太い根が、地上の建物の基礎を破壊しながら空へと伸びていた。


「終わったよ。……僕たちが必死にしがみついていた世界は、最初から残ってすらいなかったんだ」


 ヒューゴは膝から崩れ落ち、ひび割れた断頭刀を泥の中に落とした。

 ニクスもまた、血の滲む指先をだらりと垂らし、燃える街の煙を見つめたまま、完全に沈黙している。


 レクスは一歩、また一歩と、崩壊した『黒鉄堂』の跡地へと歩み寄った。

 足元に転がるガザルの鉄槌を、泥まみれの右手で静かに拾い上げる。


 左胸の奥、黒い根に縛られた彼の本物の心臓が、ドクン……と、かつてないほど冷たく、そして静かに拍動した。

 救いはない。誰も来ない。自分を待っているはずの親父も、もういない。


 レクスはガザルの鉄槌を背中に背負い、刃こぼれした大剣を正眼に構え直した。彼の顔には怒りも悲しみもなく、ただ、世界そのものを噛み殺そうとする狼の「飢え」だけが、赤黒い炎に照らされてギラギラと輝いていた。


 炎上する街の奥、さらに巨大な『迷宮の心臓』が、地上の肉を喰らうために、ゆっくりとその全貌を現そうとしていた。

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