第30章:泥の葬列、あるいは獣の独唱
上層へ向かう逆流の道は、すでに「階層」という概念を失っていた。
第四階層の重金属の水路が破綻し、第五階層の不浄な泥と混ざり合って、沸騰した黒い泥流となり通路を逆流していく。頭上からは第六階層の歪んだ歯車の破片が、容赦なく豪雨のように降り注いでいた。
「はぁ、はぁ、……クソが。重力が狂っているのか、階段が、歪んでいる……!」
ヒューゴは骨の突き出た右脚を引きずり、剥離した断頭刀の柄を岩壁に叩きつけながら声を絞り出した。彼の背後では、ニクスが傷だらけの指で壁の突起を掴み、ただ無言で上層を目指して這い上がっている。二人の冒険者の限界は、すでに数時間前に超えていた。
だが、その先頭を行くレクスの肉体は、さらに異常な領域へと足を踏み入れていた。
左胸の剥き出しの空洞。そこに埋まった、黒い根に絡みつく生身の心臓は、泥流から蒸発する迷宮の毒ガスを吸い上げるたびに、ドクン……ドクン……と、肉を引き裂くような不快な冷たい拍動を繰り返す。
ガザルの鉄殻を失ったレクスの肉体は、一歩進むごとに指先が青白くふやけ、人間ではなく、迷宮の「根」そのものの質感へと変質し始めていた。
「レクス、止まるな……! 前方に、五階層の群れ(死体)が、四階層の鉄殻を纏って降りてくる!」
ニクスの鋭い警告。
前方の狭い傾斜の向こうから、ドロドロに溶けた鉄の装甲を皮膚に融着させた、かつての傭兵団の残党たちの死体が、無数に這い出してきた。バルトという核を失い、迷宮の逆流に翻弄されるだけの、ただの肉片の津波。
レクスは立ち止まらなかった。
刃こぼれした大剣を低く構え、不敵に口元を歪めることすら忘れた無表情のまま、その死体の群れの中へと自らの身体を突き立てた。
――ギチチチ、ガキィィン!
肉を割る音ではなく、金属と骨がすり潰し合う嫌な音が空洞に響く。
レクスは右腕の肉が鉄殻の死体に削ぎ落とされ、黒い体液が噴き出すのを目にしながらも、その歩みを止めない。大剣を振るうたびに、彼の脳裏には十年前の光景が、そして「お前は迷宮の作った偽物だ」というバルトの嘲笑が、呪いのように木霊していた。
(ああ、そうさ。オレは偽物だ。この命も、この記憶も、誰かが作った安物のデータに過ぎねえ)
死体の群れを強引に叩き割り、泥水の中に引きずり込みながら、レクスの意識の底(潜意識)は、ひどく冷徹に澄み渡っていた。
この地獄の先に、救いなどない。街へ戻ったところで、自分を迎えるのは生者の温もりではなく、異形を排除しようとする人間の刃か、あるいはすべてが塵となった後の焦土だけだ。
この旅路の終わりに、自分を抱きしめ、この不条理から救い出してくれる「誰か」など、最初から存在しない。
世界は最初から壊れており、人生はただ、泥水をすするだけの退屈な葬列だ。
レクスは、激しく迫り来る死体の爪をその左肩で受け止めながら、喉の奥から小さく息を漏らした。
それは、呻き声ではなかった。
かつて、十年前に泥にまみれた戦場で、明日死ぬはずの傭兵たちが焚き火の周りで口ずさんでいた、ひどく不調法で、ひどく寂しい、終わりの歌。
「……泥をすすれ、狼よ。誰も来やしない……」
かすれたレクスの声が、水路の轟音を切り裂いて響き始める。
ヒューゴが驚愕に目を見開き、ニクスが動きを止めた。狂気の中に響く、レクスの独唱。
「……雨は冷たく、肉は腐りゆく。
神の救いも、聖女の祈りも、
この深い穴の底までは、届きやしない。
命はただの、錆びた一本の剣。
引き抜く腕が、千切れるその日まで。
泣くな、野良犬。
誰も、お前を、救いには来ない。
この嵐を往くのは、お前の一歩だけだ……」
歌いながら、レクスは左胸の心臓の痛みを、自分が偽物であるという絶望を、その剥き出しの牙で完全に噛み砕いた。
彼が最後のフレーズを歌い終えた瞬間、前方の暗闇から、さらに巨大な、鉄砲水と融合した死体の超巨大な「壁」が、彼らを丸ごと飲み込もうと迫ってきた。
救いはない。誰も来ない。
レクスはただ一つ残った「生きているという飢え」だけを大剣の刃に乗せ、その絶対的な絶望の渦の中へと、自ら笑いながら深く飛び込んでいった。




