第2巻 - プロローグ:第29章:拒絶の残滓、あるいは第二の産声
静寂。いや、耳鳴りだ。
激突の火花が視界を白く染めた後、レクスの感覚は一度、完全に死んだ。
第六階層の最奥、あの甘い「白い花の匂い」は、いまや焦げ付いた肉の臭いと、鉄錆の強烈な金属臭へとすり替わっている。
「……オ、オイ……息をして、いるのか……?」
泥の底から響くような、かすれた声。
レクスが重い瞼をこじ開けると、視界に飛び込んできたのは、煤と血で完全に変色した天井の鉄歯車だった。隣を見れば、ヒューゴが折れ落ちた断頭刀の柄にしがみついたまま、虫の息で横たわっている。彼の自慢だった革鎧は、金属人形の破砕杭の破片が何本も突き刺さり、ただの血まみれのボロ布と化していた。
レクスはゆっくりと上体を起こそうとした。だが、左胸に走った不条理な「虚無感」に、動きを止める。
ボルトは引きちぎられ、ガザルの鉄殻は完全に消失していた。
彼の左胸には、今や骨まで届くほどの巨大な穴が空いており、その暗黒の空洞の奥で、引き剥がしたはずの『生身の心臓』が、半分植物の黒い根に締め付けられた状態で、弱々しく明滅していた。
「……生き残った、か」
レクスは乾いた喉から笑いを漏らす。
目の前には、あの「完璧な自分」だったものの残骸が転がっていた。喉笛を正確に大剣で引き裂かれ、内部の緑の体液をすべて流しきった、ただの肉の抜け殻。
レクスは勝ったのだ。迷宮が用意した「本物」という名のシステムを、十年間泥水をすすって培った野良犬の執念だけで、強引に噛み殺した。
だが、その勝利の代償は、彼らの想像を絶する形で街へ、そして迷宮全体へと波及していた。
「……遅かったわね、二人とも」
温室の入り口、崩落した岩塊の上に、ニクスがぽつんと座っていた。
彼女の象徴だった金属製のリールは完全に破壊され、両手からは骨が見えるほどに鋼糸が食い込んだ傷跡が刻まれている。しかし、彼女の目を覆っていたのは、自身の怪我への痛みではない。
遥か上層――第一階層の方向から響いてくる、聞いたこともないような『巨大な地鳴り』への驚愕だった。
「どういうことだ、ニクス。何が起きている」
ヒューゴが血を吐きながら声を絞り出す。ニクスは感情の消えた瞳で、レクスを見つめた。
「模倣体が本物を殺し、その心臓を無理やり自分の檻に閉じ込めた。……その不条理なバグのせいで、迷宮の『秩序』が完全に狂ったのよ。……上を見てみなさいな」
レクスは血走った目で、天井の歯車の隙間を睨みつけた。
迷宮の底から湧き上がる黒いガスが、今や上層へと逆流している。四階層の水路も、五階層の沼も、すべての階層の境界線が崩壊し、一つの巨大な「胃袋」へと変貌し始めていた。
それだけではない。
ニクスが懐から取り出した、灰色ギルドの通信用魔導具からは、地上の街『黒鉄の街』の冒険者ギルドが発する、絶望的な悲鳴がノイズ混じりに漏れ聞こえていた。
『――緊急事態! 第五階層の死体どもが、第四階層の鉄を纏って第一階層へ侵入中! 門が保たない! 街に、街に奴らが溢れ出して――』
ブツリ、と通信が途絶える。
「迷宮の逆流よ。レクス、あなたが『自分が偽物だ』と認めてなお牙を剥いたせいで、この地獄が地上の人間にまで牙を剥き始めたわ」
ニクスは短剣を引き抜き、冷たく言い放った。
街が死ぬ。彼らのたった一つの安息の地であり、あの老ドワーフのガザルが新しい武器を鍛えて待っているはずの武器屋が、今まさに怪物の大群に飲み込まれようとしていた。
レクスは泥水の中から、刃の半分が刃こぼれした大剣を毟り取るように引き抜いた。
左胸の心臓が、まるで迷宮の崩壊と連動するように、ドクン……と冷たい拍動を刻む。自分が人間ではないと知った。自分が街を滅ぼす引き金になったと知った。
だが、狼の瞳から、冷徹な飢えは消えていなかった。
「……上等だ。オレをゴミだと笑った世界だ。……今度はオレが、そのすべてを噛み殺してやる」
心臓を檻に閉じ込めた偽物の狼が、世界を崩壊させる第二の産声を上げた。
地上へと続く逆流の道へ、三匹の獣の、真の生存闘争(第2巻)が今、幕を開ける。




