第28章:虚構の檻、あるいは最初の終幕
パキン、と乾いた高音が温室の静寂を切り裂いた。
ガザルが赤熱のボルトで叩き込んだ『黒鉄の檻』が、中央から左右に割れ、歪な破片となって鉄滓の床へと転がり落ちる。
「が、あ……っ、ガハッ!」
レクスは両膝を突き、激しく床を掻きむしった。
左胸の奥、十年間沈黙していたはずの『本物の心臓』が、ガラスの向こう側で眠る「完璧な自分」の鼓動と完全に同調し、狂ったような出力を上げている。血管に流れる黒い泥のような迷宮のガスが、心臓が送り出す新鮮な「生者の血」と衝突し、彼の皮膚を内側から焼き焦がしていった。
「レクス! 後ろに下がりなさい! その蕾に触れてはダメ!」
ニクスが叫び、血に染まった指先から最後の鋼糸を伸ばす。しかし、空間を満たす白い花の濃厚な死臭が、彼女の糸を植物の繊維のように脆く腐食させていった。
「嘘だろ……。あの顔、あの傷のない身体。……じゃあ、今まで僕と一緒に泥水をすすってきた『君』は、一体何なんだよ!」
ヒューゴは割れかけた断頭刀を握り締め、恐怖と混乱に声を荒らげた。
彼が知るレクスは、全身が戦傷の痕だらけで、死体のように冷たい男だった。だが、目の前の巨大なシリンダーの中で眠るレクスは、十年前の、まだ一度も戦場に汚されていない、あまりにも美しい「本物」の姿をしていた。
ピキ、ピキピキ。
二人の混乱を置き去りにし、透明な蕾の外膜に無数の亀裂が走り始める。
内部を満たしていた緑の体液が溢れ出し、白い花畑を汚していく。その不浄の胎内から、ゆっくりと「もう一人のレクス」が上体を起こした。
濁りのない、漆黒の双眸。
それは、生きるための飢えも、裏切られた怒りも知らない、ただ迷宮の意志だけを宿した冷徹な人形の目だった。
「……起動……個体名『レクス』。……外部模倣体の、回収を開始する……」
蕾の中の「本物」が、システムをなぞるような平坦な声で呟いた。
彼が右腕をそっと前に突き出した瞬間、レクスの左胸の心臓が、まるで肉体を突き破らんばかりに外側へと引っ張られた。
「ぐ、ああああああっ!!」
レクスは自分の胸を強く押さえ、絶叫した。
分かった。すべてが、この冷たい真実が脳裏に直接流れ込んできた。
十年前の戦場。本物のレクスは、確かにあの時、バルトたちに裏切られて死んでいたのだ。迷宮はその死体から「記憶」と「戦術」を毟り取り、心臓のない『模倣体』を作り出した。自分が人間として生きてきたと思っていた十年間は、ただ迷宮が外部を観測するための、哀れな野良犬の旅路に過ぎなかった。
「……オレが、偽物だと……?」
レクスは血走った目で、自分の泥まみれの、タコだらけの手を見つめた。
バルトに裏切られ、ヒューゴと睨み合い、ガザルの店で大剣を握り直した。あの泥水の味も、肉が裂ける痛みも、すべて迷宮がシミュレートした虚構のデータだったというのか。
「……個体名『レクス』。肉体を、迷宮の糧として返還せよ」
完璧な姿をした「本物」が、静かに歩み寄ってくる。彼の背後からは、先ほどの神代の自動工場から送り出された、無数の金属人形の駆動音が地鳴りのように近づいていた。
ヒューゴは杖を失い、ニクスは糸を失い、大軍勢に包囲された温室の中で、二人は絶望に目を見開く。
だが、血の海に伏していたレクスは、不意に、低く笑い声を漏らした。
その笑いは徐々に大きくなり、やがて洞窟全体を震わせる、狂気的な狼の遠吠えへと変わっていく。
「ハ……ハハハハハ! 偽物、だからどうした……っ!」
レクスは割れた鉄殻の痛みを、心臓が引きちぎられる絶望を、その飢えた牙の奥へと完全に噛み砕いた。
地面に突き刺さっていた大剣の柄を、泥と血にまみれた右手で力任せに掴み取る。
「オレが迷宮の作ったゴミだろうが……十年間、この肉に刻んできた『飢え』だけは、本物だ!!」
レクスは大剣を引き抜き、正面の「完璧な自分」へとその切っ先を向けた。
檻を壊した心臓が暴走し、彼の身体が内側から崩壊を始める。生者でもなく、死者でもない。ただ生存を渇望する一匹の怪物が、自分という名の絶望に向かって、大剣を真上へと振り上げた。
――ガツンッ!
交錯する鉄と肉の火花。
世界が完全な暗転を迎える直前、レクスの大剣が「本物」の喉笛を捉えるか、あるいは迷宮の闇がすべてを呑み込むか。
二匹の狼が激突した轟音だけを残し、第一巻の幕は、最悪の不条理と共に切って落とされた。
(『錆びた剣と、飢えた狼。』第一編・完)




