第27章:温室の偽薬、あるいは終わりの胎動
狭い岩の亀裂を這い抜けた先、三人が足を踏み入れたのは、第六階層の常識を冒涜する「異界」だった。
頭上を埋め尽くす巨大な鉄の歯車や油圧パイプには、まるで血管のように、白く太い植物の根がびっしりと絡みついている。天井の隙間からは、溶岩の熱に代わって、ぼんやりとした燐光を放つ青緑色の胞子が雪のように降り注いでいた。
そして、辺り一面を満たす、あの甘く冷たい白い花の匂い。
「……何よ、これ。ギルドの記録には、こんなエリア存在しないわ」
ニクスが指先の包帯を固く結び直しながら、嫌悪感を露わにする。彼女が放った一本の鋼糸が、近くの太い茎に触れた瞬間、茎は生き物のようにピクリと跳ね、傷口から粘度の高い無色の液体を滴らせた。
「機械の腹の中に、温室が広がっているってわけか。最悪の悪趣味だな」
ヒューゴは劣化で剥離し始めた断頭刀を低く構え、荒い息を吐き出す。
彼の限界に近い肉体は、この不自然に清浄な空気を吸うたびに、肺の奥が焼けるような錯覚を起こしていた。
だが、誰よりも深い地獄にいたのはレクスだった。
ドクン! ドクン! ドクン!
左胸の『黒鉄の檻』が、内側から激しく激突する心臓の圧力で悲鳴を上げていた。ガザルが打ち込んだ四本のボルトの根元から、新鮮な赤い血が溢れ、泥まみれの外套を濡らしていく。魔力を遮断しているはずの怪物の鉄殻すら透過して、この「白い花」はレクスの本体へと直接語りかけていた。
「が、はっ……、う……っ!」
「おい、野良犬! しっかりしろ!」
ヒューゴが咄嗟にレクスの肩を支えるが、その手のひらに伝わってきたのは、生身の人間を遥かに超越した、血管が沸騰するような「高熱」だった。レクスの瞳は血走り、左胸を掻きむしるようにして指先を鉄殻へと突き立てる。
「……この花が、オレを、呼んでやがる……」
レクスはかすれた声で呟き、ふらつく足取りで温室の奥へと歩を進めた。
引き留めようとするニクスの静止も、彼の耳には届かない。胞子の雪が降り積もる白い花畑を掻き分け、三人が辿り着いたのは、その空間の「中心」だった。
そこには、巨大な神代のピストン機械が鎮座していた。
しかし、その鉄のシリンダーは完全に破壊され、内部のピストンの代わりに、一つの『巨大な植物の蕾』が埋め込まれていた。蕾の表面には、人間の血管のような細い管が無数に走り、地底の地熱を吸い上げてドクドクと脈動している。
そして、その蕾の透明な外膜の向こう側。
緑の体液に満たされた胎内の中で、静かに膝を抱えて眠っている「人影」がいた。
白く、手入れの行き届いた、かつてレクスたちが戦場で着ていたのと同じ傭兵団の支給軍服。
半分露出したその顔には、見紛うはずのない、レクス自身の『十年前の若い素顔』が、傷一つない完璧な状態で保存されていた。
「な……んだ、あれは……。じゃあ、今ここにいる『僕たち』は、一体誰なんだ……?」
ヒューゴの杖が、恐怖でカランと床に転がった。
ニクスも短剣を握ったまま、一歩も動けずにその異形を見つめている。
その時、蕾の中の「レクス」が、ゆっくりと目を開けた。
濁りのない、美しい漆黒の双眸が、ガラス越しに泥まみれのレクスを正確に捉える。
蕾の表面にびっしりと咲き誇る白い花が一斉に弾け、空洞全体に、これまでで最も濃厚な、死臭を孕んだ甘い匂いが爆発的に広がった。
レクスの左胸の鉄殻が、パキンと高い音を立てて真っ二つに割れた。
檻から解き放たれた心臓が、蕾の中の自分と完全に『同調』し、生者としての本当の悲鳴を上げ始める。狼が辿り着いたのは、失った過去ではなく、自分が「最初から人間ではなかった」という、迷宮の底の冷たい真実だった。




