第20章:拒絶の拍動、あるいは泥の選択
ドクン、ドクン、ドクン。
左胸の奥で暴れる肉塊は、もはや命の灯火ではなく、肉体を内側から爆破する信管だった。
「が……あ、あ、っ……!」
レクスは泥水に両手をつき、何度も胃液混じりの血を吐き出す。
十年間、心臓の空洞に溜まり続けていた迷宮の黒いガスと、生身の心臓が放つ純粋な生存本能。その二つが血管の中で激突し、皮膚の隙間から赤黒い蒸気が噴き出していた。視界は完全に濁り、迫り来る無数の死体たちの輪郭が、歪んだ影となって迫る。
「おい、起きろ野良犬! ここでくたばれば、僕の血は完全に無駄骨になる!」
ヒューゴが叫びながら、ボロ布のようになった魔術剣の鞘を死体の顔面に叩きつける。
骨が砕ける嫌な音が響くが、群れの数は減らない。それどころか、バルトという統率者を失った亡霊たちは、ただ目の前の「生きた心臓」が放つ熱量に引き寄せられるように、その包囲網を狭めていく。
「ダメよ、二人とも退きなさい! 完全に沼の捕食スイッチが入ったわ!」
岩壁を背にしたニクスが、血のついた短剣を構え直しながら叫ぶ。彼女の手首のリールは、先ほどの衝撃で完全に焼き付き、煙を上げていた。灰色ギルドの調停人であっても、この飽和攻撃を前にしては、ただの「少し足の速い獲物」に過ぎない。
(動け……クソが……!)
レクスは泥を鷲掴みにし、奥歯を噛み締める。あまりの力に奥歯が一本砕け、血の味が口内に広がった。
死体の一体が、錆びた斧をレクスの背中へと振り下ろす。
――ギチッ。
肉を割る音ではなく、鈍い衝撃音。
レクスの代わりにその一撃を受け止めたのは、大剣の肉厚な刀身だった。レクスが手放したはずの武器を、ヒューゴが両手で、狂ったように震わせながら支えていた。
「魔術師に……こんな鉄クズを持たせるな……重すぎる……!」
ヒューゴの腕の筋肉が、過負荷でピキピキと悲鳴を上げる。
その必死の形相を見た瞬間、レクスの脳細胞の奥で、生き延びるための冷徹な計算が狂いなく噛み合った。人間として再生することへの未練を、狼の牙は一瞬で噛み砕く。
「……ヒューゴ。お前のその魔術剣の『殻』……まだ生きているか」
「はぁ? 何を、言って――」
「ガザルが仕込んだ怪物の鉄殻だ。魔力を吸うルーンの逆――『魔力を遮断する性質』が残っているはずだ」
レクスは這いつくばったまま、右手でヒューゴの腰にある魔術剣の鞘を強引に引きちぎった。
そして、まだ体内で暴れ狂う左胸の皮膚の上から、その黒い怪物の鉄殻を、自らの骨を砕くほどの力で「直接叩き込んだ」。
ゴキィィンッ!
凄まじい衝撃。レクスの口から短い絶叫が漏れる。
しかし、鉄殻が左胸を圧迫した瞬間、外部からの魔力供給が完全に遮断され、暴走していた心臓の拍動が、急激にその出力を落とした。生者としての温かさは消え、再びあの馴染み深い、冷たい暗黒の空洞がレクスの体内に戻ってくる。
生身の心臓を、迷宮の殻で「封印」したのだ。
人間でもない、ただの死体でもない。自分の心臓を内なる生贄として檻に閉じ込めた、不条理な半死半生の怪物。それが、今この地獄で再誕したレクスの正体だった。
「……ハッ、生き返ったぜ」
レクスはゆっくりと立ち上がった。その目は、先ほどまでの苦悶を完全に消し去り、底なしの冷徹な飢えだけを湛えてギラギラと輝いている。
手元の大剣をヒューゴの手から奪い返すと、その重量が、驚くほど軽く感じられた。
「ニクス、ヒューゴ。俺の背中から離れるな」
レクスは大剣を低く構え、不敵に口元を歪める。
心臓を檻に閉じ込めた狼が、五階層の亡霊どもを逆に喰らい尽くすための、本当の反撃が始まろうとしていた。




