第19章:泥濘の簒奪、あるいは生者の定義
狂気と執念が混ざり合う泥水の中で、鉄と肉が激突する音が空洞に反響した。
レクスが放った逆手の一撃は、バルトの大刀ではなく、その背後で心臓へ指を突き立てていた『かつての仲間』の腕ごと、バルトの右半身をまとめて薙ぎ払った。ガザルが削り出した重心の狂いがない大剣は、重金属の泥を切り裂き、骨を砕く確かな手応えをレクスの両腕に返す。
「ガ、アァァッ……!」
バルトの肉体から、人間としての苦悶の声と、迷宮の根が擦れ合う異質な金切り音が同時に発せられた。
背中の心臓を死体に抉られ、さらにレクスの一撃を受けたことで、バルトを縛っていた寄生の神経網が激しく狂い始める。心臓から伸びる無数の細い根が、まるで千切れた糸のように宙で狂ったようにのたうった。
「ヒューゴ! 泥じゃない、今度は奴の『足元の岩盤』を砕け!」
レクスは着地と同時に叫ぶ。脇腹のへし折れた肋骨が内臓を刺すような激痛をもたらすが、左胸の空洞がもたらす冷たい麻痺が、その痛覚を強引に上書きしていた。
「くっ……これでも喰らえ、簒奪者め!」
ヒューゴは吐血しながらも、自身の指から滴る血を杖の先端の魔晶石へと擦り付けた。魔力を直接練るのではない。血に宿る生命力をそのまま物理的な衝撃へ変換する、傭兵直伝の『血術・衝撃波(ブラッド・圧)』。
ドォンッ!
バルトの足元の岩盤が脆く弾け飛び、彼の巨体がバランスを崩して泥水へと沈み込む。
その一瞬の隙へ、レクスは自らの身体を弾丸のように滑り込ませた。大剣を捨て、懐から抜いたのは、あの三階層で拾い、ガザルの店で僅かに研ぎ直した『ただの錆びかけの短刀』だ。
「団長。お前が置いていったのは、壊れた剣だけじゃねえ。……この終わらない飢えだ」
レクスはバルトの背後へと回り込み、のたうつ根の隙間を縫って、その指先を**『自分自身の本物の心臓』**へと深く突き立てた。
肉を掴む感触。十年間、決して感じることのなかった「己の拍動」が、指先を通じてレクスの脳へと直接流れ込んでくる。
ドクン。
強烈な眩暈。世界が反転するような感覚の中、レクスはバルトの背肉から、その心臓を力任せに引き剥がし、自身の左胸の空洞へと強引に押し込んだ。
「ア……ガ……レク、ス……」
心臓を失ったバルトの肉体は、駆動源を完全に断たれたただの抜け殻のように、急速に青白くふやけ、ただの泥の塊へと崩れ落ちていった。寄生していた植物の根も、主を失って枯れ木のように収縮していく。
しかし、本当の異変はそこからだった。
左胸に心臓を戻したレクスは、その場に崩れ落ち、激しく身悶えした。
ドクン! ドクン! ドクン!
猛烈な勢いで脈動を始める心臓。しかし、それは「生者への帰還」を意味してはいなかった。十年間、魔力と迷宮のガスを吸い続けたレクスの肉体は、すでに生身の心臓を『異物』として拒絶し始めていたのだ。血管が破裂しそうなほどの熱量と、凍りつくような冷気が、彼の体内で激しく衝突する。
「が、はっ……あ、あああああっ!!」
レクスの口から、黒い泥混じりの鮮血が噴き出す。
周囲の沼のあちこちから、バルトの死によって制御を失った無数の死体たちが、さらに狂暴な意思を持って一斉にレクスへと向き直った。
「レクス!!」
ニクスが岩陰から叫びながら鋼糸を伸ばすが、群れの数に対して圧倒的に足りない。
心臓を取り戻したはずの狼は、その心臓の拒絶反応によって完全に動きを止められ、迫り来る亡霊の群れの中心で、血の海に沈もうとしていた。




