第17章:死臭の案内人、あるいは断頭の音
乾いた岩肌に、ぽたぽたと黒い泥水が滴り落ちる。
レクスは荒い息を吐きながら、暗闇の奥――足音の聞こえる方向へと視線を固定していた。新調された大剣の柄を握る右手は、泥と血で滑り、感覚が半分麻痺している。
「……またあの、灰色ギルドの小娘か?」
ヒューゴが折れかけた杖を構え、警戒を露わにする。しかし、近づいてくる足音は、ニクスのあの音を消すための軽やかな足取りとは明らかに異なっていた。
カツン、カツンと、硬い革靴が岩を叩く。それは、迷宮の危険を一切恐れていない、冷徹で規則正しい、軍人の歩法だった。
松明の弱々しい炎が、その人影の輪郭を照らし出す。
「驚いたな。あの四階層の変異種を突破し、この五階層の群れさえも力技で切り抜ける野良犬がいるとは。……いや、元・傭兵団の『猟犬』と言うべきか、レクス」
暗闇から現れたのは、仕立ての良い鉄灰色の軍服に身を包んだ、隻腕の男だった。
左袖は虚しく風に揺れているが、残された右腕には、禍々しい黒色の魔力光を放つ片刃の大刀が握られている。その男の顔を見た瞬間、レクスの脳裏に、あのプロローグの記憶――戦場に自分を置き去りにし、報酬のすべてを持ち逃げした傭兵団の『団長』、バルトの冷酷な横顔が鮮烈に蘇った。
「バルト……! なぜお前がここにいる」
レクスの喉から、低く、獣のような唸り声が漏れる。
「なぜ、だと? 簡単な話だ。俺たちはお前を裏切ったのではない。この迷宮の最深部に眠る『神代の遺物』を起動するための、生贄として選別したに過ぎん」
バルトは冷たく笑い、残された大刀を静かに水平に構えた。その構えから放たれる圧倒的なプレッシャーに、隣にいたヒューゴの身体が本能的な恐怖で強張る。
「お前たちが四階層の『主』を間引いてくれたおかげで、五階層の沼の底にある『門』が完全に開いた。感謝するよ、レクス。おかげで俺たちは、死を克服する力を手に入れた」
「死を克服だと……? あの泥の死体どものことか。笑わせるな、ただの腐った木屑の操り人形じゃねえか」
「人形かどうか、その身で確かめるがいい」
バルトの右腕が、目にも止まらぬ速さで一閃された。
魔術的な詠唱はない。ただの純粋な剣速と、大刀から放たれた黒い衝撃波が、レクスたちの立つ岩場を真っ二つに切り裂く。
――ズガァァンッ!
レクスは大剣を盾にして直撃を免れたが、爆風によって数メートル後方へと吹き飛ばされ、地面の泥水へと激しく転がった。脇腹の折れた肋骨が、今度こそ限界を迎えて体内でへし折れる音がした。視界が真っ赤に染まる。
「ガハッ……!、つ……」
立ち上がろうとするが、足に力が入らない。手元の大剣が、信じられないほど重く感じられた。
バルトは一歩ずつ、確実にレクスへと歩み寄ってくる。大刀の切っ先が地面を擦り、不快な金属音を響かせる。
「終わりだ、野良犬。お前の牙では、もう俺の皮膚一枚すら傷つけることはできん」
バルトが大刀を上段に振り上げる。レクスの首を撥ねるための、冷徹な処刑の構え。
ヒューゴは離れた場所で倒れ込み、魔力切れの身体を動かすことすらできずに、その光景をただ目を見開いて見つめるしかなかった。
(ここまでか……)
レクスが死を覚悟し、薄れゆく意識の中で折れた大剣をせめて構えようとした、その瞬間だった。
――カラン。
バルトの背後の暗闇から、場違いなほど軽やかな、金属製の小さな鈴の音が響いた。
「――そこまでよ、片腕の操り人形」
直後、バルトの振り上げた大刀の刀身に、闇の中から伸びた一本の『極細の鋼糸』が巻き付き、その動きを完全に停止させた。
さらに、バルトの首元には、肉眼では捉えられないほどの速度で接近したニクスの異形の短剣が、その皮膚を僅かに切り裂いて、黒い血を滴らせていた。
「ニクス……!」
レクスが声を絞り出す。しかし、ニクスの顔に、いつもの余裕ある笑みはなかった。彼女の瞳は、かつてないほどの警戒と、微かな恐怖に揺れていた。
「レクス、ヒューゴ、今すぐその場から離れなさい! この男はバルトじゃない……! この男の背中を見なさい!」
ニクスの叫びに、レクスは血走った目でバルトの背後を凝視した。
切り裂かれた軍服の隙間、バルトの背中の中心部に埋め込まれていたのは、怪物の結晶などではなかった。
そこにあったのは、無数の細い根に締め付けられ、未だにドクドクと不気味に脈動を続ける、人間の『生きた心臓』――それも、レクスが十年前、戦場で確かに失ったはずの、彼自身の『本物の左胸の心臓』だった。
「な……んだ、これは……?」
レクスが自分の左胸に手を当てた瞬間、バルトの肉体が、不気味に静止したままクスクスと笑い始めた。五階層の本当の闇が、彼らの理性を根底から踏みつぶすように、狂気的な咆哮を上げ始める。




