第16章:泥の檻、あるいは群れの呼吸
不気味な気泡が弾ける音が、周囲の闇を埋め尽くしていく。
一体や二体ではない。松明の赤黒い光が届く限界線の向こう、うねる黒い泥水の中から、次々と青白くふやけた腕が突き出された。かつて戦場で死線を共にした見覚えのある顔、見知らぬ冒険者の成れの果て。それらすべてが、寄生された植物の根によって神経を強制駆動され、軍用剣や錆びた斧を正しく構えている。
「囲まれたな。……効率的に退路を導き出す計算は残っているか、ヒューゴ」
「黙れ……。完全に包囲されているよ。正面からすべてを切り伏せるのは、君の頑丈な筋肉でも不可能だ」
ヒューゴは泥塗れの杖を強く握り直すが、魔力を使えないという制限が、彼のスマートな立ち回りを完全に奪っていた。
死体たちの群れが、一斉に泥を蹴る。生前、密集陣形を得意とした傭兵団の戦術そのままだ。三方から同時に迫る鉄の刃。
ギィィンッ! バツンッ!
レクスは大剣を半円に振り抜き、正面の二体を強引に弾き飛ばしたが、骨に響く重い感触とともに、折れた肋骨から鋭い激痛が走る。
「くそっ……!」
直後、死体の群れがレクスの大剣の「重さ」を見切ったように、引いた直後のわずかな隙へ同時に踏み込んできた。一体がレクスの腕に組み付き、もう一体がその喉元へ剣を突き出す。
その刃が肉を裂く寸前、真横から凄まじい「質量」が死体の頭部を吹き飛ばした。
「ガハッ……! 何をしてる、早く動け、野良犬!」
叫んだのはヒューゴだった。彼は魔術剣の刃ではなく、ガザルが強引に溶接した四階層の怪物の「分厚い鉄殻の鞘」をそのまま鈍器として振り回し、死体の頭蓋を叩き割っていた。魔術が使えないのなら、手元にある一番重い質量で殴る。洗練された魔術師の姿はどこにもない。鼻血を流し、泥にまみれ、ただ必死に獲物を撲殺する一匹の獣の姿がそこにあった。
「……ハッ、悪くないスイングだ」
レクスは組み付いていた死体の胸へ、容赦なく大剣の柄頭を叩き込んで引き剥がすと、即座にヒューゴの背中へと己の背を預けた。
周囲を囲む死体は十数体。まともに打ち合えば、こちらの体力が尽きるのが先だ。
「ヒューゴ、奴らの足を止める。一瞬でいい。お前のあの泥の爆発を、今度は俺たちの『足元』で起こせ」
「正気か!? 打ちどころが悪ければ、僕たちの足の骨が吹き飛ぶぞ!」
「死ぬよりはマシだろ! 合わせろ!」
レクスは大きく息を吸い込み、背中の筋肉を限界まで膨張させると、大剣を泥水の底へと深く突き刺した。
それと同時に、ヒューゴが覚悟を決めたように泥塗れの杖を自分の足元へ突き立てる。魔力による現象の解放。
ドゴォォォンッ!!
二人の足元で、先ほどよりも小規模な、しかし指向性を一点に絞った泥の爆発が起きた。
大剣をアンカーにして爆風を耐えたレクスと、それにしがみついたヒューゴ。しかし、周囲を取り囲んでいた死体たちは、地面に根を張ってバランスを取っていたがゆえに、足元の泥の激しい陥没に巻き込まれ、次々と体勢を崩して泥水へと沈み込んでいく。
「今だ、走れ!」
レクスは泥から大剣を引き抜き、体勢を崩した死体の一体の頭を踏みつけながら、包囲の薄い西側の闇へと猛然と駆け出した。ヒューゴもまた、酸欠の肺を酷使しながらその後に続く。
背後からは、泥を掻き分ける無数の怨嗟の声がなおも追いかけてくるが、二人は立ち止まらなかった。
暗闇の奥、わずかに傾斜のついた乾いた岩場へと滑り込み、包囲網から力強引に脱出を果たす。
「はぁ……はぁ……、ガハッ……」
岩肌に背中を預け、レクスは激しく咳き込んだ。口から吐き出された血が、黒い泥を赤く染める。
ヒューゴもその場に両膝をつき、ひび割れた魔術剣を杖代わりにしながら、酷く震える手で自身の足元を見つめていた。
「最低だ。……本当に、最低の戦術だよ、君は」
「だが、生きてる」
レクスは痛む脇腹を強引に引き締め、不敵に口元を歪めた。
二人の間に流れるのは、泥と血の臭い。しかし、その視線の先、五階層のさらに奥深くから、新たな『硬い足音』が近づいてくるのを、狼の耳は聞き逃さなかった。




