第15章:死人の正眼、あるいは肉の重さ
泥水を蹴る音が、沼の静寂を切り裂いた。
死体となったかつての仲間――かつて傭兵団で前衛を務めていた男が、生前と変わらぬ鋭さで踏み込んできた。腐りかけた肉体からは想像もつかない踏み込み。軍用ブロードソードの切っ先が、レクスの喉元へ向かって真っ直ぐに突き出される。
ギィンッ!
レクスは大剣の腹でその刺突を受け流したが、衝撃が折れた肋骨へダイレクトに響き、奥歯が鳴った。
(軽い……いや、重い!)
矛盾した感触。死体そのものの質量は水分が抜けて軽いはずなのに、剣に乗り込んでくる「殺意の自重」が異常に重い。死霊術で操られた人形のようなぎこちなさが一切なく、十年間叩き込まれた軍隊格闘の技術が、そのまま肉体の反射として駆動している。
「レクス、下がれ! 『吹き荒べ、不動の――』」
「魔術を使うな、ヒューゴ!」
レクスは叫びながら、泥を跳ね上げてバックステップを踏んだ。
「何だと!?」
「こいつの狙いは魔力だ! 見ろ、刀身の刻印を!」
ヒューゴが息を呑む。
死体が握るブロードソードの溝に、泥にまみれて見えなかった『魔力吸収』の古いルーンが刻まれていた。周囲のガスや、ヒューゴが練り上げようとした微かな魔力を吸い取り、死体の筋肉を強制的に収縮させて動かしているのだ。まともに魔術を放てば、あの剣を介して死体はさらに出力を増す。
「……オレ、タチ、の……」
死体は再び顎をガチガチと鳴らし、返り血で汚れたブロードソードを上段に構え直した。その構えには隙がない。
「効率主義の天才サマ。魔術が使えねえなら、ただの足手まといか?」
レクスは脇腹を押さえ、口の端から血を拭いながら不敵に笑う。
「ふざけるな……。魔術の構築を止めればいいんだろう。だったら、物理的な『現象』だけを貸してやる!」
ヒューゴは杖を地面に強く突き立てた。呪文の詠唱ではなく、杖の先端に仕込まれた魔晶石のエネルギーを、そのまま純粋な「圧力」として足元の泥水へと叩きつける。
ボカンッ!
レクスと死体の間で、激しい泥水の爆発が起きた。視界が茶色い飛沫で完全に遮られる。
死体の五感が一瞬だけ狂った。そのわずかな硬直を、十年間泥水をすすってきた狼が見逃すはずがなかった。
レクスは視界を捨て、足裏に伝わる泥の振動だけで間合いを詰めた。
新調された大剣を低く構え、死体の強固な軍用剣との真っ向勝負を避ける。狙うのは、すでに内臓が露出している怪物の「死んだ肉そのもの」だ。
「お前が持っていった報酬は、もう使い切ったよ」
泥の壁を突き破り、レクスの大剣が死体の横腹から斜め上へと振り抜かれた。
ガザルが調整した重心が、正確に骨の隙間を滑り、腐った肉を骨ごと断ち切る。
ベチャリ、と重い音がして、死体の右半身が泥水へと崩れ落ちた。腕と切り離されたブロードソードが、鈍い音を立てて泥に沈む。
しかし、レクスは武器を収めなかった。
引き裂かれた死体の断面から、黒い泥のような液体に混じり、細い『樹の根』が蠢きながら這い出てくるのを見たからだ。四階層で戦った植物の変異種が、死体の血管に入り込み、寄生虫のように肉体を操っていたのだ。
「……なるほど。五階層の沼ってのは、こういう仕組みか」
レクスは動きを止めない根の塊を踏みつけ, 大剣の先端で容赦なく collateral(心臓部だった場所)を突き刺し、完全に沈黙させた。
荒い息を吐きながら、レクスは背後の闇を見据える。
濁った沼の奥から、ズズ、ズズズと、さらに多くの「引きずられる足音」が響き始めていた。かつての傭兵仲間の残りのメンバー、そしてこの沼に呑まれた過去の冒険者たちの影が、無数に蠢いている。
「ヒューゴ、泥を被る準備はできてるだろうな」
「最悪だ……。だけど、君にこれ以上貸しを作るよりはマシだよ」
二人は武器を握り直し、迫り来る亡霊の群れへと視線を向けた。




