第14章:不浄の門、あるいは引きずられる足跡
第四階層の岩盤をくり抜いたような垂直の階段は、下へ進むほどに湿度を増し、階段の表面はヌルヌルとした黒い苔で覆われていた。
松明の炎が、酸欠に近い重苦しい空気の中で小さく爆ぜる。
「……最悪の環境だな。効率もクソもない」
背後から聞こえたのは、吐き捨てるような低い声。
レクスが振り返ると、そこには衣服こそ新調したものの、まだどこか顔色の悪いヒューゴが立っていた。手にした魔術剣の鞘には、ガザルが強引に叩き込んだ四階層の怪物の鉄殻が、黒い補強材として無骨に巻き付けられている。
「ついてくるなと言ったはずだ、スマートな冒険者様」
「勘違いするな。僕は『灰色ギルド』から、この先の通行証を持つ者の『監視役』として正式に雇われただけだ。君が途中で野垂れ死んだら、あの鉱脈の利権が宙に浮く」
ヒューゴはフンと鼻を鳴らし、革手袋で鼻を覆った。
階段を降りきる前から、通路の奥から漂ってくるのは、植物の腐敗臭と、生物が腐り落ちるあの特有の甘ったるい悪臭――「腐肉の沼」の臭気だった。
階段の終着点。そこは、天井が異常に高く、見渡す限りの濁った泥水が広がる広大な地下空洞だった。
沼のあちこちから、不気味なガスが泡となってブツブツと湧き出している。
レクスは足元に目を落とした。
泥まみれの地面に、不自然な溝が刻まれている。靴の跡ではない。何かが、重い足を泥に引きずりながら歩いたような、歪な軌跡。それが、沼の奥へと無数に伸びていた。
「足跡……いや、これは『引きずり跡』か? 迷宮の魔物の動きじゃないな」
ヒューゴが魔術剣を少し抜き、刀身の微かな燐光で泥の上を照らす。
その光の下で、レクスは「それ」を見つけた。
泥の中に半分埋もれていたのは、ひどく汚れた、しかし見覚えのあるデザインの金属製の『肩当て』だった。
十年、同じ戦場で泥をすすり、背中を預け合ってきた連中が身につけていた、傭兵団の支給品。
「……やはり、ここにいるのか」
レクスの胸の奥で、冷たい飢えが再び鎌首をもたげる。
怒りではない。ただ、自分を裏切ったあいつらが、どのような無様な姿でこの地獄に転がっているのかを、この手で確かめたいという執念だけが、彼の身体を動かしていた。
――ズズ……、ズズズ。
濁った水の音に混じり、前方の暗闇から、泥を掻き分ける音が近づいてくる。
一歩、また一歩。
松明の光が届く境界線に、その姿が現れた。
衣服はボロ布のように裂け、皮膚は青白くふやけ、内臓が半分露出している。まともな生命体なら、一歩歩くことすら不可能な死体。
しかし、その死体の右腕は、不自然なほど硬直した状態で、一本の『軍用のブロードソード』を正しく正眼に構えていた。
刃は血と脂で曇っているが、手入れの行き届いたその鉄の冷たさは、迷宮のナマクラとは一線を画している。
「嘘だろ……。死霊術の気配がない。ただの動く死体じゃないぞ、これ」
ヒューゴの声が、肉体的な恐怖とは異なる「未知への拒絶」で微かに震える。
死体は、濁った眼球を正確にレクスへと向けた。その顎がガチガチと不自然に震え、肉の裂けた喉から、掠れた声が漏れ出す。
「……オ……オレ……タチ、の……ホウシュウ……」
「あいつの顔を、覚えているか? レクス」
ヒューゴの問いに、レクスは答えなかった。
ただ無言で、背中の大剣の柄に手をかける。
かつての仲間の一人。裏切り、金を奪い、そしてこの五階層の沼で「何か」に喰い殺された男の成れの果て。
「よく眠れなかったみたいだな、相棒」
レクスは大剣を引き抜き、泥水の中へと一歩を踏み出した。
不浄の沼を舞台に、過去の亡霊たちとの、真の決算が始まる。




