第13章:沼の囁き、あるいは錆びた秩序
『黒鉄堂』の重い扉が閉まると、深夜の路地裏には再び冷たい雨の音だけが残された。
金貨一枚と、細かく割られた銀貨の山。レクスは革財布の確かな重みを掌で確かめ、小さく息を吐き出す。宿代と干し肉の心配から解放されたはずの胸中には、しかし、あの鉄の胎内で嗅いだ、腐った泥の匂いがべっとりとへばりついて離れなかった。
「……あいつ、本当に懲りてねえな」
ヒューゴが去っていった闇を睨み、レクスは不敵に口元を歪める。
天才を自称する魔術師は、泥水をすすった屈辱を完全にその身に刻み込んでいた。次に出会う時、あの魔術剣がどのような牙を持って自分に向けられるか。それを考えると、背筋の傷痕が微かに疼いた。
だが、歩き出そうとしたレクスの足が、不意に止まる。
「いい取引だったわね、傭兵上がり」
頭上からの声。
見上げると、武器屋の軒下、雨の届かない狭い梁の上に、あの少女――ニクスが座っていた。顔を覆う防砂布は外され、露わになったのは、人形のように整っていながらも、一切の感情を排した冷徹な少女の素顔だった。
「灰色ギルドの調停人が、何の用だ。利権の承認は終わったはずだが」
「仕事は終わったわ。これはただの、プライベートな『警告』よ」
ニクスは梁から音もなく飛び降りた。濡れた石畳に靴音が響かない。彼女はレクスの横をすり抜けざるを得ない狭い路地で、すれ違いざまにその小さな唇をレクスの耳元へと寄せた。
「四階層の『主』が消えたことで、さらに深部――第五階層への『境界』が歪み始めたわ。あそこは、あなたのような野良犬が最後に辿り着く場所。……亡者の集う『腐肉の沼』よ」
腐肉の沼。
その単語が耳に触れた瞬間、レクスの脳裏に十年前の戦場の光景が過った。死体の山、引き裂かれた旗、そして、泥にまみれて動かなくなった戦友たちの顔。
「ギルドの情報によれば、数日前から、五階層の沼から『生きて動く死体』が這い出し始めているわ。それも、ただのアンデッドじゃない。手には、真新しい、手入れの行き届いた『軍用の剣』を握りしめてね」
レクスの身体が、わずかに硬直する。
手元に残った折れた大剣の柄。それを握る右手に、じわりと嫌な汗がにじむ。自分を裏切り、報酬を持ち逃げしたかつての「仲間」たち。あいつらが向かった先も、確かこの迷宮の深部だったはずだ。
「あいつらは……よく眠れているかね」
プロローグで自らに問いかけた言葉が、呪いのように口から漏れる。
ニクスはそれ以上何も言わず、ただ薄く笑うと、今度こそ完全に雨の闇へと溶けて消えた。
レクスは一人、濡れた外套のフードを深く被り直す。
財布の中の銀貨は重いが、胃袋の底にある飢えは、少しも満たされてはいなかった。怒りではない。ただ、あの裏切りの結末を、この目で確かめなければ死んでも死にきれないという、狂気にも似た執念。
「よし、行くか」
男は新調された大剣の重みを背中に感じながら、再び歩き出す。
かつての戦友たちの足跡を追い、さらに深い地獄へと、狼は歩みを止めない。




