第10章:鉄の胎内、あるいは二匹の遠吠え
ニクスが残した黒い金属プレートが、地熱でかすかに震えていた。
上流から響く地鳴りは、もはやただの水音ではない。岩盤が強引に削り取られるような、硬質で不快な摩擦音が洞窟の壁を伝ってレクスたちの足の裏を震わせる。
「……おい、へっぽこ。立てるか」
レクスは大剣の切っ先を地面に突き立て、それを杖代わりにしながらヒューゴを見下ろした。
ヒューゴは膝をついたまま、自分の紫色の唇を噛み切らんばかりに震わせていた。寒さのせいではない。格下と見下していた野良犬に二度も命を救われ、さらに未知の『調停人』に自分の限界を宣告された屈辱。それが、彼の端正な顔を醜く歪めていた。
「黙れ……! 誰がへっぽこだ。僕の魔術がなければ、あの鍾乳石は固定できなかった……!」
「だったらそのプライドごと、次の獲物にぶつけろ。死に損ないが一人で引き返せるほど、この四階層は甘くねえぞ」
レクスは地面の黒いプレートを無造作に拾い上げると、濡れた布切れのようにヒューゴの胸元へ放り投げた。
ヒューゴはそれを反射的に掴み、泥にまみれた自身の魔術剣を拾い上げる。剣の刀身に刻まれた魔術刻印は、激流の重金属を浴びて鈍く曇っていたが、それでもまだかすかな燐光を放っていた。
二人は無言のまま、水路の上流――黒い水が噴き出す『未踏の鉄鉱脈』の入り口へと足を進めた。
そこは、迷宮が自ら鉄を孕んだかのような異様な空間だった。
壁一面に剥き出しになった黒鉄の結晶が、生き物の血管のようにうねり、天井からは粘度の高い赤黒い液体が滴り落ちている。
空間の中央。鉄鉱脈の「心臓」とでも呼ぶべき場所に、そいつはいた。
姿は巨大な蜘蛛に似ている。だが、その外骨格は完全に錆びついた鉄板で構成されており、八本の脚はそれぞれが巨大な採掘用の杭のようだった。
怪物が動くたび、足元の鉄鉱脈が砕け、火花が散る。さっきの鉄砲水は、この怪物が地下水路の土手を手当たり次第に突き崩していたために起きた副産物に過ぎなかった。
「……あれが、四階層の『主』か。効率主義の計算には入っていなかったな、ヒューゴ」
「軽口を叩くな……。あの外殻の厚さ、並の大剣じゃ刃が通る前に叩き折られるぞ」
ヒューゴは杖を構え、残った魔力を必死に練り上げる。しかし、全身の冷えが呪文の構築を狂わせ、手元の光が不安定に明滅する。
キチキチキチ、と鉄の顎が擦れ合う音が洞窟に響いた。
怪物の複数の複眼が、侵入者である二人の姿を正確に捉える。凄まじい質量を持った鉄の脚が、空気を引き裂いてレクスの頭上へと振り下ろされた。
「正面は俺が止める! お前はその自慢の魔術で、あの錆びた関節を狙え!」
レクスは叫ぶと同時に、ガザルから譲り受けた大剣を斜めに構えた。
正面から受け止めれば、いくら調整された武器でも粉砕される。レクスは直撃の瞬間、大剣の腹を怪物の鉄脚に滑らせるようにして、受け流し(パリィ)を敢行した。
――ギチチチチッ!!
耳を劈く金属摩擦の音が響き、強烈な衝撃がレクスの両腕の肉を裂くように襲う。
だが、軸はブレていない。泥水をすすってきた十年の経験が、踏みとどまる足の筋肉を限界まで硬化させていた。
「ヒューゴ! 今だ!!」
「くっ……『穿て、風の錐』!!」
ヒューゴの咆哮とともに、凝縮された鋭利な風の弾丸が放たれた。
狙いは正確だった。風の錐は、レクスが受け流して隙だらけになった怪物の右前脚の「関節」――外殻が薄く、錆が激しい隙間へと直撃する。
バリィィン! と、鉄錆が弾け飛ぶ音がした。
怪物の巨体が、バランスを崩して大きく傾く。
「……はぁ、はぁ! 見たか、野良犬!」
「よくやった。だが、まだ吠えるにゃ早いぜ!」
レクスは笑わなかった。その目は、獲物の喉笛しか見つめていない。
体勢を崩した鉄の怪物の懐へと、彼は自らの身体を滑り込ませた。大剣の重みをすべて乗せ、結晶の隙間から覗く、怪物の肉質へと刃を突き立てるために。
二匹の飢えた獣の、本当の牙が今、迷宮の最深部で剥かれようとしていた。




