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第5話《三百十二》

 夜が明けても、レフナの町は白かった。


 北の鉱山口から噴き上がっていた巨大な霧の柱は消え、地面の揺れも止まっている。だが、家々の間や街道に走った亀裂からは、いまだ薄い蒸気が立ち上っていた。


 夜明けの光を受けた町は、雪に埋もれているようにも、燃え尽きた灰の中に沈んでいるようにも見えた。


 ユスト=カレルは、救助隊の後ろについて南門をくぐった。


 口元には濡れ布を巻いている。


 片手には住民台帳。もう片方には、昨夜から書き続けている確認表を抱えていた。


 救助隊の先頭では、守備兵が長い棒で石畳を確かめている。地面を一度叩き、返ってくる音を聞き、下に空洞がないと判断してから次の一歩を進んだ。


「道の中央から外れるな」


 先頭の兵が振り返らずに言った。


「壁際は地下室が落ちているかもしれない。蒸気が増えたら、すぐに戻れ」


 ユストは頷き、返事をするより先に足元へ視線を戻した。


 昨夜まで街道だった場所には、細い亀裂が無数に走っている。大きな割れ目には板が渡され、使えなくなった荷車の車輪が仮の目印として置かれていた。


 北へ進むほど、建物は形を失っていった。


 倒れた屋根。


 割れた石壁。


 折れた柱。


 蒸気を浴びて黒く変色した扉。


 家の中にあったはずの椅子や衣服が、泥と一緒に道の上へ投げ出されている。


「ここは確認したのか」


 一人の兵が、半分崩れた家を指した。


「昨夜、別の隊が入ったはずだ」


「印がない」


「入口が崩れて消えたんじゃないか」


「中に人がいるかもしれない」


 兵たちは家の前で足を止めた。


 別の隊がすでに確認した可能性がある。


 しかし、誰が、いつ、どこまで見たのか分からない。


 同じ家へもう一度入れば時間を失う。だが、入らなければ、中にいる者を見落とすかもしれなかった。


 ユストは住民台帳を開いた。


「家番号は」


「壁の札が落ちてる」


「隣を見ます」


 崩れた家の左側には、石壁の一部が残っていた。ユストはそこに付いた札へ近づき、泥を布で拭う。


 《北二番路地・十二》


 台帳の頁をめくる。


「十二番は、サーム家です。登録は三人」


「昨夜、夫婦は南門で確認された」


 兵の一人が言った。


「もう一人は?」


「母親が同居しています」


「避難確認は」


 誰も答えなかった。


 ユストは確認表を開いた。


 サーム家。


 夫婦二名、南門外で確認。


 同居老女について、記載なし。


「一人、足りません」


 守備兵が崩れた家を見る。


「別の避難場所へ行った可能性もある」


「あります」


「なら、ここへ入っても無駄かもしれない」


「ここにいる可能性もあります」


 どちらも可能性だった。


 だが、台帳には三人いると書かれている。確認されたのは二人だけだった。


「もう一度見る」


 先頭の兵が決めた。


 救助隊は崩れた板を取り除き、家の中へ入っていった。


 ユストは外で待つ。


 瓦礫を動かす音が続く。


「誰かいますか!」


「返事をしてください!」


 返事はない。


 しばらくして、一人の兵が出てきた。


「居間と寝室は空だ」


「地下は」


「入口が潰れている」


「台帳では、老女が一人います」


「避難したのかもしれない」


 ユストは家の裏側へ目を向けた。


 崩れた壁の隙間から、細い縄が見えている。洗濯物を干すための縄だった。その先に、小さな木の蓋がある。


「床下の貯蔵穴ではありませんか」


 兵が縄を引いた。


 蓋は瓦礫に押さえられ、動かない。


 三人が板を差し込み、石を除く。蓋の隙間がわずかに開いた。


「誰かいますか!」


 兵が耳を近づける。


 しばらく何も聞こえなかった。


 やがて地面の下から、ごく小さな音が返ってきた。


 爪で木を掻くような音だった。


「いる!」


 救助兵たちが蓋の周囲へ集まった。


 板と石をどかし、絡んだ縄を切る。


 貯蔵穴の中から、毛布に包まれた老女が引き上げられた。


 意識はあった。


 声は出なかったが、目を開け、何度も浅い息を吸っている。


「南門へ運べ!」


「名前は」


 ユストが尋ねた。


 老女は唇を動かしたが、声にはならなかった。


 救助兵が答える。


「サーム家の母親だろう」


「本人の名前が必要です」


 ユストは台帳を見た。


「ネラ=サーム」


 老女が小さく頷いた。


 ユストは確認表へ書き込む。


 《ネラ=サーム。北二番路地十二番。床下貯蔵穴より救出。生存。確認者――》


 救助に加わった兵たちの名を一人ずつ聞く。


 時刻を書く。


 搬送先を書く。


 最後に、家の入口へ白い布を結ばせた。


「これは何だ」


 兵が尋ねる。


「内部確認済みの印です」


「布がなくなったら」


「壁へ家番号と時刻を書きます。救助が必要なら赤い布。入れなければ黒い印を」


「誰が決めた」


「今、決めました」


 兵たちがユストを見る。


 彼には、救助隊へ命令する権限はない。


 それでも、同じ家へ何度も入り、その間に別の家を見落としている余裕はなかった。


「別の隊にも伝えてください」


 先頭の兵は少し考えた後、白い布の結び目を強く締めた。


「北二番路地の入口にも、印の説明を書こう」


「お願いします」


「次は十三番だ」


 救助隊が動き始める。


 ユストは、担架で運ばれていくネラを見た。


 台帳に名前があった。


 二人しか確認できていないと気づいた。


 それだけで、一人を見つけることができた。


 記録が、人を救った。


 だが、喜びは長く続かなかった。


 リナの名前は、まだ《所在不明》のままだった。


     ◇


 昼前、ユストは南門外へ戻った。


 牧草地には、避難者、負傷者、救助に戻る者、家族を探す者が入り混じっていた。


 名前を呼ぶ声が絶えない。


 誰かが返事をすれば、別の場所から泣き声が上がる。返事がなければ、同じ名前が何度も繰り返された。


 町長府の書記官たちは、大きな机を三つ並べていた。


 一つには住民台帳。


 一つには各宿から回収された宿帳。


 もう一つには医務官の患者記録と、守備隊の日誌が置かれている。


「一枚にまとめようとしたのですが」


 書記官がユストへ紙を見せた。


 名前の横へ、無数の書き込みが重なっている。


 避難済み。


 負傷。


 西倉庫で確認。


 南門で見た。


 町へ戻った可能性。


 同名者あり。


 確認者不明。


 どの情報が新しく、どれが古いのか分からない。


「分けます」


 ユストは新しい紙を三組用意した。


 最初の表題を書く。


 《生存確認》


 次の紙。


 《所在不明》


 最後の紙。


 《死亡確認》


「本人を直接見た者の証言だけを、生存確認へ入れてください」


 書記官が筆を止める。


「家族が避難したと言っている場合は?」


「誰が、どこで、いつ見たかを確認します」


「避難したはず、という話は」


「所在不明です」


「厳しすぎませんか」


「私も昨夜、リナを《移送予定》と書きました」


 ユストは、自分の確認表を見せた。


「予定は、到着ではありません」


 書記官は何も言わなかった。


「死亡確認は、遺体を確認した者と場所を必ず記してください。名前が分からなければ、服装、年齢、傷、所持品を残す。人数だけを先に加えないでください」


「数を早く知りたいと、町長代理が」


「重複すれば、後で減ります。見落とせば、後で増えます」


「では、いつ確定できますか」


「全員を確認した時です」


 そんなことができるのか。


 書記官の顔には、そう書いてあった。


 ユスト自身にも分からなかった。


 それでも、曖昧なまま三つの紙を混ぜることだけはできない。


 彼は南門の入口へ立ち、避難者へ呼びかけた。


「名前を確認します!」


 人々の顔が向く。


「生きていると聞いただけではなく、実際に見た場所を教えてください! 最後に見た時刻と、その時に誰といたかも必要です!」


「そんなことまで覚えてない!」


「分かる範囲で構いません。分からないことは、分からないと残します!」


「家族が見つからない!」


「名前を!」


「ローレン! 靴屋のローレンだ!」


「最後に見たのは」


「家を出た時だ! 俺より先に南へ行った!」


「南門で見た人はいますか!」


 返事はなかった。


 ローレンの名は《所在不明》へ入った。


 次の者が叫ぶ。


「妻は西倉庫にいた!」


「誰が確認しましたか」


「俺の弟だ!」


「弟はどこに」


「救助へ戻った!」


 確認者自身がいない。


 情報は紙へ残す。


 だが、生存確認には移さない。


 一人ずつ。


 一件ずつ。


 名前は、三つの紙の間を動いた。


     ◇


 午後、東の礼拝所から避難者名簿が届いた。


 そこには二十八人の名があった。


 書記官が読み上げる。


 住民二十一人。


 旅人六人。


 身元不明の老女一人。


「特徴は」


「赤い毛糸の帽子。杖を持っている。跳ね鹿亭から避難したと言っています」


 ユストは顔を上げた。


「連れてきてください」


 しばらくして、赤い帽子をかぶった老女が、若い女に支えられて現れた。


 リナが、宿の二階から出たと確認した宿泊客だった。


「跳ね鹿亭に泊まっていましたか」


「ああ」


「宿を出た後、どこへ」


「鐘が火事だと言うから、中央広場へ行った。そこから礼拝所へ連れていかれたよ」


「南門には来ていない?」


「行き先なんて聞いてなかった」


 老女は周囲を見た。


「宿の女将はどこだい。あの子、客を数えてただろ」


 ユストは答えられなかった。


 老女の名を宿帳で確認し、《生存確認》へ移す。


 跳ね鹿亭から退出。


 中央広場へ移動。


 東礼拝所で保護。


 女将もリナも、最初の部分までは正しく見ていた。その後を知らなかっただけだった。


「女将は、あなたを探して宿へ戻りました」


 ユストが言うと、老女の顔から血の気が引いた。


「私は、ちゃんと外へ出たよ」


「はい」


「何で戻ったんだ」


「南門で、あなたを確認できなかったからです」


「私のせいかい」


「違います」


 ユストはすぐに答えた。


「誰のせいでもありません。あなたがどこへ避難したのか、宿へ届かなかったんです」


 老女は唇を震わせた。


「女将は」


「まだ確認できていません」


「リナは」


 ユストは紙を見た。


 どちらも、《所在不明》。


「同じです」


 老女は赤い帽子を両手で握り、何も言わなくなった。


     ◇


 跳ね鹿亭の女将が見つかったのは、その日の夕方だった。


 川沿いの臨時救護所から、負傷者名簿が届いた。


 北側から運ばれた女性。


 意識不明。


 左腕骨折。


 背中に火傷。


 名前不明。


 所持品には、宿の鍵束。


 ユストと赤い帽子の老女は、川沿いの救護所へ向かった。


 女将は石造りの倉庫の壁際に寝かされていた。


 泥に汚れ、髪の一部が蒸気で焼けている。左腕には木の板が添えられ、胸元にはセラのヒールを受けた跡が薄く残っていた。


「跳ね鹿亭の女将です」


 老女が言った。


「間違いない」


 ユストは、女将の名前を《所在不明》から《生存確認》へ移した。


 発見場所。


 川沿い北路地。


 発見者。


 西倉庫から避難中のネイラント一行。


 搬送先。


 川沿い臨時救護所。


 意識不明。


 書き終えた時、女将の指が動いた。


「女将」


 ユストが呼びかける。


 瞼がゆっくり開いた。


 最初は焦点が合わなかった。やがてユストの顔を認めると、唇が動いた。


「……リナは」


 声は息に近かった。


 ユストは答えなければならなかった。


「まだ、確認できていません」


「南門に……いた」


「守備兵へ預けました」


「なら……」


「引き渡された記録がありません」


 女将の目が開く。


「どういうことだい」


「荷車が倒れた時、守備兵が別の兵へ託しました。その兵の名前が分かりません。南門外への到着も確認できていません」


「町へ戻ったって話もあります」


 老女が震える声で言った。


 女将は起き上がろうとした。


「寝ていてください」


 ユストが肩へ手を置く。


「私が探します」


「私は、あの子に待ってろと言った」


「聞いています」


「でも、あの子は」


 女将は目を閉じた。


「あの子は、私が戻ったと知ったら待っていられない」


 ユストは何も言えなかった。


「宿の裏から入ろうとする」


 女将が続ける。


「正面が混んでたら、井戸の横を通る。小さい頃から、あそこを近道にしてた」


「分かりました」


「ユスト」


 女将の右手が、ユストの袖を掴んだ。


「見つけておくれ」


 助けてくれ、ではなかった。


 もう生きていると信じている声でもなかった。


 それでも、見つけてほしい。


 昨夜、リナへ言った言葉を、ユストは思い出した。


 見つけるまで、確認をやめません。


「はい」


 ユストは答えた。


     ◇


 跳ね鹿亭の正面は、梁と屋根で塞がれていた。


 厨房側の地下からは、まだ熱が上がっている。


 救助隊は女将から聞いた裏道を回った。


 井戸の脇。


 薪置き場。


 細い勝手口。


 道は半分崩れていたが、人一人が通れる隙間が残っている。


「赤い上着!」


 先頭の兵が叫んだ。


 崩れた軒の下から、赤い布が見えていた。


 ユストの足が止まる。


 救助兵たちが瓦礫を除く。


 板。


 瓦。


 折れた梁。


 蒸気を含んだ石。


 やがて、小さな体が現れた。


 赤い上着。


 泥に汚れた髪。


 片方の手は、宿の裏口へ向かって伸びていた。


 あと数歩だった。


 女将が倒れていた場所も近い。


 リナは母親を探し、ここまで戻ってきた。


 救助兵が少女の首元へ手を当てる。


 何度か場所を変えた。


 それから、ゆっくり首を横へ振った。


「女の子です。名前は――」


「リナです」


 ユストが答えた。


 声は、自分でも驚くほど普通だった。


「跳ね鹿亭の娘。リナ」


 救助兵は何も言わず、毛布を広げた。


 ユストは確認表を開く。


 《所在不明》


 そこに、リナの名前がある。


 跳ね鹿亭の娘。


 赤い上着。


 守備兵へ引き渡し。


 医務官のもとへ移送予定。


 町へ戻ったとの証言あり。


 ユストは、《移送予定》の文字へ線を引いた。


 消したのではない。


 その記録が間違いだったことを残すため、読めるように線を引いた。


 次に、《所在不明》から名前を外す。


 新しい紙を開いた。


 《死亡確認》


 筆先が、紙の上で止まった。


 名前を書かなければ、まだ確定しないような気がした。


 だが、それは記録を守ることではない。


 事実から目を逸らすことだった。


 ユストは書いた。


 《リナ》


 《跳ね鹿亭の娘》


 《発見場所――跳ね鹿亭裏口付近》


 《本人確認者――ユスト=カレル》


 最後に時刻を書く。


 筆を置く。


 救助兵が毛布で少女を包んだ。


「南門へ運びます」


「川沿いの救護所へ」


 ユストは言った。


「母親がいます」


 救助兵は小さく頷いた。


 ユストは、毛布が運ばれていくのを見送った。


 泣くことはできなかった。


 町には、まだ名前の分からない人が残っている。


 名前が分かっても、所在の分からない人がいる。


 リナ一人を見つけたことで、確認を終えることはできなかった。


     ◇


 その日の夜、死者数は二百九十八人と報告された。


 翌朝には三百十四人へ増え、昼には三百七人へ減った。


 本名と通称。


 旧姓と婚姻後の名。


 宿帳に書いた名前と、商人仲間が呼ぶ名。


 《粉屋の妻》。


 《北門の老人》。


 《赤い帯の男》。


 同じ人物が、別々の名前で数えられていた。


 一方で、生存確認にも誤りがあった。


「ローレンは南門で見た」


 そう証言した男が実際に見たのは、ローレンの弟だった。二人は背丈も服装も似ていた。


 ローレン本人は、北二番路地の倒壊家屋から遺体で見つかった。


 反対に、死亡したと思われていた女が、東礼拝所から戻ってきた。遺体の服装が似ていただけで、本人ではなかった。


 住民台帳に載っていない、生まれたばかりの子どももいた。


 名前が違えば、一人が二人になる。


 名前がなければ、一人が最初からいなかったことになる。


 ユストは一件ずつ、証言を取り直した。


「見たのですか」


「聞いただけですか」


「最後に話したのはいつですか」


「その時、誰が一緒にいましたか」


「本人だと確認した根拠は」


 問われた者は、責められているように感じることもあった。


「嘘をついてるって言うのか!」


「いいえ」


 ユストは何度も答えた。


「間違えることがあると言っています」


「こんな時に、細かいことを」


「こんな時だからです」


 避難者は疲れていた。


 眠っていない。


 家族を失っている。


 記憶が混ざる。


 誰かから聞いた話を、自分が見たことのように話す。


 悪意はない。


 だからこそ、証言だけをそのまま人数へ加えることはできなかった。


 死亡者数は増え、減り、また増えた。


 三百九。


 三百十三。


 三百十。


 そして、二日目の夜。


 名前の判明した死亡者は、三百十一で止まった。


 そのほかに、身元の分からない遺体が一人いた。


     ◇


「一人、合いません」


 仮の集計所となった南側の宿で、ユストは言った。


 机の上には、住民台帳、宿帳、患者名簿、守備隊日誌、避難所ごとの確認表が並んでいる。


 町長代理マレクは、椅子へ座ったまま目を閉じていた。


「死亡者は三百十一ではないのか」


「名前の判明した者は三百十一人です。ですが、身元不明者が一人います」


「なら、三百十二人だろう」


「住民台帳と宿帳から割り出した発災時の滞在者数より、生存確認者と死亡確認者を合わせた数が一人多くなります」


「台帳に載っていない旅人だ」


「その可能性があります」


「なら、身元不明者を旅人として加えれば数は合う」


「数だけなら合います」


 ユストは、机の上の名簿を押さえた。


「ですが、その一人が誰なのか分かりません」


「今は速報が必要だ。領主府が待っている」


「誰かを二度数え、別の一人を消す可能性があります」


「数は合う」


「名前が合いません」


 マレクは、疲れた目でユストを見た。


「正式な調査は後でもできる」


「遺体が移され、荷物が分けられ、証言者が町を離れれば、今より難しくなります」


 ユストは宿帳を最初からめくった。


 跳ね鹿亭。


 銀樽亭。


 橋見屋。


 山鹿亭。


 宿泊者と出発者。


 旅人の持ち物。


 馬屋の記録。


 荷物預かり札。


 どこかに、まだ名前になる前の一人がいる。


 その時、宿の入口で杖の音がした。


 跳ね鹿亭の女将が、左腕を固定したまま部屋へ入ってくる。


「寝ていなければ」


 ユストが立ち上がった。


「私の宿のことだよ」


 女将は空いている椅子へ腰を下ろし、机の上の宿帳を見た。


「宿帳に書いていない客が、一人いる」


「いつ来た客ですか」


「夕方。鐘が鳴る少し前だ。部屋は取った。でも、先に酒を出して、名前を書かせる前に揺れが来た」


「名前は」


「聞いたはずなんだ。でも、思い出せない」


 女将は眉間を押さえた。


「北の街道から来た。革の鞄を持ってた。灰色の外套。馬は鹿毛。商人じゃない。どこかの工房へ行くと言っていた」


「荷物は」


「二階の六号室へ運ばせた」


 六号室は崩れている。


 それでも、救助隊が回収した荷物の一覧が残っていた。


 ユストは跳ね鹿亭の回収品を探す。


 焦げた革鞄。


 灰色の外套。


 木製の筆箱。


 小さな金属札。


「これですか」


 金属札を女将へ見せる。


「鞄に付いてた」


 札には工房組合の印と、名前が刻まれていた。


 《エルド=ヴァン》


 ユストは、身元不明者の記録を開いた。


 北中央路地で発見された男。


 年齢三十前後。


 灰色の外套。


 右手に細かな火傷痕。


 所持品なし。


 金属札と外套の特徴は一致している。右手の火傷痕も、炉を扱う仕事だという女将の記憶と矛盾しなかった。


「顔を確認できますか」


 女将はしばらく黙った。


「見る」


「無理をしなくても」


「私が部屋を貸した客だ」


 遺体は南門外の仮安置所にあった。


 女将は布を少しだけ上げ、顔を見る。


 すぐに目を逸らした。


「この人だ」


「間違いありませんか」


「ああ」


 女将は目を閉じた。


「エルドだ。エルド=ヴァン。工房の炉を直す仕事だと言っていた」


 ユストは《身元不明》の記録へ名前を書き加えた。


 宿帳にも、別の筆跡で記録を残す。


 《エルド=ヴァン》


 到着時刻は推定。


 宿泊予定。


 本人の署名なし。


 女将による確認。


 工房組合札との一致。


 名前の判明した死亡者へ、一人を加える。


 三百十二。


 住民台帳と宿帳に、エルド=ヴァンの滞在を加える。


 発災時の滞在者。


 生存確認者。


 災害前に町外へ出た者。


 死亡確認者。


 合計が一致した。


 ユストは、数字を二度確かめた。


「これで、合うのかい」


 女将が尋ねた。


「はい」


「リナも、その中にいる」


 ユストは答えた。


「はい」


 女将は、それ以上何も言わなかった。


     ◇


 領主府の役人が到着したのは、二日目の深夜だった。


 災害速報をまとめるため、被害人数を求められる。


 仮集計所の机へ、白い報告書が置かれた。


「死亡者数は」


 役人が尋ねる。


 ユストは三つの名簿を見た。


 《生存確認》


 《所在不明》


 《死亡確認》


 所在不明の欄には、まだ数名の名前が残っていた。


 だが、その者たちは災害前に町を出た可能性が高く、死亡者数からは除外している。後日、引き続き確認する。


 死亡確認に記された人数は、三百十二。


「三百十二人です」


 ユストは答えた。


 役人が報告書へ書く。


 《人的被害 三百十二》


「負傷者は」


「重傷四十七。軽傷は、現在も増えています」


「建物被害」


「北側は大半が倒壊。中央街道と川沿いにも――」


 必要な項目が埋められていく。


 死亡者三百十二。


 重傷者四十七。


 軽傷者多数。


 行方確認中、数名。


 家屋倒壊。


 街道損壊。


 井戸使用不能。


 原因、旧鉱山排熱設備の崩壊が疑われる。


 避難開始の遅延。


 報告書は、一枚に収まった。


 役人は紙を乾かし、封筒へ入れる。


「確認者の署名を」


 ユストは署名欄へ自分の名を書いた。


「名簿も送りますか」


「速報には不要だ」


「三百十二人の名前です」


「正式調査で提出してくれ。今必要なのは人数だ」


 間違ってはいなかった。


 遠くにいる領主府が最初に知るべきことは、被害の規模だった。


 三百十二という数字で、救援物資の量が決まる。


 医務官の数が決まる。


 追加の守備兵を送るかどうかも判断できる。


 数字は、人を救う。


 それでもユストは、自分の手元にある《死亡確認》の名簿を閉じなかった。


 リナ。


 エルド=ヴァン。


 北二番路地のローレン。


 川沿いで見つかった夫婦。


 二つの名で記録されていた旅商人。


 名前の分からなかった時間。


 別の誰かと重ねられていた時間。


 生きていると思われていた時間。


 一人ずつ確認し、三百十二という数になった。


 数字は正しかった。


 重複はない。


 確認できる限り、見落としもない。


 だが、その一行だけを残せば、三百十二人は最初から一つの塊だったことになる。


 ユストは名簿の最初の頁へ戻った。


 一人目の名前。


 二人目の名前。


 三人目の名前。


 最後まで、指で追う。


 それから、机の上に散らばっていた確認記録を集め、速報の控えとは別の紐で綴じた。


 表紙へ日付を書く。


 続けて、題名を記した。


 《レフナ鉱山災害・死亡確認名簿》


 向かいの机で片づけをしていた書記官が、その手元を見る。


「正式調査が終われば、それも領主府へ送るのですか」


「写しを送ります」


「原本は?」


 ユストは、綴じた名簿へ手を置いた。


「残します」


 領主府へ送られる報告書には、


 《人的被害 三百十二》


 と書かれていた。


 ユストの手元には、三百十二人分の名前が残った。


 同じことを記しているはずなのに、二つの紙は、まるで違うものに見えた。

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