第4話《英雄が来なかった夜》
その夜、跳ね鹿亭の地下で、岩が砕けた。
陶器でも、酒瓶でもない。
厚い石壁の向こう側で、山そのものが身じろぎしたような音だった。
食堂の隅で記録を整理していたユスト=カレルは、筆を止めた。
昼間から聞こえていた石材の擦れる音とは違う。
近い。
椅子の脚を伝い、足の裏まで震えが上がってきた。
壁に掛けられた皿が鳴り、卓上の水差しには細かな波が立った。水が縁からこぼれ、厨房では女将が鍋を押さえる音がする。
「またかい!」
叫び声に重なるように、床が突き上がった。
ユストは椅子から投げ出された。肩から石床へ落ち、肺の空気を押し出される。
灯りを載せた卓が傾き、油皿が滑った。
床へ落ちる直前、女将が濡れ布を投げつける。火が布の下で潰れ、食堂が闇に沈んだ。
「火を消せ!」
女将の声が飛ぶ。
「厨房もだ! リナ、客を起こしな!」
二階で扉が次々に開いた。
旅人たちの怒鳴り声と、裸足で床を踏む音が重なる。
ユストは壁へ手をつき、どうにか立ち上がった。
「一度に階段へ来ないでください! 靴だけ履いて、荷物は置いて外へ!」
「避難なのか!」
暗闇の中から男の声が返った。
「この建物からは出てください!」
「町から出るのかと聞いてる!」
ユストは答えられなかった。
町全体への避難命令は、まだ出ていない。
だが、この宿の地下では明らかな異常が起きている。
「まず外へ! 街道の中央には立たないでください!」
自分が決められる範囲だけを告げる。
女将が厨房の火を消し、裏口を開けた。
春先の冷たい夜気は入ってこなかった。代わりに、地下で温められたようなぬるい風と、濡れた鉄に似た匂いが食堂へ流れ込む。
「お母さん!」
階段の途中でリナが叫んだ。
「地下の扉から、白いのが出てる!」
女将とユストは同時に振り返った。
厨房の奥。食料庫へ下りる階段の隙間から、淡い霧が流れ出している。
湯気に似ていた。
だが、火を焚いていない地下から出るものではない。
霧は石床を這い、厨房へ広がっていく。
女将が一歩近づいたため、ユストはその腕を掴んだ。
「触れないでください」
「冬越しの食料がある」
「捨ててください」
「簡単に言うんじゃないよ」
女将はそう言ったが、それ以上は進まなかった。
霧が近くの木箱へ触れる。
表面が濡れたように黒ずみ、次の瞬間には白い煙を立てて乾いた。
女将の顔から迷いが消えた。
「外へ!」
宿中へ響く声で叫ぶ。
「全員、外へ出な!」
ユストは厨房脇の木卓を倒し、地下扉の前へ押し込んだ。女将も肩を並べて力を加える。
扉の隙間から漏れた霧が卓の脚へまとわりつき、乾いた木の表面に細い亀裂が走った。
二階から、リナが最後の旅人を押すように下ろしてくる。
「七人!」
少女が叫んだ。
「二階は七人。角部屋のおばあさんも出た!」
「本当に?」
「杖を持ってた。赤い帽子の人!」
リナは宿泊客の顔をよく覚えていた。
誰が何泊目で、朝に何を食べ、どの部屋で咳をしていたかまで知っている。
女将が外へ出た客の顔を数え始めた。
だが、暗い街道には、近隣の家や別の宿から出てきた者たちも集まりつつある。跳ね鹿亭の客と住民が入り混じり、誰を数えたのかさえ分からなくなっていく。
「宿帳を」
ユストが言った。
「受付の下だよ」
女将が振り返る。
「私が取ります」
「あんたは客の顔を知らないだろ」
「では、私が入口を見ます。女将は――」
その時、町の北側から轟音が響いた。
空気そのものを押し潰すような音だった。
少し遅れて、北の家並みの向こうから、巨大な白い柱が立ち上がる。
煙ではない。
月明かりを呑み込むほどの蒸気だった。
地面が短く突き上げる。
街道につながれていた馬が嘶き、荷車を引いたまま暴れ始めた。
「綱を切れ!」
「荷が倒れるぞ!」
「子どもを端へ!」
指示がいくつも飛ぶ。
人々は、どの声に従えばよいのか分からず、互いの顔を見た。
その時、鐘が鳴った。
短く、激しく三度。
火事の合図だった。
「北で火事だ!」
誰かが叫ぶ。
「桶を持て!」
「井戸は使うなと言われてる!」
「南井戸ならいいだろ!」
火事なら、皆が手順を知っている。
家から人を出す。
水を運ぶ。
延焼を防ぐ。
だが、北の空に炎は見えなかった。
白い霧だけが家並みの間を流れてくる。
「火事ではありません!」
ユストは叫んだ。
「地下からの噴出です! 霧へ近づかないでください!」
「じゃあ、あの鐘は何だ!」
「誰が鳴らした!」
誰にも分からなかった。
避難鐘の合図は、長く三回、その後に短く五回。
まだ鳴っていない。
女将がリナの手を握った。
「南へ行くよ」
「宿帳は?」
リナが尋ねる。
「今は置いていく」
女将は宿を振り返った。
窓。看板。厨房の煙突。
長年守ってきたものを、一つずつ目に焼き付けるような視線だった。
それでも、中へは戻らなかった。
「ユストは?」
リナが聞いた。
「町長府へ行きます」
「英雄は?」
少女は、白い霧の立ち上る北の空を見た。
「まだ来ていません」
「来るんだよね」
ユストは答えられなかった。
代わりに、リナの赤い上着の襟を正した。
「お母さんから離れないでください」
「うん」
「名前を呼ばれたら返事を」
「子どもじゃないよ」
「今夜は、大人もそうしてください」
リナは少しだけ笑った。
女将が少女の手を引き、南へ歩き始める。
ユストは二人の姿が人混みに消えるまで見届けた。
それから、町長府へ走った。
◇
中央街道は、すでに荷車で詰まっていた。
英雄が来るという噂を信じ、一度宿へ戻された商人たちの荷車だった。
出発しようとする者、家族を迎えに戻ろうとする者、何が起きたのか確かめるため北へ向かおうとする者。そのすべてが街道の中央でぶつかり、動けなくなっている。
「南へ進め!」
守備兵が声を張り上げる。
「荷車は端へ寄せろ!」
「進めと言ったり寄せろと言ったり、どっちだ!」
「徒歩の者を先に通せ!」
「荷を置いていけるか!」
誰も逃げることを拒んでいるわけではない。
荷車を捨てれば、明日から生きられない者もいる。家族の居場所が分からないまま、町を出られない者もいる。
全員が正しい理由を抱え、そのために同じ道を塞いでいた。
ユストは荷車の間をすり抜ける。
街道脇の石畳には、昨日より大きな亀裂が走っていた。腕一本ほどの幅があり、底から白い霧が細く噴き出している。
近くにいた男が覗き込もうとした。
「離れてください!」
ユストが腕を引いた直後、霧が勢いよく吹き上がった。
男の外套の裾が濡れ、黒く変色する。
「熱っ!」
男は外套を脱ぎ捨てた。
皮膚には触れていない。
「地割れへ近づかないでください! 濡れた石や金属にも触れないように!」
叫びながら、ユストは手帳へ手を伸ばした。
だが、足を止めれば後ろから押し倒される。
確認した内容を頭の中で繰り返す。
中央街道。亀裂拡大。高温蒸気。衣服損傷一名。負傷なし。
誰かへ渡すまで、忘れてはならない。
◇
町長府の扉は開け放たれていた。
住民、守備兵、書記官が絶え間なく出入りしている。
会議室の壁には、前夜から集められた報告書が貼られていた。その上へ、新しい紙が次々に重ねられていく。
北鉱山口、第二崩落。見張り所との連絡途絶。
北井戸、水面上昇。蒸気発生。
地下倉庫、北壁崩落。
街道、複数箇所に亀裂。
医務所、患者移送開始。
英雄への使者、未帰還。
町長代理マレクは、机の上へ広げた地図を見下ろしていた。上着は着ているが、襟元は乱れている。
「避難鐘を鳴らしてください」
ユストは部屋へ入るなり言った。
マレクが顔を上げる。
「北側で地下蒸気が噴出しています。跳ね鹿亭の地下にも入りました。中央街道の亀裂も拡大しています」
「報告は受けた」
「なら、すぐに」
「鐘守りへ伝令を出した」
「到着の確認は」
「まだだ」
「誰を出しました」
「夜間担当のベイルだ。兵を一人付けた」
ユストは扉の方を見た。
二人の姿はない。
「もう一組、出してください」
「同じ命令を重ねれば混乱する」
「一組目が届かなければ、何も始まりません」
マレクは言い返そうとした。
その時、守備兵が駆け込んできた。
「北三番路地、二棟倒壊! 中に人がいます!」
「非番兵を回せ!」
「南門の整理に出ています!」
「鉱山口から戻せ!」
「隊長が北側の避難誘導に使っています!」
マレクの手が地図の上で止まった。
どこから人を抜いても、別の場所が空く。
「現場の住民に協力を求めろ。最上位の兵が指揮を取れ」
「承知!」
兵が走り去る。
ユストは再び言った。
「避難鐘です」
マレクは入口にいた別の兵を指した。
「鐘楼へ行け。鐘守りがいなければ、お前が鳴らせ」
「合図は」
「長く三回、短く五回!」
兵が走り出す。
「避難先は」
ユストが尋ねた。
「南門外の牧草地だ」
「住民へ知らせていますか」
マレクは口を閉じた。
避難先は、今この部屋で決まったばかりだった。
「鐘だけでは場所までは伝わりません」
「各路地へ人を出す」
「誰が、どの路地へ行ったかを残してください」
「今は書いている暇がない」
「残さなければ、同じ路地へ二人行きます。別の路地には、誰も行かなくなる」
マレクは机を叩いた。
「では、どうしろと言う!」
部屋が静まった。
怒鳴った本人が、最も答えを欲しがっていた。
ユストは地図の脇にあった大判の紙を引き寄せる。
「区画を分けます。向かった者の名前と時刻を書く。戻ったら、確認した家を報告させる」
「家の数が多すぎる」
「住民台帳を使います」
「書庫だ」
「持ち出してください」
書記官が書庫へ走った。
直後、奥から棚の倒れる音がした。
◇
住民台帳は六冊あった。
北一番路地、北二番路地、北三番路地、中央街道、川沿い、南門周辺。
倒れた棚の下から引き出された冊子は、埃にまみれていた。
「旅人は載っていません」
書記官が言った。
「旅人は各宿の宿帳です」
「宿へ取りに戻る人間が必要だ」
「守備兵は救助へ出ています」
「患者は医務所。兵は詰所。鉱山の見張りは管理所の日誌です」
ユストは六冊を見た。
町の中に誰がいるかを示す一枚の紙は、どこにもなかった。
「今あるものから始めます」
北一番路地の冊子を開く。
台帳には家番号、世帯主、家族の名前、年齢、仕事が記されていた。だが、最後に更新されたのは四か月前だった。
「この間に転居した者は」
「います」
「生まれた子どもは」
「月末に更新します」
正確ではない。
それでも、何もないよりはよい。
ユストは紙へ、家番号、確認者、避難済み、残留者、救助要請、避難先の欄を作った。
「戻った兵の報告を、入口で一か所へ集めてください」
マレクが頷く。
「書記官を二人置け」
ようやく、別々に走っていた情報が一つの机へ集まり始めた。
だが、最初に北へ出た兵たちは、この手順を知らない。
誰かが向かった家。
誰も向かっていない家。
それを確かめる術は、まだなかった。
ユストは住民名を読み上げ、書記官へ写させた。
その途中で、外から声が上がった。
「鐘だ!」
今度こそ、決められた合図だった。
長く三回。
町全体を覆うほどの余韻。
続いて、短く五回。
避難鐘。
家々の戸が開き、人の流れが一斉に南へ向かい始める。
しかし、全員ではなかった。
最初の火事鐘を聞いた者は、中央広場へ向かっていた。
川沿いの住民は、洪水時の避難場所である西倉庫へ集まり始めている。
鉱山で働いていた老人たちは、坑道事故の際に使う東の礼拝所が安全だと考えた。
鐘は避難を告げた。
どこへ行くかまでは告げなかった。
「南門外の牧草地です!」
ユストは書記官たちへ向かって叫んだ。
「各路地へ伝えてください! 西倉庫と礼拝所にも!」
「紙へ書きますか」
「口で伝えてください。行き先だけを、同じ言葉で!」
書記官と手の空いた住民が走り出した。
決められた避難先が町の全員へ届くまで、どれほどかかるかは分からなかった。
◇
南門へ向かう街道では、街道管理人のオルグが斧を振るっていた。
横倒しになった荷車の車軸を切っている。
「馬を外せ!」
周囲の男たちへ怒鳴る。
「荷は端へ置け! 持ち主の名を書け! 後で返す!」
「後で残ってる保証があるのか!」
荷車の持ち主が叫んだ。
「これがなければ、俺たちは食えない!」
「ここで止まれば、食う明日もなくなる!」
オルグが斧を振り下ろす。
車軸が割れた。
男は荷台の布包みにしがみついていたが、妻がその腕を引いた。
「行こう」
「でも」
「子どもがいる」
荷は残された。
兵と住民が荷車を道端へ倒し、人一人が通れる隙間を作る。
そこへ避難者が押し寄せた。
「走るな!」
「押すな!」
「病人を先に!」
南側の仮医務所から、セラが患者を乗せた手押し車を押してきた。白い上着は泥と血に汚れている。
「道を開けて!」
患者の一人が激しく咳き込んでいた。
白い霧を吸ったらしい。
セラは片手を胸へ当て、歩きながらヒールの光を流している。
「南門の外へ出たら、牧草地の西側へ!」
「なぜ西だ!」
「霧が低い場所へ流れる! 川側へ下りないで!」
その声が列の後ろまで届いたかは分からない。
前の者は進み、後ろの者はただ前についていった。
◇
北三番路地では、守備隊長ディノスが倒壊家屋の梁を持ち上げていた。
「中に三人!」
隣人が叫ぶ。
「老夫婦と孫だ!」
壁の割れ目から白い霧が漏れ、熱で空気が揺らめいている。
「屋根側を開ける!」
ディノスが斧を受け取った。
「隊長、崩れます!」
「中に子どもがいる!」
「北二番路地の確認がまだです!」
「ここを出してから行け!」
斧が板壁を割る。
内側から、子どもの咳が聞こえた。
ディノスは外套を水で濡らし、顔へ巻く。
「縄を持て。俺が入る」
その頃、家の表側でも別の兵二人が救助を始めていた。
互いが同じ家にいることを、まだ知らない。
北三番路地には人が集まり、北二番路地の奥には誰もいなかった。
◇
川沿いの西倉庫には、数十人の住民が集まっていた。
洪水時の避難場所だった。
高台にあり、厚い石壁を持つ。
火にも水にも強い。
だから地下の異変にも安全だと、人々は考えた。
鉱山管理所のネイラントが、古い坑道図を抱えて駆け込んだ。
「ここから出てください!」
住民たちが振り返る。
「南門へ向かってください! この真下に旧排気路があります!」
「石造りだぞ!」
「火事にも耐えた!」
「火ではありません!」
ネイラントは図面を床へ広げた。
手が震えている。
「閉山前、地下の熱を川側へ逃がすための排気路が通っていました。設備が生きていれば熱が上がってくる。壊れていれば、蒸気がどこへ出るか分かりません」
「安全なのか、危険なのか、どっちだ」
「分かりません!」
普段なら、その答えでは誰も動かなかった。
だが今は、北の空を白い霧が覆い、足元が揺れている。
住民たちは高齢者を支え、子どもを抱き、出口へ向かい始めた。
それでも、奥へ置いた荷を取りに戻る者がいた。
全員が出る前に、床の石の隙間から白い霧が噴き出した。
「走れ!」
ネイラントが叫んだ。
◇
ユストが南門へ着いた時、避難者の列は途切れていなかった。
腕には住民台帳を抱えている。
もう片方の手には、確認報告を書き写した紙束があった。
北一番路地は確認途中。
北二番路地は報告なし。
北三番路地は倒壊二棟、救助中。
中央街道は宿泊者数不明。
川沿いの住民は、西倉庫へ向かった可能性がある。
同じ家について、異なる報告も届いていた。
家番号七。
最初の兵は《全員避難済み》。
次の兵は《家内に応答なし》。
一度目の確認後に家族が戻ったのか。
別の家を取り違えたのか。
どちらが正しいかは分からない。
「ユスト!」
人波の中から、リナの声がした。
少女は女将と一緒ではなかった。
若い守備兵に腕を掴まれている。赤い上着の裾は泥に汚れていた。
「お母さんは?」
ユストが尋ねる。
「宿へ戻った」
「なぜ」
「赤い帽子のおばあさんがいないって」
リナの声が震えた。
「二階から出たのを見たのに、外で見つからないの。お母さん、宿の裏へ回ったのかもしれないって」
宿帳がない。
顔を数えた時には、他の宿の客や近隣住民が混じっていた。
リナは老女が外へ出たところまでは見た。
だが、その後を誰も確認していない。
「一緒に戻ろうとしたのですか」
「お母さんに行くなって言われた」
リナの目に涙が浮かぶ。
「すぐ戻るから、南門で待ってろって」
守備兵が言った。
「この子は患者の列へ連れていきます」
「誰へ渡しますか」
「セラ医務官です」
「本人へ直接渡してください」
「承知しました」
「渡した後、私へ報告を」
兵は一瞬戸惑った。
人が多すぎる。
ここには正式な記録係すら置かれていない。
「私を見つけられなければ、町長府の書記官へ」
「分かりました」
ユストはリナの前へ膝をついた。
「セラのところへ行ってください」
「お母さんを探して」
「守備隊へ伝えます」
「ユストも探してくれる?」
約束はできなかった。
町へ入ることさえ、今は許されないかもしれない。
それでも、リナの目を見たまま曖昧な言葉を返すことはできなかった。
「居場所を確かめます」
「絶対?」
ユストは一瞬だけ言葉を止めた。
「見つけるまで、確認をやめません」
リナは唇を噛み、頷いた。
守備兵が少女の手を引く。
リナは何度も町の方を振り返った。
ユストは紙へ名前を書こうとした。
その時、南門の内側から悲鳴が上がった。
街道の石畳が大きく沈み込む。
地面に亀裂が走り、列の途中にいた荷車が傾いた。
「離れろ!」
オルグが叫んだ。
馬が暴れ、横倒しになる。
守備兵はリナを抱き寄せ、人波の外へ下がった。
ユストも紙を閉じ、倒れた荷車へ駆ける。
荷台の下に、子どもの脚が見えた。
◇
救助にかかったのは、わずかな時間だった。
オルグ、守備兵、荷車の持ち主、近くにいた住民が力を合わせ、荷台を持ち上げる。
子どもは母親に引き出された。
脚に傷はあったが、骨は折れていない。
セラのもとへ運ばれる。
ユストが立ち上がった時、リナを連れていた兵の姿は見えなかった。
少女もいない。
患者の列は、すでに南門の外へ進んでいる。
兵はセラへ渡したのだろう。
そう考えた。
そうであってほしかった。
ユストは紙へ書いた。
《リナ。跳ね鹿亭の娘。赤い上着》
《守備兵一名へ引き渡し》
兵の名前を聞いていなかった。
書く手が止まる。
《南門外、医務官セラのもとへ移送予定》
確認済みとは書けない。
最後に、《予定》の二文字を加えた。
北側から、さらに大きな音が響いた。
地面が波打つ。
南門の石壁へ亀裂が走り、上部から石が落ちる。
人々が悲鳴を上げ、門の外へ走った。
町の北半分を覆っていた白い霧が、一斉に高く持ち上がる。
その奥で、家々の屋根が沈んでいった。
一軒。
二軒。
街道に沿って、次々に。
炎は見えない。
地下から噴き上がった高温の蒸気が、木と石の隙間を押し広げ、建物の土台を崩していた。
鐘が鳴り続ける。
もはや合図ではない。
鐘楼そのものが揺れ、誰も縄を引いていない鐘が、意味のない金属音を響かせている。
人々はもう、鐘の数を数えていなかった。
◇
南門外の牧草地では、セラが患者を並べ直していた。
医務所から運び出した七人。
白い霧を吸った住民。
倒壊家屋から救助された負傷者。
南門で荷車に挟まれた子ども。
人数は増え続けている。
持ち出せた薬と水には限りがあった。
「名前を言える人は、名前を!」
セラが助手へ命じる。
「話せない人は、見つけた場所と連れてきた人を記録して!」
「紙が足りません!」
「木札を使って! 患者の腕へ結ぶ!」
ヒールの光が何度も灯った。
裂けた皮膚を閉じ、火傷を和らげ、呼吸を助ける。
それでも、白い霧を深く吸い込んだ者の中には、光を流しても目を開けない者がいた。
「次!」
セラは倒れた男から手を離した。
「この人は?」
「北の宿から!」
「名前は?」
「分からない!」
「連れてきた人は?」
「別の救助へ戻った!」
誰が誰を運んだのか。
どこで家族と離れたのか。
何人が同じ人物を探しているのか。
ここでも、答えはばらばらだった。
「リナという子が来ませんでしたか」
ユストが人の間を抜けてきた。
「跳ね鹿亭の娘です。赤い上着で、若い守備兵が連れてきたはずです」
セラは周囲を見回した。
「子どもは向こうへ集めてる」
牧草地の端に、十人ほどの子どもがいた。
泣いている者。毛布にくるまっている者。両親の名を呼び続ける者。
ユストは一人ずつ顔を確かめた。
リナはいない。
「南側の宿は?」
「歩ける負傷者を置いてる。そちらかもしれない」
「守備兵から引き渡しの報告は」
「受けてない」
セラは次の患者へ手を伸ばした。
「今は治療を止められない」
「分かっています」
責めることはできなかった。
目の前に、呼吸を失いかけている者がいる。
ユストは紙を開いた。
《リナ。南門外、医務官セラのもとへ移送予定》
予定。
到着の確認はない。
「跳ね鹿亭の女将は?」
助手へ尋ねる。
「知りません」
「北の宿から来た者に聞いてください」
「名前を確認できていない人が多すぎます!」
ユストは町の方を見た。
南門の向こうは、白い霧と土煙に覆われている。
リナは別の列にいるかもしれない。
南側の宿へ移されたかもしれない。
母親と合流しているかもしれない。
どれも、願いでしかなかった。
◇
夜明け前、英雄を探しに出た使者の一人が戻った。
馬は汗に濡れ、口元に白い泡を浮かべている。
使者も片腕から血を流していた。
南門外の牧草地へ着くと、馬から転げるように降りた。
「英雄は」
マレクが駆け寄る。
「《白銀の剣》は……西山地へ向かっています」
使者は息を整えながら答えた。
「西の三つの村で崖崩れが起きた。川が塞がり、決壊すれば谷の村が沈む。あちらの領主が先に救援を求めていた」
「こちらの報告は渡したのか」
「エルダ橋で英雄一行の伝令に渡しました」
「返答は」
「今いる場所を離れれば、西の村が水に沈むと」
誰も、英雄を責めなかった。
別の場所でも、人が死にかけている。
英雄は一人しかいない。
「もう一人の使者は」
「西へ追いました。返事を持ち帰ると」
マレクは、白い霧に沈む町を振り返った。
英雄は来ない。
少なくとも、今夜は。
その言葉が避難者の間へ静かに広がった。
泣き出す者も、怒鳴る者もいなかった。人々はただ、白い霧に沈む町を見ていた。
助けが来ないと知った時には、すでに自分たちで動く以外の道はなかった。
そして彼らは、ずっと動いていた。
ディノスは家を壊して人を救った。
セラは休まず負傷者を治療した。
オルグは商人の荷車を切り崩し、道を開けた。
ネイラントは危険な倉庫から住民を追い出した。
マレクは避難鐘を鳴らした。
書記官たちは台帳を持ち出し、戻った兵の報告を書き留めた。
誰も逃げなかった。
誰も、自分の役目だけに閉じこもってはいなかった。
それでも、救助は一つにつながらなかった。
同じ家へ二組が向かい、別の路地には誰も行かなかった。
救助された者が、家族を探して町へ戻った。
避難した人間を探すため、別の者が崩れた家へ入った。
人から人へ渡された子どもの名前が、途中で消えた。
◇
空が白み始めた頃、北側からの蒸気は少しずつ弱まった。
地面の揺れも止まった。
薄明かりの中へ、町の輪郭が浮かび上がる。
北側の家並みは、ほとんど残っていなかった。
倒れた屋根。折れた柱。街道を横切る亀裂。蒸気に濡れ、黒く変色した石壁。
鐘楼は半分崩れながらも立っていた。
鐘はもう鳴っていない。
南門の外では、人々が家族の名を呼び続けていた。
ユストは住民台帳と確認表を地面へ並べる。
名前の横へ、避難確認、負傷、所在不明、死亡確認、情報重複、確認者不明の印を付けていく。
紙の上には、空欄が多すぎた。
「リナ!」
ユストは避難者の間を歩きながら叫んだ。
「跳ね鹿亭のリナを見た人はいませんか! 赤い上着の女の子です!」
一人の守備兵が顔を上げた。
南門で、リナを預けた兵だった。
「その子なら、患者の列へ連れていきました」
「誰へ渡しました」
「途中で荷車が倒れて……」
兵は額へ手を当てた。
「道の端で待たせた。別の兵が子どもをまとめていたから、そいつに頼んだ」
「名前は」
「分からない」
「その兵の顔は」
「兜をかぶってた。若かった」
「その後、リナを見ましたか」
「見ていない」
ユストの指が紙の上で止まった。
「赤い服の子なら、町へ戻るのを見た」
近くに座っていた老人が言った。
「いつですか」
「大きく揺れる前だ。母親を探すと言ってた」
「止めなかったのですか」
「呼んだ。腕も伸ばした。だが、人に押されて……」
リナは赤い上着を着ていた。
女将は、いなくなった宿泊客を探すため町へ戻った。
リナは守備兵へ預けられた。
守備兵は別の救助へ回り、名も知らない誰かへ少女を託した。
その誰かがどこへ連れていったのか。
リナがどこから町へ戻ったのか。
誰も知らない。
ユストは、紙に書いた《予定》の文字を見つめた。
その二文字の向こう側に、少女がいる。
そう思っていた。
だが、予定は事実ではない。
託したことは、届いたことではない。
ユストは台帳を閉じ、北へ向かおうとした。
守備兵が前へ立つ。
「まだ入れない。地面が安定していない」
「子どもが戻っています」
「救助隊が捜してる」
「どの区画を」
「北側から順に」
「跳ね鹿亭は」
兵は答えられなかった。
救助隊が何組出ているのか。
どこを確認したのか。
同じ場所へ何組向かったのか。
その一覧は、まだ完成していない。
「私が行きます」
「記録官が入って、何ができる」
昨夜も言われた言葉だった。
ユストは瓦礫に沈んだ町を見た。
救助の技術はない。
ヒールも使えない。
崩れた梁を持ち上げる力もない。
それでも、紙の前に立ったまま、誰かの報告を待つことはできなかった。
「名前を知っています」
ユストは答えた。
「探す人の名前を知っています」
守備兵は何も言わなかった。
やがて、予備の濡れ布を差し出す。
「一人では行くな」
「はい」
「道の中央を歩け。白い霧へ入るな。地面が鳴ったら戻れ」
ユストは布を顔へ巻いた。
救助隊の一組へ加わり、まだ明けきらない空の下、南門をくぐる。
英雄は来なかった。
それでも、レフナの者たちは自分たちで人を救おうとしていた。
足りなかったのは、勇気ではない。
力でもない。
誰が誰を救い、誰へ託し、誰がまだ町に残っているのか。
そのすべてを、一つにつなぐものだった。
ユストは瓦礫の向こうへ声を張った。
「リナ!」
返事はなかった。
それでも彼は、もう一度名前を呼んだ。
この夜に失われた名前の数を、彼はまだ知らなかった。




