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第4話《英雄が来なかった夜》

 その夜、跳ね鹿亭の地下で、岩が砕けた。


 陶器でも、酒瓶でもない。


 厚い石壁の向こう側で、山そのものが身じろぎしたような音だった。


 食堂の隅で記録を整理していたユスト=カレルは、筆を止めた。


 昼間から聞こえていた石材の擦れる音とは違う。


 近い。


 椅子の脚を伝い、足の裏まで震えが上がってきた。


 壁に掛けられた皿が鳴り、卓上の水差しには細かな波が立った。水が縁からこぼれ、厨房では女将が鍋を押さえる音がする。


「またかい!」


 叫び声に重なるように、床が突き上がった。


 ユストは椅子から投げ出された。肩から石床へ落ち、肺の空気を押し出される。


 灯りを載せた卓が傾き、油皿が滑った。


 床へ落ちる直前、女将が濡れ布を投げつける。火が布の下で潰れ、食堂が闇に沈んだ。


「火を消せ!」


 女将の声が飛ぶ。


「厨房もだ! リナ、客を起こしな!」


 二階で扉が次々に開いた。


 旅人たちの怒鳴り声と、裸足で床を踏む音が重なる。


 ユストは壁へ手をつき、どうにか立ち上がった。


「一度に階段へ来ないでください! 靴だけ履いて、荷物は置いて外へ!」


「避難なのか!」


 暗闇の中から男の声が返った。


「この建物からは出てください!」


「町から出るのかと聞いてる!」


 ユストは答えられなかった。


 町全体への避難命令は、まだ出ていない。


 だが、この宿の地下では明らかな異常が起きている。


「まず外へ! 街道の中央には立たないでください!」


 自分が決められる範囲だけを告げる。


 女将が厨房の火を消し、裏口を開けた。


 春先の冷たい夜気は入ってこなかった。代わりに、地下で温められたようなぬるい風と、濡れた鉄に似た匂いが食堂へ流れ込む。


「お母さん!」


 階段の途中でリナが叫んだ。


「地下の扉から、白いのが出てる!」


 女将とユストは同時に振り返った。


 厨房の奥。食料庫へ下りる階段の隙間から、淡い霧が流れ出している。


 湯気に似ていた。


 だが、火を焚いていない地下から出るものではない。


 霧は石床を這い、厨房へ広がっていく。


 女将が一歩近づいたため、ユストはその腕を掴んだ。


「触れないでください」


「冬越しの食料がある」


「捨ててください」


「簡単に言うんじゃないよ」


 女将はそう言ったが、それ以上は進まなかった。


 霧が近くの木箱へ触れる。


 表面が濡れたように黒ずみ、次の瞬間には白い煙を立てて乾いた。


 女将の顔から迷いが消えた。


「外へ!」


 宿中へ響く声で叫ぶ。


「全員、外へ出な!」


 ユストは厨房脇の木卓を倒し、地下扉の前へ押し込んだ。女将も肩を並べて力を加える。


 扉の隙間から漏れた霧が卓の脚へまとわりつき、乾いた木の表面に細い亀裂が走った。


 二階から、リナが最後の旅人を押すように下ろしてくる。


「七人!」


 少女が叫んだ。


「二階は七人。角部屋のおばあさんも出た!」


「本当に?」


「杖を持ってた。赤い帽子の人!」


 リナは宿泊客の顔をよく覚えていた。


 誰が何泊目で、朝に何を食べ、どの部屋で咳をしていたかまで知っている。


 女将が外へ出た客の顔を数え始めた。


 だが、暗い街道には、近隣の家や別の宿から出てきた者たちも集まりつつある。跳ね鹿亭の客と住民が入り混じり、誰を数えたのかさえ分からなくなっていく。


「宿帳を」


 ユストが言った。


「受付の下だよ」


 女将が振り返る。


「私が取ります」


「あんたは客の顔を知らないだろ」


「では、私が入口を見ます。女将は――」


 その時、町の北側から轟音が響いた。


 空気そのものを押し潰すような音だった。


 少し遅れて、北の家並みの向こうから、巨大な白い柱が立ち上がる。


 煙ではない。


 月明かりを呑み込むほどの蒸気だった。


 地面が短く突き上げる。


 街道につながれていた馬が嘶き、荷車を引いたまま暴れ始めた。


「綱を切れ!」


「荷が倒れるぞ!」


「子どもを端へ!」


 指示がいくつも飛ぶ。


 人々は、どの声に従えばよいのか分からず、互いの顔を見た。


 その時、鐘が鳴った。


 短く、激しく三度。


 火事の合図だった。


「北で火事だ!」


 誰かが叫ぶ。


「桶を持て!」


「井戸は使うなと言われてる!」


「南井戸ならいいだろ!」


 火事なら、皆が手順を知っている。


 家から人を出す。


 水を運ぶ。


 延焼を防ぐ。


 だが、北の空に炎は見えなかった。


 白い霧だけが家並みの間を流れてくる。


「火事ではありません!」


 ユストは叫んだ。


「地下からの噴出です! 霧へ近づかないでください!」


「じゃあ、あの鐘は何だ!」


「誰が鳴らした!」


 誰にも分からなかった。


 避難鐘の合図は、長く三回、その後に短く五回。


 まだ鳴っていない。


 女将がリナの手を握った。


「南へ行くよ」


「宿帳は?」


 リナが尋ねる。


「今は置いていく」


 女将は宿を振り返った。


 窓。看板。厨房の煙突。


 長年守ってきたものを、一つずつ目に焼き付けるような視線だった。


 それでも、中へは戻らなかった。


「ユストは?」


 リナが聞いた。


「町長府へ行きます」


「英雄は?」


 少女は、白い霧の立ち上る北の空を見た。


「まだ来ていません」


「来るんだよね」


 ユストは答えられなかった。


 代わりに、リナの赤い上着の襟を正した。


「お母さんから離れないでください」


「うん」


「名前を呼ばれたら返事を」


「子どもじゃないよ」


「今夜は、大人もそうしてください」


 リナは少しだけ笑った。


 女将が少女の手を引き、南へ歩き始める。


 ユストは二人の姿が人混みに消えるまで見届けた。


 それから、町長府へ走った。


     ◇


 中央街道は、すでに荷車で詰まっていた。


 英雄が来るという噂を信じ、一度宿へ戻された商人たちの荷車だった。


 出発しようとする者、家族を迎えに戻ろうとする者、何が起きたのか確かめるため北へ向かおうとする者。そのすべてが街道の中央でぶつかり、動けなくなっている。


「南へ進め!」


 守備兵が声を張り上げる。


「荷車は端へ寄せろ!」


「進めと言ったり寄せろと言ったり、どっちだ!」


「徒歩の者を先に通せ!」


「荷を置いていけるか!」


 誰も逃げることを拒んでいるわけではない。


 荷車を捨てれば、明日から生きられない者もいる。家族の居場所が分からないまま、町を出られない者もいる。


 全員が正しい理由を抱え、そのために同じ道を塞いでいた。


 ユストは荷車の間をすり抜ける。


 街道脇の石畳には、昨日より大きな亀裂が走っていた。腕一本ほどの幅があり、底から白い霧が細く噴き出している。


 近くにいた男が覗き込もうとした。


「離れてください!」


 ユストが腕を引いた直後、霧が勢いよく吹き上がった。


 男の外套の裾が濡れ、黒く変色する。


「熱っ!」


 男は外套を脱ぎ捨てた。


 皮膚には触れていない。


「地割れへ近づかないでください! 濡れた石や金属にも触れないように!」


 叫びながら、ユストは手帳へ手を伸ばした。


 だが、足を止めれば後ろから押し倒される。


 確認した内容を頭の中で繰り返す。


 中央街道。亀裂拡大。高温蒸気。衣服損傷一名。負傷なし。


 誰かへ渡すまで、忘れてはならない。


     ◇


 町長府の扉は開け放たれていた。


 住民、守備兵、書記官が絶え間なく出入りしている。


 会議室の壁には、前夜から集められた報告書が貼られていた。その上へ、新しい紙が次々に重ねられていく。


 北鉱山口、第二崩落。見張り所との連絡途絶。


 北井戸、水面上昇。蒸気発生。


 地下倉庫、北壁崩落。


 街道、複数箇所に亀裂。


 医務所、患者移送開始。


 英雄への使者、未帰還。


 町長代理マレクは、机の上へ広げた地図を見下ろしていた。上着は着ているが、襟元は乱れている。


「避難鐘を鳴らしてください」


 ユストは部屋へ入るなり言った。


 マレクが顔を上げる。


「北側で地下蒸気が噴出しています。跳ね鹿亭の地下にも入りました。中央街道の亀裂も拡大しています」


「報告は受けた」


「なら、すぐに」


「鐘守りへ伝令を出した」


「到着の確認は」


「まだだ」


「誰を出しました」


「夜間担当のベイルだ。兵を一人付けた」


 ユストは扉の方を見た。


 二人の姿はない。


「もう一組、出してください」


「同じ命令を重ねれば混乱する」


「一組目が届かなければ、何も始まりません」


 マレクは言い返そうとした。


 その時、守備兵が駆け込んできた。


「北三番路地、二棟倒壊! 中に人がいます!」


「非番兵を回せ!」


「南門の整理に出ています!」


「鉱山口から戻せ!」


「隊長が北側の避難誘導に使っています!」


 マレクの手が地図の上で止まった。


 どこから人を抜いても、別の場所が空く。


「現場の住民に協力を求めろ。最上位の兵が指揮を取れ」


「承知!」


 兵が走り去る。


 ユストは再び言った。


「避難鐘です」


 マレクは入口にいた別の兵を指した。


「鐘楼へ行け。鐘守りがいなければ、お前が鳴らせ」


「合図は」


「長く三回、短く五回!」


 兵が走り出す。


「避難先は」


 ユストが尋ねた。


「南門外の牧草地だ」


「住民へ知らせていますか」


 マレクは口を閉じた。


 避難先は、今この部屋で決まったばかりだった。


「鐘だけでは場所までは伝わりません」


「各路地へ人を出す」


「誰が、どの路地へ行ったかを残してください」


「今は書いている暇がない」


「残さなければ、同じ路地へ二人行きます。別の路地には、誰も行かなくなる」


 マレクは机を叩いた。


「では、どうしろと言う!」


 部屋が静まった。


 怒鳴った本人が、最も答えを欲しがっていた。


 ユストは地図の脇にあった大判の紙を引き寄せる。


「区画を分けます。向かった者の名前と時刻を書く。戻ったら、確認した家を報告させる」


「家の数が多すぎる」


「住民台帳を使います」


「書庫だ」


「持ち出してください」


 書記官が書庫へ走った。


 直後、奥から棚の倒れる音がした。


     ◇


 住民台帳は六冊あった。


 北一番路地、北二番路地、北三番路地、中央街道、川沿い、南門周辺。


 倒れた棚の下から引き出された冊子は、埃にまみれていた。


「旅人は載っていません」


 書記官が言った。


「旅人は各宿の宿帳です」


「宿へ取りに戻る人間が必要だ」


「守備兵は救助へ出ています」


「患者は医務所。兵は詰所。鉱山の見張りは管理所の日誌です」


 ユストは六冊を見た。


 町の中に誰がいるかを示す一枚の紙は、どこにもなかった。


「今あるものから始めます」


 北一番路地の冊子を開く。


 台帳には家番号、世帯主、家族の名前、年齢、仕事が記されていた。だが、最後に更新されたのは四か月前だった。


「この間に転居した者は」


「います」


「生まれた子どもは」


「月末に更新します」


 正確ではない。


 それでも、何もないよりはよい。


 ユストは紙へ、家番号、確認者、避難済み、残留者、救助要請、避難先の欄を作った。


「戻った兵の報告を、入口で一か所へ集めてください」


 マレクが頷く。


「書記官を二人置け」


 ようやく、別々に走っていた情報が一つの机へ集まり始めた。


 だが、最初に北へ出た兵たちは、この手順を知らない。


 誰かが向かった家。


 誰も向かっていない家。


 それを確かめる術は、まだなかった。


 ユストは住民名を読み上げ、書記官へ写させた。


 その途中で、外から声が上がった。


「鐘だ!」


 今度こそ、決められた合図だった。


 長く三回。


 町全体を覆うほどの余韻。


 続いて、短く五回。


 避難鐘。


 家々の戸が開き、人の流れが一斉に南へ向かい始める。


 しかし、全員ではなかった。


 最初の火事鐘を聞いた者は、中央広場へ向かっていた。


 川沿いの住民は、洪水時の避難場所である西倉庫へ集まり始めている。


 鉱山で働いていた老人たちは、坑道事故の際に使う東の礼拝所が安全だと考えた。


 鐘は避難を告げた。


 どこへ行くかまでは告げなかった。


「南門外の牧草地です!」


 ユストは書記官たちへ向かって叫んだ。


「各路地へ伝えてください! 西倉庫と礼拝所にも!」


「紙へ書きますか」


「口で伝えてください。行き先だけを、同じ言葉で!」


 書記官と手の空いた住民が走り出した。


 決められた避難先が町の全員へ届くまで、どれほどかかるかは分からなかった。


     ◇


 南門へ向かう街道では、街道管理人のオルグが斧を振るっていた。


 横倒しになった荷車の車軸を切っている。


「馬を外せ!」


 周囲の男たちへ怒鳴る。


「荷は端へ置け! 持ち主の名を書け! 後で返す!」


「後で残ってる保証があるのか!」


 荷車の持ち主が叫んだ。


「これがなければ、俺たちは食えない!」


「ここで止まれば、食う明日もなくなる!」


 オルグが斧を振り下ろす。


 車軸が割れた。


 男は荷台の布包みにしがみついていたが、妻がその腕を引いた。


「行こう」


「でも」


「子どもがいる」


 荷は残された。


 兵と住民が荷車を道端へ倒し、人一人が通れる隙間を作る。


 そこへ避難者が押し寄せた。


「走るな!」


「押すな!」


「病人を先に!」


 南側の仮医務所から、セラが患者を乗せた手押し車を押してきた。白い上着は泥と血に汚れている。


「道を開けて!」


 患者の一人が激しく咳き込んでいた。


 白い霧を吸ったらしい。


 セラは片手を胸へ当て、歩きながらヒールの光を流している。


「南門の外へ出たら、牧草地の西側へ!」


「なぜ西だ!」


「霧が低い場所へ流れる! 川側へ下りないで!」


 その声が列の後ろまで届いたかは分からない。


 前の者は進み、後ろの者はただ前についていった。


     ◇


 北三番路地では、守備隊長ディノスが倒壊家屋の梁を持ち上げていた。


「中に三人!」


 隣人が叫ぶ。


「老夫婦と孫だ!」


 壁の割れ目から白い霧が漏れ、熱で空気が揺らめいている。


「屋根側を開ける!」


 ディノスが斧を受け取った。


「隊長、崩れます!」


「中に子どもがいる!」


「北二番路地の確認がまだです!」


「ここを出してから行け!」


 斧が板壁を割る。


 内側から、子どもの咳が聞こえた。


 ディノスは外套を水で濡らし、顔へ巻く。


「縄を持て。俺が入る」


 その頃、家の表側でも別の兵二人が救助を始めていた。


 互いが同じ家にいることを、まだ知らない。


 北三番路地には人が集まり、北二番路地の奥には誰もいなかった。


     ◇


 川沿いの西倉庫には、数十人の住民が集まっていた。


 洪水時の避難場所だった。


 高台にあり、厚い石壁を持つ。


 火にも水にも強い。


 だから地下の異変にも安全だと、人々は考えた。


 鉱山管理所のネイラントが、古い坑道図を抱えて駆け込んだ。


「ここから出てください!」


 住民たちが振り返る。


「南門へ向かってください! この真下に旧排気路があります!」


「石造りだぞ!」


「火事にも耐えた!」


「火ではありません!」


 ネイラントは図面を床へ広げた。


 手が震えている。


「閉山前、地下の熱を川側へ逃がすための排気路が通っていました。設備が生きていれば熱が上がってくる。壊れていれば、蒸気がどこへ出るか分かりません」


「安全なのか、危険なのか、どっちだ」


「分かりません!」


 普段なら、その答えでは誰も動かなかった。


 だが今は、北の空を白い霧が覆い、足元が揺れている。


 住民たちは高齢者を支え、子どもを抱き、出口へ向かい始めた。


 それでも、奥へ置いた荷を取りに戻る者がいた。


 全員が出る前に、床の石の隙間から白い霧が噴き出した。


「走れ!」


 ネイラントが叫んだ。


     ◇


 ユストが南門へ着いた時、避難者の列は途切れていなかった。


 腕には住民台帳を抱えている。


 もう片方の手には、確認報告を書き写した紙束があった。


 北一番路地は確認途中。


 北二番路地は報告なし。


 北三番路地は倒壊二棟、救助中。


 中央街道は宿泊者数不明。


 川沿いの住民は、西倉庫へ向かった可能性がある。


 同じ家について、異なる報告も届いていた。


 家番号七。


 最初の兵は《全員避難済み》。


 次の兵は《家内に応答なし》。


 一度目の確認後に家族が戻ったのか。


 別の家を取り違えたのか。


 どちらが正しいかは分からない。


「ユスト!」


 人波の中から、リナの声がした。


 少女は女将と一緒ではなかった。


 若い守備兵に腕を掴まれている。赤い上着の裾は泥に汚れていた。


「お母さんは?」


 ユストが尋ねる。


「宿へ戻った」


「なぜ」


「赤い帽子のおばあさんがいないって」


 リナの声が震えた。


「二階から出たのを見たのに、外で見つからないの。お母さん、宿の裏へ回ったのかもしれないって」


 宿帳がない。


 顔を数えた時には、他の宿の客や近隣住民が混じっていた。


 リナは老女が外へ出たところまでは見た。


 だが、その後を誰も確認していない。


「一緒に戻ろうとしたのですか」


「お母さんに行くなって言われた」


 リナの目に涙が浮かぶ。


「すぐ戻るから、南門で待ってろって」


 守備兵が言った。


「この子は患者の列へ連れていきます」


「誰へ渡しますか」


「セラ医務官です」


「本人へ直接渡してください」


「承知しました」


「渡した後、私へ報告を」


 兵は一瞬戸惑った。


 人が多すぎる。


 ここには正式な記録係すら置かれていない。


「私を見つけられなければ、町長府の書記官へ」


「分かりました」


 ユストはリナの前へ膝をついた。


「セラのところへ行ってください」


「お母さんを探して」


「守備隊へ伝えます」


「ユストも探してくれる?」


 約束はできなかった。


 町へ入ることさえ、今は許されないかもしれない。


 それでも、リナの目を見たまま曖昧な言葉を返すことはできなかった。


「居場所を確かめます」


「絶対?」


 ユストは一瞬だけ言葉を止めた。


「見つけるまで、確認をやめません」


 リナは唇を噛み、頷いた。


 守備兵が少女の手を引く。


 リナは何度も町の方を振り返った。


 ユストは紙へ名前を書こうとした。


 その時、南門の内側から悲鳴が上がった。


 街道の石畳が大きく沈み込む。


 地面に亀裂が走り、列の途中にいた荷車が傾いた。


「離れろ!」


 オルグが叫んだ。


 馬が暴れ、横倒しになる。


 守備兵はリナを抱き寄せ、人波の外へ下がった。


 ユストも紙を閉じ、倒れた荷車へ駆ける。


 荷台の下に、子どもの脚が見えた。


     ◇


 救助にかかったのは、わずかな時間だった。


 オルグ、守備兵、荷車の持ち主、近くにいた住民が力を合わせ、荷台を持ち上げる。


 子どもは母親に引き出された。


 脚に傷はあったが、骨は折れていない。


 セラのもとへ運ばれる。


 ユストが立ち上がった時、リナを連れていた兵の姿は見えなかった。


 少女もいない。


 患者の列は、すでに南門の外へ進んでいる。


 兵はセラへ渡したのだろう。


 そう考えた。


 そうであってほしかった。


 ユストは紙へ書いた。


 《リナ。跳ね鹿亭の娘。赤い上着》


 《守備兵一名へ引き渡し》


 兵の名前を聞いていなかった。


 書く手が止まる。


 《南門外、医務官セラのもとへ移送予定》


 確認済みとは書けない。


 最後に、《予定》の二文字を加えた。


 北側から、さらに大きな音が響いた。


 地面が波打つ。


 南門の石壁へ亀裂が走り、上部から石が落ちる。


 人々が悲鳴を上げ、門の外へ走った。


 町の北半分を覆っていた白い霧が、一斉に高く持ち上がる。


 その奥で、家々の屋根が沈んでいった。


 一軒。


 二軒。


 街道に沿って、次々に。


 炎は見えない。


 地下から噴き上がった高温の蒸気が、木と石の隙間を押し広げ、建物の土台を崩していた。


 鐘が鳴り続ける。


 もはや合図ではない。


 鐘楼そのものが揺れ、誰も縄を引いていない鐘が、意味のない金属音を響かせている。


 人々はもう、鐘の数を数えていなかった。


     ◇


 南門外の牧草地では、セラが患者を並べ直していた。


 医務所から運び出した七人。


 白い霧を吸った住民。


 倒壊家屋から救助された負傷者。


 南門で荷車に挟まれた子ども。


 人数は増え続けている。


 持ち出せた薬と水には限りがあった。


「名前を言える人は、名前を!」


 セラが助手へ命じる。


「話せない人は、見つけた場所と連れてきた人を記録して!」


「紙が足りません!」


「木札を使って! 患者の腕へ結ぶ!」


 ヒールの光が何度も灯った。


 裂けた皮膚を閉じ、火傷を和らげ、呼吸を助ける。


 それでも、白い霧を深く吸い込んだ者の中には、光を流しても目を開けない者がいた。


「次!」


 セラは倒れた男から手を離した。


「この人は?」


「北の宿から!」


「名前は?」


「分からない!」


「連れてきた人は?」


「別の救助へ戻った!」


 誰が誰を運んだのか。


 どこで家族と離れたのか。


 何人が同じ人物を探しているのか。


 ここでも、答えはばらばらだった。


「リナという子が来ませんでしたか」


 ユストが人の間を抜けてきた。


「跳ね鹿亭の娘です。赤い上着で、若い守備兵が連れてきたはずです」


 セラは周囲を見回した。


「子どもは向こうへ集めてる」


 牧草地の端に、十人ほどの子どもがいた。


 泣いている者。毛布にくるまっている者。両親の名を呼び続ける者。


 ユストは一人ずつ顔を確かめた。


 リナはいない。


「南側の宿は?」


「歩ける負傷者を置いてる。そちらかもしれない」


「守備兵から引き渡しの報告は」


「受けてない」


 セラは次の患者へ手を伸ばした。


「今は治療を止められない」


「分かっています」


 責めることはできなかった。


 目の前に、呼吸を失いかけている者がいる。


 ユストは紙を開いた。


 《リナ。南門外、医務官セラのもとへ移送予定》


 予定。


 到着の確認はない。


「跳ね鹿亭の女将は?」


 助手へ尋ねる。


「知りません」


「北の宿から来た者に聞いてください」


「名前を確認できていない人が多すぎます!」


 ユストは町の方を見た。


 南門の向こうは、白い霧と土煙に覆われている。


 リナは別の列にいるかもしれない。


 南側の宿へ移されたかもしれない。


 母親と合流しているかもしれない。


 どれも、願いでしかなかった。


     ◇


 夜明け前、英雄を探しに出た使者の一人が戻った。


 馬は汗に濡れ、口元に白い泡を浮かべている。


 使者も片腕から血を流していた。


 南門外の牧草地へ着くと、馬から転げるように降りた。


「英雄は」


 マレクが駆け寄る。


「《白銀の剣》は……西山地へ向かっています」


 使者は息を整えながら答えた。


「西の三つの村で崖崩れが起きた。川が塞がり、決壊すれば谷の村が沈む。あちらの領主が先に救援を求めていた」


「こちらの報告は渡したのか」


「エルダ橋で英雄一行の伝令に渡しました」


「返答は」


「今いる場所を離れれば、西の村が水に沈むと」


 誰も、英雄を責めなかった。


 別の場所でも、人が死にかけている。


 英雄は一人しかいない。


「もう一人の使者は」


「西へ追いました。返事を持ち帰ると」


 マレクは、白い霧に沈む町を振り返った。


 英雄は来ない。


 少なくとも、今夜は。


 その言葉が避難者の間へ静かに広がった。


 泣き出す者も、怒鳴る者もいなかった。人々はただ、白い霧に沈む町を見ていた。


 助けが来ないと知った時には、すでに自分たちで動く以外の道はなかった。


 そして彼らは、ずっと動いていた。


 ディノスは家を壊して人を救った。


 セラは休まず負傷者を治療した。


 オルグは商人の荷車を切り崩し、道を開けた。


 ネイラントは危険な倉庫から住民を追い出した。


 マレクは避難鐘を鳴らした。


 書記官たちは台帳を持ち出し、戻った兵の報告を書き留めた。


 誰も逃げなかった。


 誰も、自分の役目だけに閉じこもってはいなかった。


 それでも、救助は一つにつながらなかった。


 同じ家へ二組が向かい、別の路地には誰も行かなかった。


 救助された者が、家族を探して町へ戻った。


 避難した人間を探すため、別の者が崩れた家へ入った。


 人から人へ渡された子どもの名前が、途中で消えた。


     ◇


 空が白み始めた頃、北側からの蒸気は少しずつ弱まった。


 地面の揺れも止まった。


 薄明かりの中へ、町の輪郭が浮かび上がる。


 北側の家並みは、ほとんど残っていなかった。


 倒れた屋根。折れた柱。街道を横切る亀裂。蒸気に濡れ、黒く変色した石壁。


 鐘楼は半分崩れながらも立っていた。


 鐘はもう鳴っていない。


 南門の外では、人々が家族の名を呼び続けていた。


 ユストは住民台帳と確認表を地面へ並べる。


 名前の横へ、避難確認、負傷、所在不明、死亡確認、情報重複、確認者不明の印を付けていく。


 紙の上には、空欄が多すぎた。


「リナ!」


 ユストは避難者の間を歩きながら叫んだ。


「跳ね鹿亭のリナを見た人はいませんか! 赤い上着の女の子です!」


 一人の守備兵が顔を上げた。


 南門で、リナを預けた兵だった。


「その子なら、患者の列へ連れていきました」


「誰へ渡しました」


「途中で荷車が倒れて……」


 兵は額へ手を当てた。


「道の端で待たせた。別の兵が子どもをまとめていたから、そいつに頼んだ」


「名前は」


「分からない」


「その兵の顔は」


「兜をかぶってた。若かった」


「その後、リナを見ましたか」


「見ていない」


 ユストの指が紙の上で止まった。


「赤い服の子なら、町へ戻るのを見た」


 近くに座っていた老人が言った。


「いつですか」


「大きく揺れる前だ。母親を探すと言ってた」


「止めなかったのですか」


「呼んだ。腕も伸ばした。だが、人に押されて……」


 リナは赤い上着を着ていた。


 女将は、いなくなった宿泊客を探すため町へ戻った。


 リナは守備兵へ預けられた。


 守備兵は別の救助へ回り、名も知らない誰かへ少女を託した。


 その誰かがどこへ連れていったのか。


 リナがどこから町へ戻ったのか。


 誰も知らない。


 ユストは、紙に書いた《予定》の文字を見つめた。


 その二文字の向こう側に、少女がいる。


 そう思っていた。


 だが、予定は事実ではない。


 託したことは、届いたことではない。


 ユストは台帳を閉じ、北へ向かおうとした。


 守備兵が前へ立つ。


「まだ入れない。地面が安定していない」


「子どもが戻っています」


「救助隊が捜してる」


「どの区画を」


「北側から順に」


「跳ね鹿亭は」


 兵は答えられなかった。


 救助隊が何組出ているのか。


 どこを確認したのか。


 同じ場所へ何組向かったのか。


 その一覧は、まだ完成していない。


「私が行きます」


「記録官が入って、何ができる」


 昨夜も言われた言葉だった。


 ユストは瓦礫に沈んだ町を見た。


 救助の技術はない。


 ヒールも使えない。


 崩れた梁を持ち上げる力もない。


 それでも、紙の前に立ったまま、誰かの報告を待つことはできなかった。


「名前を知っています」


 ユストは答えた。


「探す人の名前を知っています」


 守備兵は何も言わなかった。


 やがて、予備の濡れ布を差し出す。


「一人では行くな」


「はい」


「道の中央を歩け。白い霧へ入るな。地面が鳴ったら戻れ」


 ユストは布を顔へ巻いた。


 救助隊の一組へ加わり、まだ明けきらない空の下、南門をくぐる。


 英雄は来なかった。


 それでも、レフナの者たちは自分たちで人を救おうとしていた。


 足りなかったのは、勇気ではない。


 力でもない。


 誰が誰を救い、誰へ託し、誰がまだ町に残っているのか。


 そのすべてを、一つにつなぐものだった。


 ユストは瓦礫の向こうへ声を張った。


「リナ!」


 返事はなかった。


 それでも彼は、もう一度名前を呼んだ。


 この夜に失われた名前の数を、彼はまだ知らなかった。

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