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第3話《鐘を鳴らす者》

 北の鉱山口へ近づくにつれ、夜の空気が温かくなった。


 春先の山風は、本来なら日が落ちるほど冷える。


 だが、斜面を下りてくる風には、乾いた熱が混じっていた。焚き火のそばを通った時のような熱ではない。土の中に長く閉じ込められていた空気が、突然外へ押し出されているような温さだった。


 ユスト=カレルは守備兵の馬へ同乗し、鉱山口へ向かっていた。


 前を走る若い兵の背へ片手を添え、もう一方の手で外套の襟を押さえる。


 街道を外れると、馬の蹄が土と小石を蹴った。


 暗い斜面の上に、いくつもの灯りが見えてくる。


 守備隊のものだった。


「止まれ!」


 声が飛ぶ。


 馬は鉱山口から離れた平地で止められた。


「これより先は地盤が緩い!」


 ユストは馬から降りた。


 北側の斜面が、大きく抉れている。


 崩れたのは鉱山口そのものではなかった。入口の手前にあった古い見張り台と、立入防止の柵。その下の土がまとめて谷側へ滑り落ちている。


 折れた木材と石が斜面へ散らばり、土煙が薄く残っていた。


 その手前で、守備兵たちが倒れた柱を持ち上げている。


「もう少しだ!」


 ディノス隊長の声が響いた。


 灯りの下に、地面へ横たわる兵の姿が見える。


 右脚が見張り台の横木に挟まれていた。


 二人の兵が縄をかけ、三人が太い木棒を差し込んでいる。


「一、二――上げろ!」


 柱がわずかに浮いた。


 別の兵が地面へ這い、挟まれた脚を引き抜く。


「抜けた!」


「下ろせ!」


 柱が地面へ落ち、鈍い音を立てた。


 負傷した兵は担架へ載せられた。意識はある。だが、脚の形が不自然に曲がっていた。


 ユストが近づこうとすると、ディノスが片手を上げた。


「そこから先へ来るな」


「負傷者は一人ですか」


「一人だけだ。巡回中に見張り台が傾いた。もう一人は逃げられた」


「崩落前に振動や音は?」


「本人からはまだ聞いていない」


 ディノスは兵たちへ担架を運ぶよう指示した。


「医務所へ急げ。走るな。斜面を下りてから馬へ載せろ」


 担架が鉱山口から離れていく。


 すれ違う時、負傷した兵が薄く目を開いた。


「隊長……坑道の中で、風が鳴ってます」


 ディノスが足を止める。


「どんな音だ」


「笛みたいな……低い音です。崩れる前から、ずっと」


「熱は」


「分かりません」


 兵は痛みに顔を歪めた。


「運べ」


 ディノスは担架を見送った後、鉱山口へ目を向けた。


 入口は太い鉄格子と石壁で塞がれている。


 百年以上前、鉱山を閉じた時に作られた封鎖だった。


 鉄格子の向こうは暗い。


 煙も炎も見えない。


 だが、隙間から温かい風が吹き出していた。


 風が通るたび、坑道の奥で低い音が響く。


 確かに笛のようだった。


 細く長く続き、やがて地面の奥へ消えていく。


「封鎖が破れたのですか」


 ユストが尋ねる。


「外から見える範囲では、壊れていない」


 ディノスは鉄格子から距離を取ったまま答えた。


「だが、今までここから風が出たことはない」


「記録は?」


「見張り日誌を確認する」


「風の温度も測れますか」


「守備隊に測定器はない」


「鉱山管理所へ知らせましたか」


「伝令を出した」


「町長府へは」


「向かわせた」


「街道管理人と医務官にも?」


 ディノスがユストを見た。


「負傷者は医務所へ送った。オルグを呼ぶ必要はあるのか」


「この地下の異常が街道の亀裂と関係している可能性があります」


「まだ可能性だ」


「はい」


「お前は、その言葉ばかりだな」


「確定していないので」


 ディノスは、もう一度鉱山口へ視線を戻した。


「確定していることもある。見張り台が崩れ、兵が一人負傷した。ここから温かい風が出ている」


「町を避難させるには足りませんか」


 問いかけると、ディノスはすぐには答えなかった。


 守備兵たちは鉱山口の周囲へ縄を張り、崩れた斜面へ近づけないよう木札を立てている。


 誰も立ち尽くしてはいない。


 するべき仕事を見つけ、動いている。


「俺は鉱山口を封鎖できる」


 ディノスが言った。


「住民を近づけないようにもできる。救助もする。魔物が出れば戦う」


「町全体の避難は」


「町長代理の命令が要る」


「緊急時には、守備隊長にも避難を命じる権限があるはずです」


「外敵や魔物の襲撃ならな」


「鉱山の崩落は含まれませんか」


「鉱山災害と決まったのか」


 今度はユストが黙った。


 坑道から温風が吹いている。


 見張り台は崩れた。


 だが、町の地下で何が起きているかは分からない。


 封鎖された坑道の内部を確認できる技師もいない。


「避難準備だけでも始めるべきです」


 ユストは言った。


「住民を起こし、南門外の牧草地へ移る用意をさせる。荷車は道から外し、病人と子どもを先に――」


「誰の命令で」


「町長代理へ求めます」


「なら、先に町長府へ行け」


「隊長からも報告してください」


「する」


「崩落と温風だけではなく、避難を検討すべきだと」


 ディノスはユストを見た。


 灯りの中で、その顔には疲労が浮かんでいた。


「記録官。俺は、危険があると思っている」


「では――」


「だが、思っていることと、町を動かせることは同じじゃない」


 それは、ユスト自身が何度も口にしてきた言葉だった。


     ◇


 鉱山管理所のネイラントが到着したのは、それから四半刻ほど後だった。


 大きな鞄と、会議室で広げた古い図面を抱えている。


 鉱山口から漏れる風を確認すると、顔色を変えた。


「ここは、塞がれているだけの入口ではありません」


「どういう意味ですか」


 ユストが尋ねる。


 ネイラントは図面を地面へ広げようとしたが、風に煽られた。守備兵二人が灯りと石で四隅を押さえる。


「主坑道の入口です。閉山時に、石壁の内側へ排熱用の空間が残されているはずです」


「排熱?」


「地下に溜まった熱や鉱気を、一か所へ集めて外へ逃がすための設備です。閉山後も岩盤が安定するまで使われていたと記録にあります」


「今まで風は出ていなかった」


 ディノスが言う。


「最終的には、内部で封鎖されたはずです」


「その封鎖が壊れた?」


「可能性はあります」


「壊れれば、どうなる」


 ネイラントは図面の線を指でたどった。


「地下の空気が、ここへ流れるようになります」


「町の下から?」


「旧坑道が図面どおりなら」


「図面どおりでない可能性は」


「あります。採掘末期の坑道は、すべて記録されていないとも聞いています」


 ディノスが息を吐いた。


「分からないことばかりだな」


「技師長でなければ、内部の構造は判断できません」


「技師長はいつ戻る」


「昼頃の予定です」


「今は夜だ」


「分かっています」


「中へ入れる者はいないのか」


「資格者がいません。それに、風が出ている坑道へ入るのは危険です。鉱気が混じっている可能性もあります」


 ユストはネイラントを見た。


「排熱設備が動き始めたこと自体は、危険なのですか」


「危険とは限りません」


「安全なのですか」


「それも分かりません」


「どちらの可能性が高い」


「判断できません」


 ネイラントの声が少し震えた。


「私は事務員です。図面を保管し、出入りの記録を付けています。岩盤や排熱設備を診断する教育は受けていません」


 ユストはそれ以上、答えを求められなかった。


 分からない者へ、分かると言わせることはできない。


「今夜、ここでできることは」


「風の向きと変化を記録する。鉱気が混じっていないか、動物か薬品を使って確かめる。入口へ近づかない。振動が増えた場合は、さらに距離を取る」


「町の避難は?」


 ネイラントは図面から顔を上げた。


「私には、決められません」


     ◇


 町長府へ戻る頃には、東の空がわずかに白み始めていた。


 夜明けにはまだ早い。


 それでも、長い夜が終わりへ向かっているように見えた。


 会議室にはマレク、セラ、オルグが揃っていた。


 町長府の書記官は、各所から届いた半刻ごとの報告を壁へ貼り出している。


 北井戸。


 新たな患者なし。


 地下倉庫。


 使用停止後、変化なし。


 街道亀裂。


 幅に目立った変化なし。


 南門。


 異常なし。


 川の水位。


 平常。


 鉱山口。


 見張り台崩落。負傷者一名。温風あり。


 町のほかの場所では、大きな被害は起きていなかった。


「負傷した兵は?」


 ディノスがセラへ尋ねる。


「脚の骨が折れていた。ヒールで傷は閉じたけど、骨を固定して休ませている。命に別状はない」


「坑道の風に触れた影響は」


「今のところ見られない」


 セラは薬品箱から小さな瓶を取り出した。


「坑道の風を布へ含ませて持ち帰ってもらった。簡易試薬では強い毒は出ていない。ただし、すべての鉱気を調べられるわけではない」


「街道は」


「変わらん」


 オルグが答えた。


「亀裂の幅は昨夜から増えていない。荷車も通れる」


「北を閉じる必要は?」


「鉱山口へ続く脇道だけでいい。町を抜ける街道まで閉じれば、荷が南へ集中する」


 マレクは一つずつ報告を聞いた。


 そして、ユストとディノスが持ち帰った鉱山口の状況へ目を通す。


「見張り台の崩落は、斜面の表面だけか」


「外から確認できる範囲では」


 ディノスが答える。


「坑道の封鎖壁は壊れていない」


「温かい風の原因は、排熱設備が開いた可能性」


「可能性です」


 ネイラントが小さく付け加える。


「毒は確認されていない」


「簡易試薬の範囲では」


 セラが訂正した。


「町内の振動は」


「夜半以降、大きなものは報告されていない」


 書記官が答える。


 マレクは椅子へ深く座った。


「町全体の避難は、行わない」


 ユストはすぐに口を開いた。


「まだ安全は確認されていません」


「危険も確認されていない」


「兵が一人負傷しています」


「鉱山口の事故だ。町の住民を全員動かす根拠にはならない」


「地下倉庫と井戸、患者、街道の亀裂もあります」


「それぞれに対応している」


 マレクは壁へ貼られた報告を指した。


「北井戸は止めた。倉庫も閉じた。街道は監視している。鉱山口へ人は近づけない。患者も増えていない」


「それで十分だと?」


「十分とは言っていない。今できる措置を続け、技師長の到着を待つ」


「あと半日あります」


「夜中に町を動かすより、明るくなってから判断する方が安全だ」


「崩落が先に起きたら」


「起きると分かっているのか」


「分かりません」


「では、分からないものを理由に、病人と老人を寒い牧草地へ出せと言うのか」


 ユストは答えられなかった。


 夜明け前の外気は冷たい。


 南門外の牧草地には、屋根も壁もない。


 宿や家の中にいる方が安全な可能性もある。


「避難鐘だけでも鳴らし、準備を促すべきです」


「避難しないのに、避難鐘を?」


「荷をまとめ、子どもと病人をすぐ動かせるようにするためです」


「鐘が鳴れば、旅人は荷車を出す。南門へ殺到する。道が詰まり、盗難も起きる」


「では、戸別に知らせる」


「守備兵を町中へ回せば、鉱山口と門の警備が薄くなる」


 マレクの言葉にも道理があった。


 何かを準備すれば、別の場所から人手が減る。


 住民へ危険を知らせれば、それ自体が混乱を生む。


 危険が確かでないほど、準備による損失は重く見える。


「技師長の到着まで、何も変わらない保証はありません」


 ユストが言う。


「だから監視を続ける」


「報告が届かなかったら」


「半刻ごとの確認を決めた」


「監視している者が先に巻き込まれたら」


 マレクの表情が硬くなる。


「記録官殿。可能性をすべて挙げれば、どんな町も毎日避難しなければならなくなる」


「今回は、すでに複数の異常が起きています」


「だから複数の対策を取っている」


 二人の間で言葉が止まった。


 セラが、机の上に置いていた布袋を閉じた。


「私から一ついい?」


 全員が彼女を見る。


「避難するかどうかは、私には決められない。ただ、医務所の患者を南側の宿へ移す準備はする」


「なぜだ」


 マレクが尋ねる。


「医務所は町の北寄りにある。何か起きてから動かすより、まだ歩ける今のうちに移した方がいい」


「住民に気づかれる」


「患者を別の場所で休ませるだけよ。避難とは言わない」


「それで不安が広がったら」


「病人を移した理由は、私が説明する」


 マレクは考え、頷いた。


「許可する」


 ディノスも言った。


「守備隊の非番を南門近くへ待機させる。鎧は着けさせない。荷車整理の人手として置く」


「住民には?」


「夜間巡回の交代だと説明する」


 オルグが腕を組む。


「俺は南街道の荷車を、道の片側へ寄せる。朝の出発準備ということにする」


 それぞれが、自分の権限の範囲で避難準備に近いことを始めようとしている。


 町全体への命令ではない。


 避難とは呼ばない。


 それでも、何もしていないわけではなかった。


 ユストは一つずつ記録した。


 正しい方向へ動いている。


 そう思いたかった。


「町長代理」


 扉の外から書記官が入ってきた。


「南門の宿組合から、情報が一つ」


「何だ」


「《白銀の剣》の一行が、二日前にエルダ橋を通ったそうです」


 部屋の空気が変わった。


 ユストには、その名に聞き覚えがあった。


 《白銀の剣》は、英雄ラウル=セインを中心とする一行だった。


 大型魔獣の討伐。


 魔力災害の封鎖。


 崩落現場での救助。


 通常の守備兵では近づけない災害へ向かい、何度も町や村を救ったと報告されている。


「エルダ橋なら、ここからどのくらいだ」


 ディノスが尋ねる。


「馬を替えながら急げば、半日ほどです」


 書記官が答える。


「今もいるのか」


「二日前に南へ向かったところまでは」


「行き先は」


「西の山地と聞いています。ただ、正確には分かりません」


 マレクが身を起こした。


「追えるか」


「公用の早馬を出せます」


「出せ。領主府の緊急証を持たせろ」


「町長代理」


 ユストが呼びかける。


「救援を求めることには賛成です。しかし、到着を前提に判断しないでください」


「分かっている」


「一行がどこにいるかも不明です」


「それでも、探さなければ来ない」


「はい」


「鉱山の内部を確認できる者がいない以上、特別な力を持つ者へ頼むのは妥当だろう」


 マレクは書記官へ指示を続けた。


「最も速い馬を使え。使者は二人。エルダ橋で所在を確かめ、見つからなければ西街道を追わせる」


「承知しました」


 書記官が部屋を出ていく。


 ディノスの肩から、わずかに力が抜けた。


「ラウルなら、崩落した坑道へも入れるかもしれない」


 ネイラントが言う。


「地中の魔力を感知できるという話もあります」


「町が危険なら、住民を一度に運び出せる」


 オルグも続ける。


 セラだけが黙っていた。


 マレクは壁の報告を見上げた。


「英雄が来るまで、監視と準備を続ける」


 まだ来るとは決まっていない。


 居場所さえ分かっていない。


 それでも、その名が出ただけで、部屋の中に出口ができたようだった。


「救援要請を出したことは、住民へ知らせますか」


 ユストが尋ねた。


「隠す必要はない」


「《英雄が来る》と伝わる可能性があります」


「来るかもしれないことも知らせず、不安だけ抱えさせるのか」


「要請を出したことと、来ることは違います」


「書記官に正確な文面を作らせる」


 マレクはそう答えた。


 ユストは、それ以上反対できなかった。


 救援要請そのものは正しい。


 知らせることにも意味はある。


 問題は、言葉が町へ広がる間に、どのような形へ変わるかだった。


     ◇


 英雄への救援要請を載せた二頭の馬は、朝日が山の端から出る前に南門を駆け抜けた。


 使者は領主府の緊急証と、ユストがまとめた異常の報告書を携えている。


 《白銀の剣》を見つけ次第、レフナへ来てほしいと伝える。


 町長府が住民へ出した通知には、


 《北鉱山口において小規模な崩落が発生したため、現在、守備隊および鉱山管理所が監視を行っている》


 《町内の井戸、街道および地下施設についても確認を継続する》


 《念のため英雄一行へ救援要請を行った》


 と書かれていた。


 どこにも、英雄が来るとは書かれていない。


 それでも、通知を読んだ宿の客は隣の者へ言った。


「英雄を呼んだらしい」


 それを聞いた商人は、馬具を締めていた手を止めた。


「なら、道はすぐ開くな」


 井戸へ水を汲みに来た女は、家へ戻って夫へ伝えた。


「英雄が来てくれるって」


 子どもたちは、どんな剣を持った英雄なのかを話し始めた。


 昼前には、


 《英雄へ救援要請を出した》


 という事実が、


 《英雄がレフナへ向かっている》


 という話へ変わっていた。


 南門へ荷を運び始めていた旅商人の中にも、宿へ戻る者がいた。


「英雄が来るなら、慌てて出る必要もない」


「今、街道へ出た方が危ないかもしれん」


「荷を置いて逃げたら盗まれる」


 オルグが道の片側へ寄せさせた荷車も、一部は再び宿の前へ戻された。


 病人は南側の宿へ移された。


 守備隊も南門近くへ集まっている。


 準備は進んでいる。


 しかし、町を離れようとしていた者の足だけが、少しずつ止まっていった。


     ◇


 ユストは町の中央にある鐘楼を訪れた。


 石造りの低い塔だった。


 町のどこからでも見えるほど高くはないが、鐘の音は山と川の間によく響く。


 入口には鍵がかかっていた。


 呼び鈴を鳴らすと、隣の小屋から一人の老人が出てきた。


「誰だ」


「中央監査庁のユスト=カレルです。鐘について確認があります」


「また鳴らすのか」


「また?」


「夜中の揺れで一度鳴ったろう」


「自然に?」


「中の舌が動いただけだ。避難鐘じゃない」


 老人は鐘守りだった。


 腰に下げた鍵で塔の扉を開く。


 内部には急な木の階段があり、その中央を太い鐘縄が垂れていた。


「鐘の合図は何種類ありますか」


「時刻の鐘。火事。外敵。避難。人集め」


「避難は」


「長く三回。その後、短く五回」


「誰の命令で鳴らしますか」


「町長か代理。外敵なら守備隊長でもいい」


「鉱山災害の場合は」


 老人は階段へ足をかけながら振り返った。


「知らん」


「今、鉱山口で崩落が起きています」


「聞いてる。英雄が来るんだろ」


「救援要請を出しただけです」


「同じようなもんだ」


「違います」


 老人は鼻を鳴らし、階段を上り始めた。


 ユストも後へ続く。


 鐘楼の上には、町を見渡せる小さな窓があった。


 北には山。


 南には街道。


 東に川。


 宿や家々の煙突から、朝の煙が上がっている。


 町は動いていた。


 鉱山口の崩落は、ここからは見えない。


「避難命令が出た場合、どのくらいで鐘を鳴らせますか」


「ここにいれば、すぐだ」


「夜は?」


「隣で寝てる」


「町長代理から、どのように命令が届きますか」


「書記官か守備兵が来る」


「その者が途中で来られなくなった場合は」


「別の奴が来るだろ」


「誰も来なかった場合は」


 老人は鐘縄を見た。


「命令がないなら、鳴らさん」


「地面が大きく揺れても?」


「勝手に鳴らせば、町を混乱させる」


「鉱山から煙が出ても?」


「見えるところまで出れば、火事の鐘を鳴らす」


「避難鐘ではなく?」


「避難を決めるのは俺じゃない」


 老人は鐘縄へ手を添えた。


「鐘を鳴らすだけの仕事だ」


 責任から逃げている口調ではなかった。


 長い間、決められた合図を、決められた時刻と命令で鳴らしてきた。


 勝手に鐘を鳴らさないことが、鐘守りの正しさだった。


「お役人さん」


 階段の下から声がした。


 リナだった。


 小さな籠を抱えて立っている。


「どうしてここに?」


「おじいちゃんに朝ごはん。お母さんが持ってけって」


 鐘守りは老人のことらしい。


 リナは階段を上り、籠からパンと干し肉を取り出した。


「英雄、来るんだよね」


「まだ決まっていません」


「でも、みんな来るって言ってる」


「救援を頼みに行っただけです」


「断られるの?」


「別の場所にいるかもしれません。見つからないこともあります」


 リナは窓から南街道を見た。


 使者の馬は、もう見えない。


「英雄が来なかったら、誰が鐘を鳴らすの?」


 ユストは鐘守りを見た。


 老人はパンを受け取りながら答える。


「わしだ」


「誰が、おじいちゃんに言うの?」


「町長府の人か、守備隊だ」


「その人が来なかったら?」


「誰か来る」


「誰も来なかったら?」


 老人は困った顔をした。


「そんなこと、子どもが気にするな」


 リナは納得しなかった。


 今度はユストへ向き直る。


「英雄が来ない。鐘を鳴らせって言う人も来ない。その時は、誰が決めるの?」


 ユストは口を開いた。


 町長代理。


 守備隊長。


 鐘守り。


 誰かが決め、誰かが伝え、誰かが鐘を鳴らす。


 その順番は分かる。


 しかし、最初の誰かが決めなかった時の手順はなかった。


「今、決めようとしています」


「昨日もそう言ってた」


「昨日より、準備は進んでいます」


「じゃあ、今日は分かる?」


「何がですか」


「間に合うかどうか」


 答えは出なかった。


 鐘楼の上を、温かい風が通り抜けた。


 北の山から吹いている。


 鐘が、わずかに揺れた。


 中の舌が金属へ触れ、低い音を一つだけ鳴らす。


 ごうん。


 町の人々が顔を上げた。


 荷車を押していた男。


 井戸の水を運ぶ女。


 店の戸を開けていた商人。


 一瞬だけ鐘楼を見る。


 だが、それは避難の合図ではなかった。


 長く三回でもない。


 短く五回でもない。


 ただ、一度鳴っただけだった。


 人々はすぐに仕事へ戻った。


「ほらな」


 鐘守りが言った。


「合図じゃなければ、誰も動かん」


 ユストは町を見下ろした。


 町長府は監視を続けている。


 守備隊も動いている。


 病人は南へ移された。


 街道も整理されている。


 英雄への使者も出た。


 誰も何もしていないわけではない。


 それでも、町全体を動かす合図だけは、まだ鳴らされていなかった。


     ◇


 その日の夕方、英雄からの返答は届かなかった。


 使者も戻らない。


 エルダ橋まで行くだけでも時間はかかる。


 まだ遅いとは言えなかった。


 町長府は、夜間の監視を続けると発表した。


 守備隊は鉱山口に人を増やした。


 オルグは街道の亀裂へ新しい印を付けた。


 セラは南側の宿で患者を診た。


 ネイラントは技師長の帰りを待ちながら、古い図面を調べ続けている。


 ユストは跳ね鹿亭の食堂で、役割を書いた紙を広げた。


 《異常を確認する者》


 名前が入った。


 《報告を集める者》


 名前が入った。


 《病人を移す者》


 名前が入った。


 《道を整理する者》


 名前が入った。


 《英雄を探す者》


 二人の使者の名前を書いた。


 《避難を判断する者》


 町長代理マレク。


 《避難鐘を鳴らす者》


 鐘守り。


 その二つの間へ、一本の線を引く。


 命令を運ぶ者。


 ユストは空欄へ、町長府書記官と守備兵と書いた。


 だが、どの時点で命令を出すのかは書けない。


 判断の条件が決まっていない。


 もし町長代理が判断できない状態になった場合、誰が代わるのかも決まっていない。


 紙の上では、名前が増えた。


 空欄は少なくなった。


 それでも、最も必要なところに白い場所が残っている。


 窓の外で、旅人たちが英雄の話をしていた。


「白銀の剣なら、竜の突進も止めたらしい」


「坑道の岩くらい、剣で割れるだろ」


「明日には全部終わるさ」


 ユストは筆を置いた。


 英雄が来れば、町は救われるかもしれない。


 地中の異常を見つけ、岩盤を支え、住民を一度に運び出せるかもしれない。


 だから救援を求めることは正しい。


 しかし、英雄が来るまで町が待てるかどうかは、誰にも分からない。


 宿の壁の奥から、かすかな音がした。


 鼠ではない。


 硬い石と石が、地中で擦れ合う音だった。


 低く、長く続き、やがて止まる。


 食堂にいた者たちも気づいた。


 何人かが会話を止めた。


「また揺れたか?」


「いや、揺れてない」


「英雄が来れば調べてくれる」


 誰かがそう言った。


 止まっていた会話が再び始まる。


 ユストだけが、手帳を開いた。


 発生時刻。


 宿の北壁付近。


 石材摩擦に似た地下音。


 確認者複数。


 紙へ書き終えても、町は動かなかった。


 レフナは、自分たちの手で判断する代わりに英雄を選んだわけではない。


 監視も準備も続けている。


 ただ、決断をもう少し待てる理由を手に入れた。


 それが希望なのか。


 最後の時間を削るものなのか。


 この時のユストには、まだ分からなかった。


 南へ走った使者たちは、英雄の居場所さえ見つけていなかった。

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