第3話《鐘を鳴らす者》
北の鉱山口へ近づくにつれ、夜の空気が温かくなった。
春先の山風は、本来なら日が落ちるほど冷える。
だが、斜面を下りてくる風には、乾いた熱が混じっていた。焚き火のそばを通った時のような熱ではない。土の中に長く閉じ込められていた空気が、突然外へ押し出されているような温さだった。
ユスト=カレルは守備兵の馬へ同乗し、鉱山口へ向かっていた。
前を走る若い兵の背へ片手を添え、もう一方の手で外套の襟を押さえる。
街道を外れると、馬の蹄が土と小石を蹴った。
暗い斜面の上に、いくつもの灯りが見えてくる。
守備隊のものだった。
「止まれ!」
声が飛ぶ。
馬は鉱山口から離れた平地で止められた。
「これより先は地盤が緩い!」
ユストは馬から降りた。
北側の斜面が、大きく抉れている。
崩れたのは鉱山口そのものではなかった。入口の手前にあった古い見張り台と、立入防止の柵。その下の土がまとめて谷側へ滑り落ちている。
折れた木材と石が斜面へ散らばり、土煙が薄く残っていた。
その手前で、守備兵たちが倒れた柱を持ち上げている。
「もう少しだ!」
ディノス隊長の声が響いた。
灯りの下に、地面へ横たわる兵の姿が見える。
右脚が見張り台の横木に挟まれていた。
二人の兵が縄をかけ、三人が太い木棒を差し込んでいる。
「一、二――上げろ!」
柱がわずかに浮いた。
別の兵が地面へ這い、挟まれた脚を引き抜く。
「抜けた!」
「下ろせ!」
柱が地面へ落ち、鈍い音を立てた。
負傷した兵は担架へ載せられた。意識はある。だが、脚の形が不自然に曲がっていた。
ユストが近づこうとすると、ディノスが片手を上げた。
「そこから先へ来るな」
「負傷者は一人ですか」
「一人だけだ。巡回中に見張り台が傾いた。もう一人は逃げられた」
「崩落前に振動や音は?」
「本人からはまだ聞いていない」
ディノスは兵たちへ担架を運ぶよう指示した。
「医務所へ急げ。走るな。斜面を下りてから馬へ載せろ」
担架が鉱山口から離れていく。
すれ違う時、負傷した兵が薄く目を開いた。
「隊長……坑道の中で、風が鳴ってます」
ディノスが足を止める。
「どんな音だ」
「笛みたいな……低い音です。崩れる前から、ずっと」
「熱は」
「分かりません」
兵は痛みに顔を歪めた。
「運べ」
ディノスは担架を見送った後、鉱山口へ目を向けた。
入口は太い鉄格子と石壁で塞がれている。
百年以上前、鉱山を閉じた時に作られた封鎖だった。
鉄格子の向こうは暗い。
煙も炎も見えない。
だが、隙間から温かい風が吹き出していた。
風が通るたび、坑道の奥で低い音が響く。
確かに笛のようだった。
細く長く続き、やがて地面の奥へ消えていく。
「封鎖が破れたのですか」
ユストが尋ねる。
「外から見える範囲では、壊れていない」
ディノスは鉄格子から距離を取ったまま答えた。
「だが、今までここから風が出たことはない」
「記録は?」
「見張り日誌を確認する」
「風の温度も測れますか」
「守備隊に測定器はない」
「鉱山管理所へ知らせましたか」
「伝令を出した」
「町長府へは」
「向かわせた」
「街道管理人と医務官にも?」
ディノスがユストを見た。
「負傷者は医務所へ送った。オルグを呼ぶ必要はあるのか」
「この地下の異常が街道の亀裂と関係している可能性があります」
「まだ可能性だ」
「はい」
「お前は、その言葉ばかりだな」
「確定していないので」
ディノスは、もう一度鉱山口へ視線を戻した。
「確定していることもある。見張り台が崩れ、兵が一人負傷した。ここから温かい風が出ている」
「町を避難させるには足りませんか」
問いかけると、ディノスはすぐには答えなかった。
守備兵たちは鉱山口の周囲へ縄を張り、崩れた斜面へ近づけないよう木札を立てている。
誰も立ち尽くしてはいない。
するべき仕事を見つけ、動いている。
「俺は鉱山口を封鎖できる」
ディノスが言った。
「住民を近づけないようにもできる。救助もする。魔物が出れば戦う」
「町全体の避難は」
「町長代理の命令が要る」
「緊急時には、守備隊長にも避難を命じる権限があるはずです」
「外敵や魔物の襲撃ならな」
「鉱山の崩落は含まれませんか」
「鉱山災害と決まったのか」
今度はユストが黙った。
坑道から温風が吹いている。
見張り台は崩れた。
だが、町の地下で何が起きているかは分からない。
封鎖された坑道の内部を確認できる技師もいない。
「避難準備だけでも始めるべきです」
ユストは言った。
「住民を起こし、南門外の牧草地へ移る用意をさせる。荷車は道から外し、病人と子どもを先に――」
「誰の命令で」
「町長代理へ求めます」
「なら、先に町長府へ行け」
「隊長からも報告してください」
「する」
「崩落と温風だけではなく、避難を検討すべきだと」
ディノスはユストを見た。
灯りの中で、その顔には疲労が浮かんでいた。
「記録官。俺は、危険があると思っている」
「では――」
「だが、思っていることと、町を動かせることは同じじゃない」
それは、ユスト自身が何度も口にしてきた言葉だった。
◇
鉱山管理所のネイラントが到着したのは、それから四半刻ほど後だった。
大きな鞄と、会議室で広げた古い図面を抱えている。
鉱山口から漏れる風を確認すると、顔色を変えた。
「ここは、塞がれているだけの入口ではありません」
「どういう意味ですか」
ユストが尋ねる。
ネイラントは図面を地面へ広げようとしたが、風に煽られた。守備兵二人が灯りと石で四隅を押さえる。
「主坑道の入口です。閉山時に、石壁の内側へ排熱用の空間が残されているはずです」
「排熱?」
「地下に溜まった熱や鉱気を、一か所へ集めて外へ逃がすための設備です。閉山後も岩盤が安定するまで使われていたと記録にあります」
「今まで風は出ていなかった」
ディノスが言う。
「最終的には、内部で封鎖されたはずです」
「その封鎖が壊れた?」
「可能性はあります」
「壊れれば、どうなる」
ネイラントは図面の線を指でたどった。
「地下の空気が、ここへ流れるようになります」
「町の下から?」
「旧坑道が図面どおりなら」
「図面どおりでない可能性は」
「あります。採掘末期の坑道は、すべて記録されていないとも聞いています」
ディノスが息を吐いた。
「分からないことばかりだな」
「技師長でなければ、内部の構造は判断できません」
「技師長はいつ戻る」
「昼頃の予定です」
「今は夜だ」
「分かっています」
「中へ入れる者はいないのか」
「資格者がいません。それに、風が出ている坑道へ入るのは危険です。鉱気が混じっている可能性もあります」
ユストはネイラントを見た。
「排熱設備が動き始めたこと自体は、危険なのですか」
「危険とは限りません」
「安全なのですか」
「それも分かりません」
「どちらの可能性が高い」
「判断できません」
ネイラントの声が少し震えた。
「私は事務員です。図面を保管し、出入りの記録を付けています。岩盤や排熱設備を診断する教育は受けていません」
ユストはそれ以上、答えを求められなかった。
分からない者へ、分かると言わせることはできない。
「今夜、ここでできることは」
「風の向きと変化を記録する。鉱気が混じっていないか、動物か薬品を使って確かめる。入口へ近づかない。振動が増えた場合は、さらに距離を取る」
「町の避難は?」
ネイラントは図面から顔を上げた。
「私には、決められません」
◇
町長府へ戻る頃には、東の空がわずかに白み始めていた。
夜明けにはまだ早い。
それでも、長い夜が終わりへ向かっているように見えた。
会議室にはマレク、セラ、オルグが揃っていた。
町長府の書記官は、各所から届いた半刻ごとの報告を壁へ貼り出している。
北井戸。
新たな患者なし。
地下倉庫。
使用停止後、変化なし。
街道亀裂。
幅に目立った変化なし。
南門。
異常なし。
川の水位。
平常。
鉱山口。
見張り台崩落。負傷者一名。温風あり。
町のほかの場所では、大きな被害は起きていなかった。
「負傷した兵は?」
ディノスがセラへ尋ねる。
「脚の骨が折れていた。ヒールで傷は閉じたけど、骨を固定して休ませている。命に別状はない」
「坑道の風に触れた影響は」
「今のところ見られない」
セラは薬品箱から小さな瓶を取り出した。
「坑道の風を布へ含ませて持ち帰ってもらった。簡易試薬では強い毒は出ていない。ただし、すべての鉱気を調べられるわけではない」
「街道は」
「変わらん」
オルグが答えた。
「亀裂の幅は昨夜から増えていない。荷車も通れる」
「北を閉じる必要は?」
「鉱山口へ続く脇道だけでいい。町を抜ける街道まで閉じれば、荷が南へ集中する」
マレクは一つずつ報告を聞いた。
そして、ユストとディノスが持ち帰った鉱山口の状況へ目を通す。
「見張り台の崩落は、斜面の表面だけか」
「外から確認できる範囲では」
ディノスが答える。
「坑道の封鎖壁は壊れていない」
「温かい風の原因は、排熱設備が開いた可能性」
「可能性です」
ネイラントが小さく付け加える。
「毒は確認されていない」
「簡易試薬の範囲では」
セラが訂正した。
「町内の振動は」
「夜半以降、大きなものは報告されていない」
書記官が答える。
マレクは椅子へ深く座った。
「町全体の避難は、行わない」
ユストはすぐに口を開いた。
「まだ安全は確認されていません」
「危険も確認されていない」
「兵が一人負傷しています」
「鉱山口の事故だ。町の住民を全員動かす根拠にはならない」
「地下倉庫と井戸、患者、街道の亀裂もあります」
「それぞれに対応している」
マレクは壁へ貼られた報告を指した。
「北井戸は止めた。倉庫も閉じた。街道は監視している。鉱山口へ人は近づけない。患者も増えていない」
「それで十分だと?」
「十分とは言っていない。今できる措置を続け、技師長の到着を待つ」
「あと半日あります」
「夜中に町を動かすより、明るくなってから判断する方が安全だ」
「崩落が先に起きたら」
「起きると分かっているのか」
「分かりません」
「では、分からないものを理由に、病人と老人を寒い牧草地へ出せと言うのか」
ユストは答えられなかった。
夜明け前の外気は冷たい。
南門外の牧草地には、屋根も壁もない。
宿や家の中にいる方が安全な可能性もある。
「避難鐘だけでも鳴らし、準備を促すべきです」
「避難しないのに、避難鐘を?」
「荷をまとめ、子どもと病人をすぐ動かせるようにするためです」
「鐘が鳴れば、旅人は荷車を出す。南門へ殺到する。道が詰まり、盗難も起きる」
「では、戸別に知らせる」
「守備兵を町中へ回せば、鉱山口と門の警備が薄くなる」
マレクの言葉にも道理があった。
何かを準備すれば、別の場所から人手が減る。
住民へ危険を知らせれば、それ自体が混乱を生む。
危険が確かでないほど、準備による損失は重く見える。
「技師長の到着まで、何も変わらない保証はありません」
ユストが言う。
「だから監視を続ける」
「報告が届かなかったら」
「半刻ごとの確認を決めた」
「監視している者が先に巻き込まれたら」
マレクの表情が硬くなる。
「記録官殿。可能性をすべて挙げれば、どんな町も毎日避難しなければならなくなる」
「今回は、すでに複数の異常が起きています」
「だから複数の対策を取っている」
二人の間で言葉が止まった。
セラが、机の上に置いていた布袋を閉じた。
「私から一ついい?」
全員が彼女を見る。
「避難するかどうかは、私には決められない。ただ、医務所の患者を南側の宿へ移す準備はする」
「なぜだ」
マレクが尋ねる。
「医務所は町の北寄りにある。何か起きてから動かすより、まだ歩ける今のうちに移した方がいい」
「住民に気づかれる」
「患者を別の場所で休ませるだけよ。避難とは言わない」
「それで不安が広がったら」
「病人を移した理由は、私が説明する」
マレクは考え、頷いた。
「許可する」
ディノスも言った。
「守備隊の非番を南門近くへ待機させる。鎧は着けさせない。荷車整理の人手として置く」
「住民には?」
「夜間巡回の交代だと説明する」
オルグが腕を組む。
「俺は南街道の荷車を、道の片側へ寄せる。朝の出発準備ということにする」
それぞれが、自分の権限の範囲で避難準備に近いことを始めようとしている。
町全体への命令ではない。
避難とは呼ばない。
それでも、何もしていないわけではなかった。
ユストは一つずつ記録した。
正しい方向へ動いている。
そう思いたかった。
「町長代理」
扉の外から書記官が入ってきた。
「南門の宿組合から、情報が一つ」
「何だ」
「《白銀の剣》の一行が、二日前にエルダ橋を通ったそうです」
部屋の空気が変わった。
ユストには、その名に聞き覚えがあった。
《白銀の剣》は、英雄ラウル=セインを中心とする一行だった。
大型魔獣の討伐。
魔力災害の封鎖。
崩落現場での救助。
通常の守備兵では近づけない災害へ向かい、何度も町や村を救ったと報告されている。
「エルダ橋なら、ここからどのくらいだ」
ディノスが尋ねる。
「馬を替えながら急げば、半日ほどです」
書記官が答える。
「今もいるのか」
「二日前に南へ向かったところまでは」
「行き先は」
「西の山地と聞いています。ただ、正確には分かりません」
マレクが身を起こした。
「追えるか」
「公用の早馬を出せます」
「出せ。領主府の緊急証を持たせろ」
「町長代理」
ユストが呼びかける。
「救援を求めることには賛成です。しかし、到着を前提に判断しないでください」
「分かっている」
「一行がどこにいるかも不明です」
「それでも、探さなければ来ない」
「はい」
「鉱山の内部を確認できる者がいない以上、特別な力を持つ者へ頼むのは妥当だろう」
マレクは書記官へ指示を続けた。
「最も速い馬を使え。使者は二人。エルダ橋で所在を確かめ、見つからなければ西街道を追わせる」
「承知しました」
書記官が部屋を出ていく。
ディノスの肩から、わずかに力が抜けた。
「ラウルなら、崩落した坑道へも入れるかもしれない」
ネイラントが言う。
「地中の魔力を感知できるという話もあります」
「町が危険なら、住民を一度に運び出せる」
オルグも続ける。
セラだけが黙っていた。
マレクは壁の報告を見上げた。
「英雄が来るまで、監視と準備を続ける」
まだ来るとは決まっていない。
居場所さえ分かっていない。
それでも、その名が出ただけで、部屋の中に出口ができたようだった。
「救援要請を出したことは、住民へ知らせますか」
ユストが尋ねた。
「隠す必要はない」
「《英雄が来る》と伝わる可能性があります」
「来るかもしれないことも知らせず、不安だけ抱えさせるのか」
「要請を出したことと、来ることは違います」
「書記官に正確な文面を作らせる」
マレクはそう答えた。
ユストは、それ以上反対できなかった。
救援要請そのものは正しい。
知らせることにも意味はある。
問題は、言葉が町へ広がる間に、どのような形へ変わるかだった。
◇
英雄への救援要請を載せた二頭の馬は、朝日が山の端から出る前に南門を駆け抜けた。
使者は領主府の緊急証と、ユストがまとめた異常の報告書を携えている。
《白銀の剣》を見つけ次第、レフナへ来てほしいと伝える。
町長府が住民へ出した通知には、
《北鉱山口において小規模な崩落が発生したため、現在、守備隊および鉱山管理所が監視を行っている》
《町内の井戸、街道および地下施設についても確認を継続する》
《念のため英雄一行へ救援要請を行った》
と書かれていた。
どこにも、英雄が来るとは書かれていない。
それでも、通知を読んだ宿の客は隣の者へ言った。
「英雄を呼んだらしい」
それを聞いた商人は、馬具を締めていた手を止めた。
「なら、道はすぐ開くな」
井戸へ水を汲みに来た女は、家へ戻って夫へ伝えた。
「英雄が来てくれるって」
子どもたちは、どんな剣を持った英雄なのかを話し始めた。
昼前には、
《英雄へ救援要請を出した》
という事実が、
《英雄がレフナへ向かっている》
という話へ変わっていた。
南門へ荷を運び始めていた旅商人の中にも、宿へ戻る者がいた。
「英雄が来るなら、慌てて出る必要もない」
「今、街道へ出た方が危ないかもしれん」
「荷を置いて逃げたら盗まれる」
オルグが道の片側へ寄せさせた荷車も、一部は再び宿の前へ戻された。
病人は南側の宿へ移された。
守備隊も南門近くへ集まっている。
準備は進んでいる。
しかし、町を離れようとしていた者の足だけが、少しずつ止まっていった。
◇
ユストは町の中央にある鐘楼を訪れた。
石造りの低い塔だった。
町のどこからでも見えるほど高くはないが、鐘の音は山と川の間によく響く。
入口には鍵がかかっていた。
呼び鈴を鳴らすと、隣の小屋から一人の老人が出てきた。
「誰だ」
「中央監査庁のユスト=カレルです。鐘について確認があります」
「また鳴らすのか」
「また?」
「夜中の揺れで一度鳴ったろう」
「自然に?」
「中の舌が動いただけだ。避難鐘じゃない」
老人は鐘守りだった。
腰に下げた鍵で塔の扉を開く。
内部には急な木の階段があり、その中央を太い鐘縄が垂れていた。
「鐘の合図は何種類ありますか」
「時刻の鐘。火事。外敵。避難。人集め」
「避難は」
「長く三回。その後、短く五回」
「誰の命令で鳴らしますか」
「町長か代理。外敵なら守備隊長でもいい」
「鉱山災害の場合は」
老人は階段へ足をかけながら振り返った。
「知らん」
「今、鉱山口で崩落が起きています」
「聞いてる。英雄が来るんだろ」
「救援要請を出しただけです」
「同じようなもんだ」
「違います」
老人は鼻を鳴らし、階段を上り始めた。
ユストも後へ続く。
鐘楼の上には、町を見渡せる小さな窓があった。
北には山。
南には街道。
東に川。
宿や家々の煙突から、朝の煙が上がっている。
町は動いていた。
鉱山口の崩落は、ここからは見えない。
「避難命令が出た場合、どのくらいで鐘を鳴らせますか」
「ここにいれば、すぐだ」
「夜は?」
「隣で寝てる」
「町長代理から、どのように命令が届きますか」
「書記官か守備兵が来る」
「その者が途中で来られなくなった場合は」
「別の奴が来るだろ」
「誰も来なかった場合は」
老人は鐘縄を見た。
「命令がないなら、鳴らさん」
「地面が大きく揺れても?」
「勝手に鳴らせば、町を混乱させる」
「鉱山から煙が出ても?」
「見えるところまで出れば、火事の鐘を鳴らす」
「避難鐘ではなく?」
「避難を決めるのは俺じゃない」
老人は鐘縄へ手を添えた。
「鐘を鳴らすだけの仕事だ」
責任から逃げている口調ではなかった。
長い間、決められた合図を、決められた時刻と命令で鳴らしてきた。
勝手に鐘を鳴らさないことが、鐘守りの正しさだった。
「お役人さん」
階段の下から声がした。
リナだった。
小さな籠を抱えて立っている。
「どうしてここに?」
「おじいちゃんに朝ごはん。お母さんが持ってけって」
鐘守りは老人のことらしい。
リナは階段を上り、籠からパンと干し肉を取り出した。
「英雄、来るんだよね」
「まだ決まっていません」
「でも、みんな来るって言ってる」
「救援を頼みに行っただけです」
「断られるの?」
「別の場所にいるかもしれません。見つからないこともあります」
リナは窓から南街道を見た。
使者の馬は、もう見えない。
「英雄が来なかったら、誰が鐘を鳴らすの?」
ユストは鐘守りを見た。
老人はパンを受け取りながら答える。
「わしだ」
「誰が、おじいちゃんに言うの?」
「町長府の人か、守備隊だ」
「その人が来なかったら?」
「誰か来る」
「誰も来なかったら?」
老人は困った顔をした。
「そんなこと、子どもが気にするな」
リナは納得しなかった。
今度はユストへ向き直る。
「英雄が来ない。鐘を鳴らせって言う人も来ない。その時は、誰が決めるの?」
ユストは口を開いた。
町長代理。
守備隊長。
鐘守り。
誰かが決め、誰かが伝え、誰かが鐘を鳴らす。
その順番は分かる。
しかし、最初の誰かが決めなかった時の手順はなかった。
「今、決めようとしています」
「昨日もそう言ってた」
「昨日より、準備は進んでいます」
「じゃあ、今日は分かる?」
「何がですか」
「間に合うかどうか」
答えは出なかった。
鐘楼の上を、温かい風が通り抜けた。
北の山から吹いている。
鐘が、わずかに揺れた。
中の舌が金属へ触れ、低い音を一つだけ鳴らす。
ごうん。
町の人々が顔を上げた。
荷車を押していた男。
井戸の水を運ぶ女。
店の戸を開けていた商人。
一瞬だけ鐘楼を見る。
だが、それは避難の合図ではなかった。
長く三回でもない。
短く五回でもない。
ただ、一度鳴っただけだった。
人々はすぐに仕事へ戻った。
「ほらな」
鐘守りが言った。
「合図じゃなければ、誰も動かん」
ユストは町を見下ろした。
町長府は監視を続けている。
守備隊も動いている。
病人は南へ移された。
街道も整理されている。
英雄への使者も出た。
誰も何もしていないわけではない。
それでも、町全体を動かす合図だけは、まだ鳴らされていなかった。
◇
その日の夕方、英雄からの返答は届かなかった。
使者も戻らない。
エルダ橋まで行くだけでも時間はかかる。
まだ遅いとは言えなかった。
町長府は、夜間の監視を続けると発表した。
守備隊は鉱山口に人を増やした。
オルグは街道の亀裂へ新しい印を付けた。
セラは南側の宿で患者を診た。
ネイラントは技師長の帰りを待ちながら、古い図面を調べ続けている。
ユストは跳ね鹿亭の食堂で、役割を書いた紙を広げた。
《異常を確認する者》
名前が入った。
《報告を集める者》
名前が入った。
《病人を移す者》
名前が入った。
《道を整理する者》
名前が入った。
《英雄を探す者》
二人の使者の名前を書いた。
《避難を判断する者》
町長代理マレク。
《避難鐘を鳴らす者》
鐘守り。
その二つの間へ、一本の線を引く。
命令を運ぶ者。
ユストは空欄へ、町長府書記官と守備兵と書いた。
だが、どの時点で命令を出すのかは書けない。
判断の条件が決まっていない。
もし町長代理が判断できない状態になった場合、誰が代わるのかも決まっていない。
紙の上では、名前が増えた。
空欄は少なくなった。
それでも、最も必要なところに白い場所が残っている。
窓の外で、旅人たちが英雄の話をしていた。
「白銀の剣なら、竜の突進も止めたらしい」
「坑道の岩くらい、剣で割れるだろ」
「明日には全部終わるさ」
ユストは筆を置いた。
英雄が来れば、町は救われるかもしれない。
地中の異常を見つけ、岩盤を支え、住民を一度に運び出せるかもしれない。
だから救援を求めることは正しい。
しかし、英雄が来るまで町が待てるかどうかは、誰にも分からない。
宿の壁の奥から、かすかな音がした。
鼠ではない。
硬い石と石が、地中で擦れ合う音だった。
低く、長く続き、やがて止まる。
食堂にいた者たちも気づいた。
何人かが会話を止めた。
「また揺れたか?」
「いや、揺れてない」
「英雄が来れば調べてくれる」
誰かがそう言った。
止まっていた会話が再び始まる。
ユストだけが、手帳を開いた。
発生時刻。
宿の北壁付近。
石材摩擦に似た地下音。
確認者複数。
紙へ書き終えても、町は動かなかった。
レフナは、自分たちの手で判断する代わりに英雄を選んだわけではない。
監視も準備も続けている。
ただ、決断をもう少し待てる理由を手に入れた。
それが希望なのか。
最後の時間を削るものなのか。
この時のユストには、まだ分からなかった。
南へ走った使者たちは、英雄の居場所さえ見つけていなかった。




