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第2話《誰の仕事でもない》

 夜の鐘が鳴り終わる前に、ユスト=カレルは町長府の扉を叩いた。


 一度目では返事がなかった。


 二度目も同じだった。


 三度目に拳を上げたところで、扉の向こうから足音が近づいてきた。


「何時だと思っている」


 細く開いた扉の隙間から、寝間着の上に外套を羽織った男が顔を出した。


 ユストは中央監査庁の銀札と、書き上げたばかりの報告書を同時に差し出した。


「記録補助官のユスト=カレルです。町長代理へ、今夜中に確認していただきたいことがあります」


「明日の面会予定は聞いている」


「明日まで待てない可能性があります」


 男は報告書を受け取らなかった。


 代わりに、ユストの肩越しへ視線を向ける。


 町の中央街道は暗かった。


 宿や食堂の窓にはまだ灯りが残っている。だが、先ほどの振動に気づかなかった者も多いのだろう。外へ出て騒いでいる住民はいなかった。


「何が起きた」


「地下振動を確認しました」


「地震か」


「断定できません」


「被害は?」


「今のところ、ありません」


 男の顔に、苛立ちより困惑が浮かんだ。


「それなら、明日でいいだろう」


「井戸水の金属臭、地下倉庫の温度上昇、街道の亀裂、山から逃げた獣、軽症患者七名。先ほど、町中の鼠が消えている可能性も確認しました」


「可能性ばかりだな」


「はい」


 ユストは否定しなかった。


「ですが、別々に処理するには数が多すぎます」


 扉の隙間が少し広がった。


 男は報告書へ目を落とした。


「これをまとめたのは、あんたか」


「はい」


「町長代理は、もう休んでいる」


「起こしてください」


「中央の役人は、地方の人間を何だと思ってる」


「眠っている人です」


 男の眉が動いた。


「起きてもらう必要があります」


 しばらく見つめ合った後、男は扉を開けた。


「中で待て」


     ◇


 レフナの町長府は、町の規模に比べて小さかった。


 一階には受付と書記室。


 二階には会議室と町長の執務室。


 奥には、住民台帳や土地の記録を保管する書庫がある。


 ユストは一階の長椅子へ座らされた。


 報告書は書記官が持っていった。


 壁には、レフナの町章が飾られている。


 川を渡る鹿。


 その背後に山と鉱山槌。


 かつて鉱山で栄えた町であることを示す意匠だった。


 現在、鉱山は閉じている。


 宿場と街道だけが残った。


 ユストは壁の町章を見上げながら、膝の上で手帳を開いた。


 町長代理への報告時刻。


 夜の鐘から四半刻後。


 被害なし。


 緊急面会を要請。


 まだ結果は出ていない。


 書くことがなくなり、筆を置く。


 廊下の奥では、扉が開閉する音が続いていた。


 人が起こされる。


 火が点けられる。


 誰かが状況を説明し、別の誰かを呼びに行く。


 ユストが望んだとおり、町長府は動き始めている。


 それでも、胸の奥にあった焦りは消えなかった。


 動き始めることと、必要な方向へ動くことは同じではない。


「ユスト=カレル殿」


 階段の上から声がした。


「こちらへ」


     ◇


 会議室には、三人の男がいた。


 中央の席にいるのが、町長代理マレク。


 五十歳前後。寝起きにもかかわらず髪を整え、襟元まできちんと留めている。痩せた顔には深い皺があり、机の上にはユストの報告書が開かれていた。


 右側には町長府の書記官。


 左側には、夜間警備を担当する守備兵が一人立っている。


「中央監査庁の記録補助官だそうだな」


 マレクは椅子を勧めずに言った。


「はい」


「今回の派遣目的は、地下倉庫の亀裂の確認と聞いている」


「当初はそうでした」


「今は、町全体に危険があると?」


「その可能性を、総合的に確認する必要があります」


「避難が必要か」


 最初から、最も重い問いが来た。


 ユストは一度息を入れた。


「現時点では、必要とも不要とも断定できません」


 マレクの口元がわずかに硬くなる。


「町を夜中に起こした理由としては、弱いな」


「断定できるまで待てば、避難に使える時間が失われる可能性があります」


「では避難させろと言うのか」


「判断を始めてくださいと言っています」


「判断はしている」


 マレクは報告書を持ち上げた。


「井戸水は濁っているが、重症者はいない。倉庫の壁は温かいが、崩れてはいない。街道の亀裂も荷車が通れる幅だ。振動による被害もない」


「それぞれは、そのとおりです」


「山から獣が逃げたという話に至っては、猟師本人から確認もしていない」


「明朝、確認します」


「鼠がいないという話は、宿屋の子どもの証言だ」


「確認者一名として記録しました」


「子どもの話で町を避難させれば、明日の朝にはレフナ中の笑いものだ」


「笑われることは、人的被害ではありません」


 言った直後、書記官がユストを見た。


 マレクは怒らなかった。


 机の上で両手を組み、しばらく黙ってから答える。


「宿場を空にすることは、被害だ」


 声は静かだった。


「この町は、街道を通る旅人と商人で成り立っている。夜中に避難鐘を鳴らし、宿泊客を外へ追い出せば、明日から荷車はレフナを避ける」


「人命より商売を優先するのですか」


「人命を守るために、町を維持している」


 マレクはユストを見た。


「町を一度空にすれば、翌朝に何もなかったとしても、すぐ元どおりにはならない。宿は客を失う。商人は道を変える。働く場所がなくなれば、人は町を出る。病人や老人は、誰が養う」


 ユストは答えなかった。


 マレクの言葉は正しかった。


 災害は地面が割れることだけではない。


 恐怖や誤報によって、町の生活が壊れることもある。


「だからこそ、避難するかどうかを判断する材料を集める必要があります」


「そのために、今夜できることは?」


「守備隊長、医務官、街道管理人を同じ場所へ集めてください。可能なら、鉱山管理所の者も」


「鉱山技師は隣町だ」


「代理はいないのですか」


「管理所の事務員ならいる。坑道へ入れる者ではない」


「それでも、旧坑道の記録を確認できます」


 マレクは書記官へ視線を移した。


「ディノス隊長は」


「北見張り所から戻る途中です」


「セラ医務官は」


「医務所にいます」


「オルグは自宅でしょう」


 マレクは小さく息を吐いた。


「全員を呼べ。鉱山管理所からも一人出させろ」


 書記官が立ち上がる。


「今夜中にですか」


「中央のお役人殿は、朝まで待てないそうだ」


 皮肉は含まれていた。


 それでも、マレクは人を呼ぶ判断をした。


 ユストは頭を下げた。


「ありがとうございます」


「礼は、何か見つかってからにしてくれ」


     ◇


 全員が揃うまで、一刻近くかかった。


 最初に来たのは医務官のセラだった。


 白い上着の上から厚手の外套を羽織り、薬品箱を持ったまま会議室へ入ってくる。


「患者を残してきたのよ。長引かせないで」


 次に、街道管理人のオルグ。


 寝間着の上へ仕事着を重ね、片方の靴紐を結びながら席へ着いた。


「亀裂なら明日の朝、もう一度測ると言ったはずだ」


 守備隊長ディノスは最後に到着した。


 四十歳前後の大柄な男だった。革鎧の上から夜間用の外套を着て、腰には剣がある。


 町の守備隊は二十四名。


 外敵、魔物、盗賊、火災時の警備を担う。


 ディノスは部屋に入ると、最初に窓と扉を確かめた。習慣なのだろう。


「被害状況は」


「今のところ、ありません」


 ユストが答えると、ディノスは目を細めた。


「では、なぜ全員を呼んだ」


「被害が出る前に役割を確認するためです」


 最後に、鉱山管理所の事務員が来た。


 若い男だった。


 寝癖のついた髪を押さえながら、大きな鍵束と古い図面の筒を抱えている。


「技師長は隣町です。私は坑道の点検資格を持っていません」


「名前は?」


「ネイラントです」


「旧坑道の図面はありますか」


「記録庫から持ってきました。ただ、閉山前のものです」


 全員が長机を囲んだ。


 マレクがユストの報告書を机の中央へ置く。


「記録補助官殿。説明してくれ」


 ユストは跳ね鹿亭から借りてきた町の地図を広げた。


 井戸。


 地下倉庫。


 患者のいた場所。


 街道の亀裂。


 旧鉱山。


 確認した情報を、一つずつ説明する。


 断定はしない。


 関連があるとも言い切らない。


 ただ、同じ時期に北側へ異常が集中していることを示す。


 説明が終わると、最初にセラが口を開いた。


「患者は七人。重症者はいない。腹痛、頭痛、咳。症状に共通性もない」


「井戸水との関係は?」


 マレクが尋ねる。


「分からない。五人が北井戸を使っているけど、この町の半分以上は北井戸を使うわ。患者の割合として多いとは言えない」


「水を止める必要は」


「別の井戸が安全だと確認できない以上、止めれば水不足になる」


「煮沸は?」


「金属臭の原因が鉱物なら、煮ても消えない可能性がある」


 セラは腕を組んだ。


「ただ、今夜は飲み水を南井戸から運ぶよう勧めてもいい。病人が増えるかどうかを見る」


「南井戸まで遠い家もある」


「病人が増えてから運ぶよりは早いわ」


 マレクは書記官へ指示した。


「朝まで北井戸を飲用停止。生活用水には使ってよい。南井戸から水桶を運ぶ者を出す」


「停止の根拠は、どう書きますか」


「安全確認のための一時措置だ」


 最初の役割が決まった。


 井戸については、セラの提案をマレクが承認した。


 ユストは手帳へ記録する。


 次にオルグが地図を引き寄せた。


「亀裂はここだ」


 北西から南東へ、指を滑らせる。


「今すぐ崩れる幅じゃない。ただし、この線どおり地面が動くなら、北街道の石積みまで影響する」


「閉鎖するか」


 ディノスが尋ねる。


「閉じれば、北側から町を出られなくなる」


「危険な道を避難路には使えない」


「危険と決まってない」


「決まってから閉じたのでは遅い」


 オルグがディノスを見る。


「北を閉じるなら、南へ荷車を流す必要がある。今夜の宿泊客だけでも二十台近い。避難になれば、それ以上だ」


「守備隊で整理する」


「街道上の荷車を勝手に動かせるのか」


「緊急時なら」


「今は緊急時なのか」


 ディノスが口を閉じた。


 その判断をするために、全員が集まっている。


「亀裂の両側に見張りを置くことはできますか」


 ユストが尋ねた。


「広がれば通行を止める?」


 オルグが言う。


「はい」


「誰の判断で」


「あなたが幅を確認し、危険と判断した場合です」


「町全体を避難させる判断はできんぞ」


「道を通せるかどうかだけで構いません」


 オルグは少し考えた。


「それなら、できる」


「測定はどのくらいの間隔で?」


「半刻ごと。急に広がったら、その時点で閉じる」


「閉鎖した場合、誰へ知らせますか」


「町長府と守備隊」


「両方へ同時に」


「ああ」


 街道の役割も決まった。


 道を閉じるかは、オルグが判断する。


 閉じた後の交通整理は、守備隊が担う。


 ユストは記録する。


「鉱山については」


 全員の視線が、若い事務員ネイラントへ向いた。


 彼は慌てて図面の筒を開けた。


 古い紙が机の上へ広がる。


 山の中へ伸びる坑道。


 採掘区画。


 換気口。


 排水路。


 何本もの線が、町の北側で枝分かれしていた。


「これは閉山の十年前に作られた図面です」


 ネイラントが説明する。


「閉山時の封鎖箇所は?」


「別紙にあるはずですが、技師長が保管しています」


「管理所にはないのか」


 マレクの問いに、ネイラントは顔を曇らせた。


「最新の封鎖図は、技師長の確認印が必要な書庫です。鍵も技師長が持っています」


 持ってきた鍵束を見せる。


「私の鍵では開けられません」


「扉を壊せばいい」


 ディノスが言った。


「鉱山管理局の保管文書です」


「町が危険でも?」


「危険だと確認されれば、緊急開錠の手続きがあります」


「誰が確認する」


「資格を持つ鉱山技師です」


 部屋が静かになった。


「その技師は」


「明日の昼まで戻りません」


 正確には、戻れるかどうかも分からない。


 隣町からレフナまでの街道状況次第だった。


「旧坑道が町の下まで伸びている可能性は?」


 ユストが尋ねる。


「可能性ならあります」


「地下倉庫の壁が温かいことと関係は?」


「図面だけでは分かりません」


「地下振動は」


「鉱山跡では、岩盤が落ち着くまで長く音が続くことがあります」


「閉山から百年以上経っています」


「だから起きないとは言えません」


 ネイラントは困ったように図面を見た。


「私は技師ではないんです」


 誰も彼を責められなかった。


 資格のない者が坑道へ入り、判断を誤れば、本人だけでなく救助者まで危険にさらす。


「守備隊で鉱山口を確認する」


 ディノスが言った。


「中へは入らない。外から崩落、熱、煙、獣の動きを見る」


「鉱山管理所の許可が必要です」


 ネイラントが言う。


「坑道へ入らないなら、町の警備範囲だ」


「鉱山口の柵を越えれば管理区域です」


「柵の外から見る」


「それなら……問題ありません」


 また一つ決まった。


 守備隊は鉱山口を外から監視する。


 異常を確認したら、町長府と鉱山管理所へ知らせる。


 セラが机を指で叩いた。


「一つずつ決めているけど、結局、何が起きたら避難するの?」


 誰もすぐには答えなかった。


 井戸に異常があれば、水を止める。


 道に異常があれば、道を閉じる。


 鉱山口に異常があれば、守備隊が知らせる。


 患者が増えれば、医務所が報告する。


 では、どの報告がいくつ重なれば、町全体を動かすのか。


「地震による建物被害が出た場合」


 ディノスが言った。


「すでに被害が出てからね」


 セラが返す。


「鉱山から煙や熱が出た場合」


 ネイラントが言う。


「町の地下で先に起きたら?」


 オルグが尋ねる。


「北街道が通れなくなった場合」


「道が一本閉じただけで、全住民を避難させるのか」


 マレクが言う。


「病人が急増した場合は?」


「原因が感染症なら、人を移動させる方が危険よ」


 セラが首を振る。


 一つの異常だけでは、避難の決め手にならない。


 複数を合わせれば危険に見える。


 だが、どの組み合わせを誰が判断するのかが決まっていなかった。


「避難を命じられるのは誰ですか」


 ユストが尋ねた。


「町長だ」


 ディノスが答える。


「町長は病床だ」


 マレクが言う。


「代理である私にも、緊急時の住民避難を命じる権限はある」


「では、マレク殿が判断するのですね」


「町の行政としては」


「行政としては?」


「守備上の危険については、ディノス隊長の報告が必要だ。街道が使えるかはオルグが決める。鉱山災害なら、鉱山管理所の技師判断が要る」


「医療上の危険なら私ね」


 セラが言った。


 ユストは全員を見た。


「その報告を集め、最終的に避難を決めるのは」


「私だ」


 マレクが答えた。


「では、必要な報告が揃わない場合は?」


「揃うまで待つしかない」


「一つの担当が不在なら?」


「代行を立てる」


「鉱山技師の代行は?」


 マレクの視線がネイラントへ向く。


 ネイラントは首を横に振った。


「資格者はいません」


「では、鉱山災害の可能性がある限り、明日の昼まで判断できないのですか」


「鉱山災害だと決まったわけではない」


 マレクの声が少し強くなった。


「決まっていないから、誰も判断できないのでは」


「決まっていないものを、決めたことにはできない」


「決まるまで、町の者は何をするのですか」


 ユストの問いに、今度は誰も答えなかった。


     ◇


 会議室の灯りが、わずかに揺れた。


 風ではない。


 油皿を載せた机そのものが、細かく震えている。


 全員が気づいた。


 吊り下げられた鍵束が、壁へ触れて小さな音を立てる。


 振動は数秒で止まった。


「今のが、報告にあったものか」


 ディノスが立ち上がる。


「宿で感じたものと似ています」


 ユストが答える。


「震源は?」


「分かりません」


「町内の被害を確認する」


 ディノスは扉へ向かった。


 ユストが呼び止める。


「確認後、ここへ戻りますか」


「守備隊詰所へ報告を集める」


「町長府ではなく?」


「夜間の安全確認は守備隊の仕事だ」


 マレクが言う。


「被害があれば、すぐこちらへ知らせろ」


「承知した」


 ディノスは会議室を出ていった。


 オルグも立つ。


「道を見る」


「結果は町長府と守備隊、両方へ」


 ユストが確認する。


「分かってる」


 セラは薬品箱を持ち上げた。


「医務所へ戻る。新しい患者が出たら知らせる」


 ネイラントは図面を巻き直す。


「管理所で、開けられる範囲の記録を探します」


 全員が、それぞれの持ち場へ戻ろうとする。


「待ってください」


 ユストが言った。


 足が止まる。


「次に振動が起きた時、誰が全体を確認するのですか」


「今、役割を決めただろう」


 オルグが言う。


「個別の確認です。町全体ではありません」


「町全体は町長府だ」


 マレクが答える。


「報告がここへ届くまで、誰が届いていない報告に気づきますか」


 書記官が机の端に置かれた紙を見た。


「一覧を作ります」


「報告期限は」


「……朝まで?」


「朝までに報告が来なかった場合、その担当に何か起きている可能性があります」


「では半刻ごとにしろ」


 マレクが指示する。


「各担当は、半刻ごとに異常の有無を町長府へ知らせる。伝令が戻らなければ、守備隊へ確認を頼む」


 書記官が急いで記録する。


「それでよいか」


 マレクがユストを見る。


「今夜については」


「今夜については?」


「誰が避難を決めるかは、まだ決まっていません」


「私だと言った」


「何をもって決めるかがありません」


 マレクの顔に疲労が浮かんだ。


「記録官殿。町の運営は手順書どおりにはいかない」


「手順書がないから、今こうなっています」


 言葉が落ちた後、部屋の空気が硬くなった。


 ユスト自身にも、言いすぎた自覚はあった。


 しかし取り消せなかった。


 マレクはしばらく黙っていた。


 やがて、報告書を閉じる。


「では、あんたが決めろ」


「私には権限がありません」


「さっきから、我々が決めないことを責めている」


「責めていません」


「なら、何を求めている」


「誰が、何を見た時に、何をするのかを決めることです」


「そのための確かな情報がない」


「確かな情報が揃う前に動く手順も必要です」


「何もなかった場合の責任は、誰が取る」


 ユストの口が止まった。


 町を夜中に避難させる。


 住民が転倒する。


 病人が悪化する。


 荷が盗まれる。


 宿場としての信用を失う。


 そして翌朝、何も起きなかったと判明する。


 その判断を下した者は、必ず責任を問われる。


「私ではありません」


 ユストは答えた。


「私は、避難を命じられません」


「そうだ」


 マレクの声は静かだった。


「あんたは紙に書き、判断できる者へ渡す。間違っていた時の責任は、判断した者が負う」


「はい」


「それが分かっているなら、簡単に決めろと言うな」


 ユストは返せなかった。


 自分もまた、権限がないという線の内側に立っている。


 町が危険かもしれないと感じている。


 それでも、自分の名で避難鐘を鳴らすとは言えない。


 マレクたちと何が違うのか。


「今夜は監視を増やす」


 マレクが結論を出した。


「北井戸は飲用停止。街道の亀裂は半刻ごとに測る。守備隊は鉱山口と町内を巡回。医務所は患者数を報告。地下倉庫は使用停止」


「避難準備は」


「住民を不安にさせない範囲で、荷車と広場を確認する」


「避難先は?」


「南門外の牧草地を候補にする。朝になれば町長府から正式に知らせる」


「今夜、事態が悪化した場合は」


「私が判断する」


「報告が揃わなくても?」


 マレクは一度目を閉じた。


「その時に決める」


 その時。


 いつなのかは、誰にも分からなかった。


     ◇


 会議が終わった後、ユストは一人で会議室に残った。


 書記官から白紙を数枚借りる。


 今夜決まったことを、上から順に書く。


 北井戸飲用停止。


 地下倉庫使用停止。


 街道亀裂の定期測定。


 鉱山口の巡回。


 患者数の報告。


 半刻ごとの連絡。


 南門外牧草地の確認。


 紙の上では、町が動いている。


 昨日まで何も決まっていなかったことを考えれば、大きな前進だった。


 それでも、足りない。


 ユストは別の紙を出した。


 中央に線を引き、左側へ必要な行動を書いていく。


 《異常を確認する》


 右側へ、担当者。


 守備隊、医務所、街道管理人、鉱山管理所。


 《報告を集める》


 町長府書記官。


 《避難を判断する》


 町長代理。


 《避難鐘を鳴らす》


 筆が止まった。


 鐘楼の鍵を持つのは町長府。


 実際に鐘を鳴らすのは、鐘守りの老人だ。


 夜間、老人は町の南端に住んでいる。


 誰が呼びに行くのか。


 空欄。


 《避難路を開ける》


 北街道はオルグ。


 南門は守備隊。


 橋は川の管理人。


 三つの担当が分かれている。


 誰が一つの避難路として調整するのか。


 空欄。


 《家々を回る》


 守備隊。


 だが、町の全住民がどの家にいるかは、町長府の住民台帳にしかない。


 誰が名簿を持ち出すのか。


 空欄。


 《戻らない者を探す》


 空欄。


 《避難完了を確認する》


 空欄。


 《次の判断者へ引き継ぐ》


 空欄。


 必要な仕事は見えている。


 しかし、その横に名前がない。


 ユストは筆先を紙へ置いたまま、動けなくなった。


 町には、善良な人間がいる。


 マレクは町の暮らしを守ろうとしている。


 ディノスは住民の安全を確認している。


 セラは患者を治療している。


 オルグは街道を見張っている。


 ネイラントは資格の範囲で記録を探している。


 誰も仕事を放棄していない。


 だからこそ、誰の仕事にも含まれていない部分だけが、白いまま残る。


     ◇


 跳ね鹿亭へ戻った時、夜は深くなっていた。


 食堂の火は落とされていたが、女将が一人で待っていた。


「町長府とは話せたのかい」


「今夜の監視体制は決まりました」


「危ないの?」


「まだ分かりません」


「朝と同じだね」


「朝よりは、確認する人が増えました」


「それで、危ないかどうかは?」


「報告を集めます」


 女将は疲れた顔で息を吐いた。


「お役人さんの言葉は、いつも先が長いね」


 卓の上には、冷めたスープと黒パンが置かれていた。


「食べな。リナが取っておけってうるさかったんだ」


「リナは?」


「寝かせたよ。地面が揺れたくらいで、夜更かしさせるわけにいかない」


 ユストは椅子へ座った。


 空腹だったはずだが、すぐには匙を持てなかった。


「北井戸は、朝まで飲まないでください」


「分かった」


「地下倉庫も使用停止です」


「宿の地下室は?」


 ユストは顔を上げた。


「町長府の指示は、報告のあった倉庫だけです」


「うちの地下も温かいよ」


 女将は、何でもないことのように言った。


「いつからですか」


「夕方にリナが言ってた。猫が地下へ下りたがらないって」


「なぜ、先ほど言わなかったのです」


「誰に?」


 ユストの言葉が止まる。


 女将は厨房の奥を指した。


「宿の地下室だよ。酒樽もない。壁に亀裂もない。役所へ知らせるほどの話じゃないと思った」


「確認します」


「今から?」


「はい」


 ユストは椅子から立った。


 その時、宿の外から馬の蹄が近づいてきた。


 急いでいる。


 街道の石を強く打ち、跳ね鹿亭の前で止まる。


 扉が乱暴に開いた。


 守備隊の若い兵が、息を切らして立っていた。


「中央の記録官はいるか!」


「私です」


「北の鉱山口で崩れた!」


 女将が息を呑む。


「規模は」


 ユストが尋ねる。


「分からない。見張り台の脇が落ちた。柵も半分、谷へ持っていかれた」


「人は?」


「巡回兵が一人、足を挟まれてる。隊長が救助してる」


「坑道から熱や煙は」


「煙はない。だが、風が……」


 若い兵は言葉を探した。


「山から吹いてるのに、温かい」


 ユストは外套をつかんだ。


「町長府へ報告しましたか」


「別の奴が向かってる」


「街道管理人には」


「まだだ」


「医務所は」


「負傷者を運んでから呼ぶ」


「先に呼んでください」


「でも、まだ運び出せるか――」


「運び出してから呼べば、処置が遅れます」


 兵は一瞬迷い、頷いた。


「分かった」


「私は鉱山口へ行きます」


「危険だ。記録官が来ても何もできない」


「何が起きたか確認します」


 女将が低く言った。


「今度は、確認してから誰を呼ぶんだい」


 ユストは振り返らなかった。


「必要な全員です」


 答えながら、町長府の会議室へ残してきた紙を思い出していた。


 異常を確認する者。


 避難を判断する者。


 道を開ける者。


 鐘を鳴らす者。


 戻らない者を探す者。


 名前の入っていない空欄。


 鉱山口が崩れた。


 まだ町は壊れていない。


 まだ、全員が逃げられる。


 だからこそ、今度は誰かが決めなければならなかった。


 けれど、その誰かの名前は、どの紙にも書かれていなかった。

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