第2話《誰の仕事でもない》
夜の鐘が鳴り終わる前に、ユスト=カレルは町長府の扉を叩いた。
一度目では返事がなかった。
二度目も同じだった。
三度目に拳を上げたところで、扉の向こうから足音が近づいてきた。
「何時だと思っている」
細く開いた扉の隙間から、寝間着の上に外套を羽織った男が顔を出した。
ユストは中央監査庁の銀札と、書き上げたばかりの報告書を同時に差し出した。
「記録補助官のユスト=カレルです。町長代理へ、今夜中に確認していただきたいことがあります」
「明日の面会予定は聞いている」
「明日まで待てない可能性があります」
男は報告書を受け取らなかった。
代わりに、ユストの肩越しへ視線を向ける。
町の中央街道は暗かった。
宿や食堂の窓にはまだ灯りが残っている。だが、先ほどの振動に気づかなかった者も多いのだろう。外へ出て騒いでいる住民はいなかった。
「何が起きた」
「地下振動を確認しました」
「地震か」
「断定できません」
「被害は?」
「今のところ、ありません」
男の顔に、苛立ちより困惑が浮かんだ。
「それなら、明日でいいだろう」
「井戸水の金属臭、地下倉庫の温度上昇、街道の亀裂、山から逃げた獣、軽症患者七名。先ほど、町中の鼠が消えている可能性も確認しました」
「可能性ばかりだな」
「はい」
ユストは否定しなかった。
「ですが、別々に処理するには数が多すぎます」
扉の隙間が少し広がった。
男は報告書へ目を落とした。
「これをまとめたのは、あんたか」
「はい」
「町長代理は、もう休んでいる」
「起こしてください」
「中央の役人は、地方の人間を何だと思ってる」
「眠っている人です」
男の眉が動いた。
「起きてもらう必要があります」
しばらく見つめ合った後、男は扉を開けた。
「中で待て」
◇
レフナの町長府は、町の規模に比べて小さかった。
一階には受付と書記室。
二階には会議室と町長の執務室。
奥には、住民台帳や土地の記録を保管する書庫がある。
ユストは一階の長椅子へ座らされた。
報告書は書記官が持っていった。
壁には、レフナの町章が飾られている。
川を渡る鹿。
その背後に山と鉱山槌。
かつて鉱山で栄えた町であることを示す意匠だった。
現在、鉱山は閉じている。
宿場と街道だけが残った。
ユストは壁の町章を見上げながら、膝の上で手帳を開いた。
町長代理への報告時刻。
夜の鐘から四半刻後。
被害なし。
緊急面会を要請。
まだ結果は出ていない。
書くことがなくなり、筆を置く。
廊下の奥では、扉が開閉する音が続いていた。
人が起こされる。
火が点けられる。
誰かが状況を説明し、別の誰かを呼びに行く。
ユストが望んだとおり、町長府は動き始めている。
それでも、胸の奥にあった焦りは消えなかった。
動き始めることと、必要な方向へ動くことは同じではない。
「ユスト=カレル殿」
階段の上から声がした。
「こちらへ」
◇
会議室には、三人の男がいた。
中央の席にいるのが、町長代理マレク。
五十歳前後。寝起きにもかかわらず髪を整え、襟元まできちんと留めている。痩せた顔には深い皺があり、机の上にはユストの報告書が開かれていた。
右側には町長府の書記官。
左側には、夜間警備を担当する守備兵が一人立っている。
「中央監査庁の記録補助官だそうだな」
マレクは椅子を勧めずに言った。
「はい」
「今回の派遣目的は、地下倉庫の亀裂の確認と聞いている」
「当初はそうでした」
「今は、町全体に危険があると?」
「その可能性を、総合的に確認する必要があります」
「避難が必要か」
最初から、最も重い問いが来た。
ユストは一度息を入れた。
「現時点では、必要とも不要とも断定できません」
マレクの口元がわずかに硬くなる。
「町を夜中に起こした理由としては、弱いな」
「断定できるまで待てば、避難に使える時間が失われる可能性があります」
「では避難させろと言うのか」
「判断を始めてくださいと言っています」
「判断はしている」
マレクは報告書を持ち上げた。
「井戸水は濁っているが、重症者はいない。倉庫の壁は温かいが、崩れてはいない。街道の亀裂も荷車が通れる幅だ。振動による被害もない」
「それぞれは、そのとおりです」
「山から獣が逃げたという話に至っては、猟師本人から確認もしていない」
「明朝、確認します」
「鼠がいないという話は、宿屋の子どもの証言だ」
「確認者一名として記録しました」
「子どもの話で町を避難させれば、明日の朝にはレフナ中の笑いものだ」
「笑われることは、人的被害ではありません」
言った直後、書記官がユストを見た。
マレクは怒らなかった。
机の上で両手を組み、しばらく黙ってから答える。
「宿場を空にすることは、被害だ」
声は静かだった。
「この町は、街道を通る旅人と商人で成り立っている。夜中に避難鐘を鳴らし、宿泊客を外へ追い出せば、明日から荷車はレフナを避ける」
「人命より商売を優先するのですか」
「人命を守るために、町を維持している」
マレクはユストを見た。
「町を一度空にすれば、翌朝に何もなかったとしても、すぐ元どおりにはならない。宿は客を失う。商人は道を変える。働く場所がなくなれば、人は町を出る。病人や老人は、誰が養う」
ユストは答えなかった。
マレクの言葉は正しかった。
災害は地面が割れることだけではない。
恐怖や誤報によって、町の生活が壊れることもある。
「だからこそ、避難するかどうかを判断する材料を集める必要があります」
「そのために、今夜できることは?」
「守備隊長、医務官、街道管理人を同じ場所へ集めてください。可能なら、鉱山管理所の者も」
「鉱山技師は隣町だ」
「代理はいないのですか」
「管理所の事務員ならいる。坑道へ入れる者ではない」
「それでも、旧坑道の記録を確認できます」
マレクは書記官へ視線を移した。
「ディノス隊長は」
「北見張り所から戻る途中です」
「セラ医務官は」
「医務所にいます」
「オルグは自宅でしょう」
マレクは小さく息を吐いた。
「全員を呼べ。鉱山管理所からも一人出させろ」
書記官が立ち上がる。
「今夜中にですか」
「中央のお役人殿は、朝まで待てないそうだ」
皮肉は含まれていた。
それでも、マレクは人を呼ぶ判断をした。
ユストは頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼は、何か見つかってからにしてくれ」
◇
全員が揃うまで、一刻近くかかった。
最初に来たのは医務官のセラだった。
白い上着の上から厚手の外套を羽織り、薬品箱を持ったまま会議室へ入ってくる。
「患者を残してきたのよ。長引かせないで」
次に、街道管理人のオルグ。
寝間着の上へ仕事着を重ね、片方の靴紐を結びながら席へ着いた。
「亀裂なら明日の朝、もう一度測ると言ったはずだ」
守備隊長ディノスは最後に到着した。
四十歳前後の大柄な男だった。革鎧の上から夜間用の外套を着て、腰には剣がある。
町の守備隊は二十四名。
外敵、魔物、盗賊、火災時の警備を担う。
ディノスは部屋に入ると、最初に窓と扉を確かめた。習慣なのだろう。
「被害状況は」
「今のところ、ありません」
ユストが答えると、ディノスは目を細めた。
「では、なぜ全員を呼んだ」
「被害が出る前に役割を確認するためです」
最後に、鉱山管理所の事務員が来た。
若い男だった。
寝癖のついた髪を押さえながら、大きな鍵束と古い図面の筒を抱えている。
「技師長は隣町です。私は坑道の点検資格を持っていません」
「名前は?」
「ネイラントです」
「旧坑道の図面はありますか」
「記録庫から持ってきました。ただ、閉山前のものです」
全員が長机を囲んだ。
マレクがユストの報告書を机の中央へ置く。
「記録補助官殿。説明してくれ」
ユストは跳ね鹿亭から借りてきた町の地図を広げた。
井戸。
地下倉庫。
患者のいた場所。
街道の亀裂。
旧鉱山。
確認した情報を、一つずつ説明する。
断定はしない。
関連があるとも言い切らない。
ただ、同じ時期に北側へ異常が集中していることを示す。
説明が終わると、最初にセラが口を開いた。
「患者は七人。重症者はいない。腹痛、頭痛、咳。症状に共通性もない」
「井戸水との関係は?」
マレクが尋ねる。
「分からない。五人が北井戸を使っているけど、この町の半分以上は北井戸を使うわ。患者の割合として多いとは言えない」
「水を止める必要は」
「別の井戸が安全だと確認できない以上、止めれば水不足になる」
「煮沸は?」
「金属臭の原因が鉱物なら、煮ても消えない可能性がある」
セラは腕を組んだ。
「ただ、今夜は飲み水を南井戸から運ぶよう勧めてもいい。病人が増えるかどうかを見る」
「南井戸まで遠い家もある」
「病人が増えてから運ぶよりは早いわ」
マレクは書記官へ指示した。
「朝まで北井戸を飲用停止。生活用水には使ってよい。南井戸から水桶を運ぶ者を出す」
「停止の根拠は、どう書きますか」
「安全確認のための一時措置だ」
最初の役割が決まった。
井戸については、セラの提案をマレクが承認した。
ユストは手帳へ記録する。
次にオルグが地図を引き寄せた。
「亀裂はここだ」
北西から南東へ、指を滑らせる。
「今すぐ崩れる幅じゃない。ただし、この線どおり地面が動くなら、北街道の石積みまで影響する」
「閉鎖するか」
ディノスが尋ねる。
「閉じれば、北側から町を出られなくなる」
「危険な道を避難路には使えない」
「危険と決まってない」
「決まってから閉じたのでは遅い」
オルグがディノスを見る。
「北を閉じるなら、南へ荷車を流す必要がある。今夜の宿泊客だけでも二十台近い。避難になれば、それ以上だ」
「守備隊で整理する」
「街道上の荷車を勝手に動かせるのか」
「緊急時なら」
「今は緊急時なのか」
ディノスが口を閉じた。
その判断をするために、全員が集まっている。
「亀裂の両側に見張りを置くことはできますか」
ユストが尋ねた。
「広がれば通行を止める?」
オルグが言う。
「はい」
「誰の判断で」
「あなたが幅を確認し、危険と判断した場合です」
「町全体を避難させる判断はできんぞ」
「道を通せるかどうかだけで構いません」
オルグは少し考えた。
「それなら、できる」
「測定はどのくらいの間隔で?」
「半刻ごと。急に広がったら、その時点で閉じる」
「閉鎖した場合、誰へ知らせますか」
「町長府と守備隊」
「両方へ同時に」
「ああ」
街道の役割も決まった。
道を閉じるかは、オルグが判断する。
閉じた後の交通整理は、守備隊が担う。
ユストは記録する。
「鉱山については」
全員の視線が、若い事務員ネイラントへ向いた。
彼は慌てて図面の筒を開けた。
古い紙が机の上へ広がる。
山の中へ伸びる坑道。
採掘区画。
換気口。
排水路。
何本もの線が、町の北側で枝分かれしていた。
「これは閉山の十年前に作られた図面です」
ネイラントが説明する。
「閉山時の封鎖箇所は?」
「別紙にあるはずですが、技師長が保管しています」
「管理所にはないのか」
マレクの問いに、ネイラントは顔を曇らせた。
「最新の封鎖図は、技師長の確認印が必要な書庫です。鍵も技師長が持っています」
持ってきた鍵束を見せる。
「私の鍵では開けられません」
「扉を壊せばいい」
ディノスが言った。
「鉱山管理局の保管文書です」
「町が危険でも?」
「危険だと確認されれば、緊急開錠の手続きがあります」
「誰が確認する」
「資格を持つ鉱山技師です」
部屋が静かになった。
「その技師は」
「明日の昼まで戻りません」
正確には、戻れるかどうかも分からない。
隣町からレフナまでの街道状況次第だった。
「旧坑道が町の下まで伸びている可能性は?」
ユストが尋ねる。
「可能性ならあります」
「地下倉庫の壁が温かいことと関係は?」
「図面だけでは分かりません」
「地下振動は」
「鉱山跡では、岩盤が落ち着くまで長く音が続くことがあります」
「閉山から百年以上経っています」
「だから起きないとは言えません」
ネイラントは困ったように図面を見た。
「私は技師ではないんです」
誰も彼を責められなかった。
資格のない者が坑道へ入り、判断を誤れば、本人だけでなく救助者まで危険にさらす。
「守備隊で鉱山口を確認する」
ディノスが言った。
「中へは入らない。外から崩落、熱、煙、獣の動きを見る」
「鉱山管理所の許可が必要です」
ネイラントが言う。
「坑道へ入らないなら、町の警備範囲だ」
「鉱山口の柵を越えれば管理区域です」
「柵の外から見る」
「それなら……問題ありません」
また一つ決まった。
守備隊は鉱山口を外から監視する。
異常を確認したら、町長府と鉱山管理所へ知らせる。
セラが机を指で叩いた。
「一つずつ決めているけど、結局、何が起きたら避難するの?」
誰もすぐには答えなかった。
井戸に異常があれば、水を止める。
道に異常があれば、道を閉じる。
鉱山口に異常があれば、守備隊が知らせる。
患者が増えれば、医務所が報告する。
では、どの報告がいくつ重なれば、町全体を動かすのか。
「地震による建物被害が出た場合」
ディノスが言った。
「すでに被害が出てからね」
セラが返す。
「鉱山から煙や熱が出た場合」
ネイラントが言う。
「町の地下で先に起きたら?」
オルグが尋ねる。
「北街道が通れなくなった場合」
「道が一本閉じただけで、全住民を避難させるのか」
マレクが言う。
「病人が急増した場合は?」
「原因が感染症なら、人を移動させる方が危険よ」
セラが首を振る。
一つの異常だけでは、避難の決め手にならない。
複数を合わせれば危険に見える。
だが、どの組み合わせを誰が判断するのかが決まっていなかった。
「避難を命じられるのは誰ですか」
ユストが尋ねた。
「町長だ」
ディノスが答える。
「町長は病床だ」
マレクが言う。
「代理である私にも、緊急時の住民避難を命じる権限はある」
「では、マレク殿が判断するのですね」
「町の行政としては」
「行政としては?」
「守備上の危険については、ディノス隊長の報告が必要だ。街道が使えるかはオルグが決める。鉱山災害なら、鉱山管理所の技師判断が要る」
「医療上の危険なら私ね」
セラが言った。
ユストは全員を見た。
「その報告を集め、最終的に避難を決めるのは」
「私だ」
マレクが答えた。
「では、必要な報告が揃わない場合は?」
「揃うまで待つしかない」
「一つの担当が不在なら?」
「代行を立てる」
「鉱山技師の代行は?」
マレクの視線がネイラントへ向く。
ネイラントは首を横に振った。
「資格者はいません」
「では、鉱山災害の可能性がある限り、明日の昼まで判断できないのですか」
「鉱山災害だと決まったわけではない」
マレクの声が少し強くなった。
「決まっていないから、誰も判断できないのでは」
「決まっていないものを、決めたことにはできない」
「決まるまで、町の者は何をするのですか」
ユストの問いに、今度は誰も答えなかった。
◇
会議室の灯りが、わずかに揺れた。
風ではない。
油皿を載せた机そのものが、細かく震えている。
全員が気づいた。
吊り下げられた鍵束が、壁へ触れて小さな音を立てる。
振動は数秒で止まった。
「今のが、報告にあったものか」
ディノスが立ち上がる。
「宿で感じたものと似ています」
ユストが答える。
「震源は?」
「分かりません」
「町内の被害を確認する」
ディノスは扉へ向かった。
ユストが呼び止める。
「確認後、ここへ戻りますか」
「守備隊詰所へ報告を集める」
「町長府ではなく?」
「夜間の安全確認は守備隊の仕事だ」
マレクが言う。
「被害があれば、すぐこちらへ知らせろ」
「承知した」
ディノスは会議室を出ていった。
オルグも立つ。
「道を見る」
「結果は町長府と守備隊、両方へ」
ユストが確認する。
「分かってる」
セラは薬品箱を持ち上げた。
「医務所へ戻る。新しい患者が出たら知らせる」
ネイラントは図面を巻き直す。
「管理所で、開けられる範囲の記録を探します」
全員が、それぞれの持ち場へ戻ろうとする。
「待ってください」
ユストが言った。
足が止まる。
「次に振動が起きた時、誰が全体を確認するのですか」
「今、役割を決めただろう」
オルグが言う。
「個別の確認です。町全体ではありません」
「町全体は町長府だ」
マレクが答える。
「報告がここへ届くまで、誰が届いていない報告に気づきますか」
書記官が机の端に置かれた紙を見た。
「一覧を作ります」
「報告期限は」
「……朝まで?」
「朝までに報告が来なかった場合、その担当に何か起きている可能性があります」
「では半刻ごとにしろ」
マレクが指示する。
「各担当は、半刻ごとに異常の有無を町長府へ知らせる。伝令が戻らなければ、守備隊へ確認を頼む」
書記官が急いで記録する。
「それでよいか」
マレクがユストを見る。
「今夜については」
「今夜については?」
「誰が避難を決めるかは、まだ決まっていません」
「私だと言った」
「何をもって決めるかがありません」
マレクの顔に疲労が浮かんだ。
「記録官殿。町の運営は手順書どおりにはいかない」
「手順書がないから、今こうなっています」
言葉が落ちた後、部屋の空気が硬くなった。
ユスト自身にも、言いすぎた自覚はあった。
しかし取り消せなかった。
マレクはしばらく黙っていた。
やがて、報告書を閉じる。
「では、あんたが決めろ」
「私には権限がありません」
「さっきから、我々が決めないことを責めている」
「責めていません」
「なら、何を求めている」
「誰が、何を見た時に、何をするのかを決めることです」
「そのための確かな情報がない」
「確かな情報が揃う前に動く手順も必要です」
「何もなかった場合の責任は、誰が取る」
ユストの口が止まった。
町を夜中に避難させる。
住民が転倒する。
病人が悪化する。
荷が盗まれる。
宿場としての信用を失う。
そして翌朝、何も起きなかったと判明する。
その判断を下した者は、必ず責任を問われる。
「私ではありません」
ユストは答えた。
「私は、避難を命じられません」
「そうだ」
マレクの声は静かだった。
「あんたは紙に書き、判断できる者へ渡す。間違っていた時の責任は、判断した者が負う」
「はい」
「それが分かっているなら、簡単に決めろと言うな」
ユストは返せなかった。
自分もまた、権限がないという線の内側に立っている。
町が危険かもしれないと感じている。
それでも、自分の名で避難鐘を鳴らすとは言えない。
マレクたちと何が違うのか。
「今夜は監視を増やす」
マレクが結論を出した。
「北井戸は飲用停止。街道の亀裂は半刻ごとに測る。守備隊は鉱山口と町内を巡回。医務所は患者数を報告。地下倉庫は使用停止」
「避難準備は」
「住民を不安にさせない範囲で、荷車と広場を確認する」
「避難先は?」
「南門外の牧草地を候補にする。朝になれば町長府から正式に知らせる」
「今夜、事態が悪化した場合は」
「私が判断する」
「報告が揃わなくても?」
マレクは一度目を閉じた。
「その時に決める」
その時。
いつなのかは、誰にも分からなかった。
◇
会議が終わった後、ユストは一人で会議室に残った。
書記官から白紙を数枚借りる。
今夜決まったことを、上から順に書く。
北井戸飲用停止。
地下倉庫使用停止。
街道亀裂の定期測定。
鉱山口の巡回。
患者数の報告。
半刻ごとの連絡。
南門外牧草地の確認。
紙の上では、町が動いている。
昨日まで何も決まっていなかったことを考えれば、大きな前進だった。
それでも、足りない。
ユストは別の紙を出した。
中央に線を引き、左側へ必要な行動を書いていく。
《異常を確認する》
右側へ、担当者。
守備隊、医務所、街道管理人、鉱山管理所。
《報告を集める》
町長府書記官。
《避難を判断する》
町長代理。
《避難鐘を鳴らす》
筆が止まった。
鐘楼の鍵を持つのは町長府。
実際に鐘を鳴らすのは、鐘守りの老人だ。
夜間、老人は町の南端に住んでいる。
誰が呼びに行くのか。
空欄。
《避難路を開ける》
北街道はオルグ。
南門は守備隊。
橋は川の管理人。
三つの担当が分かれている。
誰が一つの避難路として調整するのか。
空欄。
《家々を回る》
守備隊。
だが、町の全住民がどの家にいるかは、町長府の住民台帳にしかない。
誰が名簿を持ち出すのか。
空欄。
《戻らない者を探す》
空欄。
《避難完了を確認する》
空欄。
《次の判断者へ引き継ぐ》
空欄。
必要な仕事は見えている。
しかし、その横に名前がない。
ユストは筆先を紙へ置いたまま、動けなくなった。
町には、善良な人間がいる。
マレクは町の暮らしを守ろうとしている。
ディノスは住民の安全を確認している。
セラは患者を治療している。
オルグは街道を見張っている。
ネイラントは資格の範囲で記録を探している。
誰も仕事を放棄していない。
だからこそ、誰の仕事にも含まれていない部分だけが、白いまま残る。
◇
跳ね鹿亭へ戻った時、夜は深くなっていた。
食堂の火は落とされていたが、女将が一人で待っていた。
「町長府とは話せたのかい」
「今夜の監視体制は決まりました」
「危ないの?」
「まだ分かりません」
「朝と同じだね」
「朝よりは、確認する人が増えました」
「それで、危ないかどうかは?」
「報告を集めます」
女将は疲れた顔で息を吐いた。
「お役人さんの言葉は、いつも先が長いね」
卓の上には、冷めたスープと黒パンが置かれていた。
「食べな。リナが取っておけってうるさかったんだ」
「リナは?」
「寝かせたよ。地面が揺れたくらいで、夜更かしさせるわけにいかない」
ユストは椅子へ座った。
空腹だったはずだが、すぐには匙を持てなかった。
「北井戸は、朝まで飲まないでください」
「分かった」
「地下倉庫も使用停止です」
「宿の地下室は?」
ユストは顔を上げた。
「町長府の指示は、報告のあった倉庫だけです」
「うちの地下も温かいよ」
女将は、何でもないことのように言った。
「いつからですか」
「夕方にリナが言ってた。猫が地下へ下りたがらないって」
「なぜ、先ほど言わなかったのです」
「誰に?」
ユストの言葉が止まる。
女将は厨房の奥を指した。
「宿の地下室だよ。酒樽もない。壁に亀裂もない。役所へ知らせるほどの話じゃないと思った」
「確認します」
「今から?」
「はい」
ユストは椅子から立った。
その時、宿の外から馬の蹄が近づいてきた。
急いでいる。
街道の石を強く打ち、跳ね鹿亭の前で止まる。
扉が乱暴に開いた。
守備隊の若い兵が、息を切らして立っていた。
「中央の記録官はいるか!」
「私です」
「北の鉱山口で崩れた!」
女将が息を呑む。
「規模は」
ユストが尋ねる。
「分からない。見張り台の脇が落ちた。柵も半分、谷へ持っていかれた」
「人は?」
「巡回兵が一人、足を挟まれてる。隊長が救助してる」
「坑道から熱や煙は」
「煙はない。だが、風が……」
若い兵は言葉を探した。
「山から吹いてるのに、温かい」
ユストは外套をつかんだ。
「町長府へ報告しましたか」
「別の奴が向かってる」
「街道管理人には」
「まだだ」
「医務所は」
「負傷者を運んでから呼ぶ」
「先に呼んでください」
「でも、まだ運び出せるか――」
「運び出してから呼べば、処置が遅れます」
兵は一瞬迷い、頷いた。
「分かった」
「私は鉱山口へ行きます」
「危険だ。記録官が来ても何もできない」
「何が起きたか確認します」
女将が低く言った。
「今度は、確認してから誰を呼ぶんだい」
ユストは振り返らなかった。
「必要な全員です」
答えながら、町長府の会議室へ残してきた紙を思い出していた。
異常を確認する者。
避難を判断する者。
道を開ける者。
鐘を鳴らす者。
戻らない者を探す者。
名前の入っていない空欄。
鉱山口が崩れた。
まだ町は壊れていない。
まだ、全員が逃げられる。
だからこそ、今度は誰かが決めなければならなかった。
けれど、その誰かの名前は、どの紙にも書かれていなかった。




