第1話《小さすぎる異常》
宿場町レフナへ着いた朝、ユスト=カレルは、井戸水を地面へ捨てる女を見た。
大きな桶を両手で傾けると、灰色がかった水が石畳を流れ、道端の溝へ落ちていく。
水は濁っていた。
泥を含んでいるようにも見えたが、前夜に雨は降っていない。空は薄く晴れ、山から下りてくる風も乾いていた。
女は空になった桶を井戸の縁へ戻し、縄を引き上げ直した。
水を汲む。
覗き込む。
また捨てる。
宿の前へ止まった馬車から降りたユストは、手にしていた鞄を御者へ預けた。
「今の水は、飲めないのですか」
声をかけると、女は振り向いた。
年は四十前後。袖を肘までまくり、頭には薄い布を巻いている。宿の女将なのだろう。
女はユストの灰色の外套と、胸元に留められた小さな銀札を順に見た。
「中央のお役人さんかい」
「中央監査庁のユスト=カレルです。レフナで報告された地下倉庫の損傷について、確認に来ました」
「倉庫より先に井戸を見るとは聞いてないね」
「今、捨てていたので」
女は縄から桶を外し、ユストの前へ置いた。
「飲んでみるかい」
ユストは水面を見下ろした。
完全に濁っているわけではない。底も見える。しかし、日の光が当たると、水の中に細かな銀色の粒が漂っていた。
「味に異常が?」
「鉄っぽい。昨日の昼からだよ」
「この井戸だけですか」
「町の井戸を全部飲み比べるほど暇じゃないさ」
「失礼しました」
「謝るくらいなら、まず嗅いでみな」
言われたとおり、水面へ顔を近づける。
湿った石と、古い金属に似た匂いがした。血の匂いにも少し似ている。
「飲んだ人に体調の変化は?」
「腹を壊した客が二人。けど、旅人が腹を壊すなんて珍しくもない。昨日食べた豆が悪かったのかもしれないしね」
女は新しい水を汲むため、もう一度桶を落とした。
縄が井戸の中へ滑っていく。
底へ着く音がしたあと、少し遅れて、別の音が返ってきた。
低い音だった。
水面を叩く音ではない。
石の奥で、大きな扉がゆっくり動いたような響きだった。
ユストは井戸の縁へ手を置いた。
振動は感じない。
「今の音は、いつもしますか」
「井戸へ桶を落としたら音くらいするよ」
「二つ聞こえました」
「山の町は、何でも響くんだ」
女は縄を引き上げた。
腕の動きに迷いはなかった。毎朝、何十回も繰り返している仕事なのだろう。
だが、汲み上げた水へ口をつけようとはしなかった。
ユストは外套の内側から小さな手帳を取り出した。
日付。
到着時刻。
天候。
井戸水に金属臭あり。
前日昼頃より発生。
腹部不調二名。ただし井戸水との因果関係は不明。
最後に、井戸から低い反響音あり、と書き加えた。
女が横目で手帳を見る。
「倉庫を見に来たんじゃなかったのかい」
「それも見ます」
「何でも書くんだね」
「必要かどうかは、後で判断します」
「書かれた方は、後で消せないけどね」
ユストの筆が一瞬だけ止まった。
女は返事を待たず、桶を持って宿へ戻っていく。
入口の上には、風雨で色の落ちた看板が下がっていた。
《跳ね鹿亭》。
その文字の下から、小さな顔が覗いた。
十歳ほどの少女だった。
黒い髪を肩の上で乱雑に切り揃え、手には皮を剥きかけた芋を持っている。
少女はユストと目が合うと、戸の陰へ隠れた。
すぐに、片目だけを出す。
「お母さん。その人、井戸も直せるの?」
「記録する人だよ」
宿の奥から女の声が返ってくる。
「記録したら直る?」
「直らない」
「じゃあ、何のために来たの?」
女の返事はなかった。
ユストは手帳を閉じた。
その問いには、自分で答えるべきなのだろう。
「何が起きているかを調べるためです」
少女が戸の陰から半分ほど出てくる。
「分かったら直る?」
「直せる人へ伝えられます」
「その人は、すぐ来る?」
ユストは答えられなかった。
中央監査庁は、各地で起きた事故や災害の報告を集める役所だ。
ユストの仕事は、現地で何が起きたのかを確かめ、紙へ残し、判断する権限を持つ者へ届けることだった。
倉庫を修理する技術はない。
井戸を浄化する魔法も使えない。
町の住民へ避難を命じる権限もない。
少女が首を傾げた。
「分からないの?」
「誰が必要になるかによります」
「難しいね」
「そうですね」
少女は芋を持ったまま外へ出てきた。
「わたし、リナ。倉庫なら知ってるよ」
◇
地下倉庫は、宿から北へ三本目の路地にあった。
レフナは山と川に挟まれた町だった。
中央を街道が南北へ通り、その両側に宿、食堂、馬具店、商人の倉庫が並んでいる。町の北端から先は斜面になっており、さらに上には、長く使われていない鉱山跡があった。
川は町の東側を流れている。
西側には山肌を削って作られた旧街道があり、現在は荷車一台が通れる程度の幅しか残っていない。
「中央の道が南へ行く道。橋を渡ったら東の町。あっちは昔の鉱山」
リナは芋の皮を剥きながら、指先で町の方角を示した。
「歩きながら刃物を使うのは危険です」
「これは刃物じゃないよ。芋剥き」
手にしているのは、薄い鉄片へ木の柄を付けた小刀だった。
「十分に刃物です」
「お役人さんは、転んだことないの?」
「あります」
「じゃあ、気をつけても転ぶんだね」
リナは納得したように頷き、そのまま芋を剥き続けた。
地下倉庫の入口では、二人の男が荷箱を運び出していた。
石造りの建物の下へ、急な階段が続いている。
入口の脇には縄が張られ、《立入注意》と書かれた札が下がっていた。
「中央監査庁から来ました」
ユストが銀札を見せると、年長の男が汗を拭った。
「昨日、報告を出したばかりだぞ。ずいぶん早いな」
「近隣の町で別件を確認していました。報告を受け、こちらへ回りました」
「別件って?」
「河岸倉庫の荷崩れです」
「それと、うちの壁に何の関係がある」
「今のところ、関係はありません」
男は不満そうに鼻を鳴らした。
ユストは手帳を開いた。
「地下壁の亀裂を最初に確認したのは?」
「俺だ。昨日の朝」
「前日にはありませんでしたか」
「さあな。毎日、壁を数えてるわけじゃない」
「亀裂以外の変化は?」
「中へ入れば分かる」
階段を下りるにつれ、空気が変わった。
地下特有の冷たさはある。
だが、その奥に、乾いた熱が混じっていた。
倉庫には酒樽と乾燥豆の袋、塩漬け肉を詰めた木箱が並べられている。床には薄く水が溜まっていた。
北側の壁に、縦の亀裂が走っている。
人の背丈より少し高い位置から始まり、床近くまで続いていた。
幅は指の爪ほど。
壁が崩れるほどには見えない。
「石組みがずれたのですか」
「それなら報告なんか出さない」
男は亀裂から少し離れた壁へ手を当てた。
「触ってみろ」
ユストは革手袋を外し、同じ場所へ掌を当てた。
温かい。
日向に置かれた石ほどではない。しかし地下倉庫の壁としては明らかに不自然だった。
掌を横へ滑らせる。
亀裂の周辺だけではない。北側の壁全体が、薄く熱を持っている。
「いつからですか」
「三日前には、酒樽の一つがぬるくなってた」
「なぜその時点で報告しなかったのです」
「春先だぞ。少し温かい日もある」
「地下倉庫で?」
「だから昨日、報告した」
責めるつもりで尋ねたわけではなかった。
だが、男は責められたと感じたらしい。
ユストは質問を変えた。
「この壁の向こうには何がありますか」
「山だ」
「空洞や地下道は?」
「昔の鉱山の坑道が、町の下まで伸びてたって話はある。百年以上前に塞いだはずだ」
「塞いだ場所の記録は?」
「鉱山管理所に聞け」
男は運び出しかけていた酒樽へ手をかけた。
「町の連中は、今夜もここへ荷を置くつもりだ。危ないなら危ない、問題ないなら問題ない。早く決めてくれ」
「私は決定できません」
男の手が止まる。
「何のために来た」
朝、リナがしたのと同じ質問だった。
「確認し、報告するためです」
「報告を待ってる間に壁が崩れたら?」
ユストは亀裂を見た。
今すぐ崩れる兆候は見えない。
だが、崩れないとも言い切れない。
「少なくとも、北側の壁から荷を離してください。地下への立ち入りは、一度に二人までに」
「命令か?」
「提案です」
「責任は?」
「私には、倉庫の使用を止める権限がありません」
男はしばらくユストを見ていた。
やがて、壁際に残っていた木箱を持ち上げる。
「二人までだ!」
階段の上へ向かって怒鳴った。
「入る奴は名前を書け! 北の壁には寄るな!」
それはユストの命令ではなかった。
倉庫の管理人が、自分の責任で決めたことだった。
ユストは手帳に記録する。
地下北壁に亀裂。
周辺壁面に温度上昇。
開始時期不明。三日前、保管酒の温度変化あり。
地下旧坑道との関連、不明。
使用停止権限者、未確認。
最後の一行を書いたところで、床の水が揺れた。
小さな波紋が、壁際からこちらへ広がってくる。
荷を運んでいた男たちは気づいていない。
ユストは息を止めた。
揺れは一度だけだった。
「今、何か動きましたか」
「樽なら運んでる」
「床が揺れました」
「荷箱を落としたんだろ」
上から返事が来る。
ユストはしゃがみ、床の水へ指先を近づけた。
水はもう動いていない。
手帳へ、《地下振動の可能性・確認者一名》と書き加えた。
◇
町の医務所には、七人の患者がいた。
寝台は四つしかなく、三人は壁際の椅子へ座っている。
咳をする者。
腹を押さえている者。
頭痛を訴える者。
症状はばらばらだった。
「全員、井戸水を飲んだのですか」
「町の人間なら、だいたい飲んでるわ」
医務官のセラは、患者の瞼を指で持ち上げながら答えた。
三十歳ほどの女だった。
淡い茶色の髪を後ろでまとめ、白い上着の袖には薬草の染みが付いている。
「水が原因とは限らない。昨日から寒暖差が大きいし、旅人は疲れている。豆の煮込みを食べた者も多い」
「共通点は?」
「この町にいたこと」
「それでは広すぎます」
「だから困ってるの」
セラは患者の胸へ手をかざした。
指の間に淡い光が生まれ、咳をしていた男の呼吸が少しずつ落ち着いていく。
ヒールは傷や炎症を和らげる。
しかし原因まで消す魔法ではない。
「重症者は?」
「いない。全員、今のところはね」
「発症した時刻は」
「一番早い人で昨日の夕方。あとは夜から今朝」
「町のどこにいたか分かりますか」
「宿、馬具店、南門近くの家、川沿いの倉庫。ばらばら」
セラは机の上から薄い紙束を取った。
「私が分かる範囲では書いた。食べた物、飲んだ水、寝ていた場所。だけど医務所は患者を治す場所よ。町の地図まで作る余裕はない」
ユストは紙束を受け取った。
「お借りしても?」
「持っていかれると困る」
「写します」
「今日中に返して」
「必ず」
紙をめくる。
七人のうち五人が、前日に北側の井戸を利用している。
残る二人は不明。
地下倉庫へ出入りした者は一人だけだった。
「鉱山跡に関係する仕事をした人は?」
「今のレフナに鉱夫はいない」
「山へ入った者は」
「猟師ならいるかもしれない。守備隊へ聞いて」
セラは次の患者へ向き直りかけ、ふと手を止めた。
「そういえば」
「何でしょう」
「昨日、猟師が一人来た。怪我じゃないから帰したけど」
「何の用で?」
「山から獣が下りてこないって」
「下りてこないことを相談に?」
「逆。普段は山にいる獣が、南側へ逃げたらしい。罠も全部空だったって」
「いつからですか」
「知らない。本人へ聞いて」
「名前は?」
「ボルツ。西門の近くに住んでる」
ユストは手帳へ書いた。
井戸水。
地下壁。
患者。
山から逃げる獣。
今の段階で、それらを一つの異常だと決める根拠はない。
関係があると考えれば、すべてが兆候に見える。
関係がないと考えれば、春先の町で起きる小さな問題にすぎない。
ユストは、そのどちらも書かなかった。
◇
西門近くの街道では、石畳へ細い亀裂が走っていた。
街道管理人のオルグは、木の定規を溝へ差し込み、幅を確かめている。
「今朝は爪の先くらいだった」
ユストが近づくと、挨拶より先に言った。
「今は?」
「爪二枚分だ」
「広がっている?」
「石が乾いて見え方が変わっただけかもしれん」
亀裂は、山側から道を斜めに横切り、川側の土へ消えている。
荷車は問題なく通れる幅だ。
オルグは亀裂の両側へ白い粉で印を付けた。
「ここから広がれば分かる」
「通行を止めますか」
「この程度で止めたら、春の街道なんか全部閉鎖だ」
「地下で何か動いている可能性は?」
「山の町では、地面も動く」
朝から何度も聞いた言葉だった。
井戸は響く。
地下室は温かくなることもある。
旅人は腹を壊す。
獣が移動する年もある。
街道には亀裂が入る。
どれも、この土地では起こり得ることだった。
「もし道を閉じる場合、迂回路は?」
ユストが尋ねると、オルグは西側の斜面を指した。
「旧道がある。ただし荷車は一台ずつだ。雨が降れば使えん」
「東側は?」
「橋を渡れば隣町へ行ける。だが川が増えたら閉める」
「南へは」
「中央街道。そのための道だ」
「北側で問題が起きた場合、住民はどちらへ逃げますか」
オルグが定規を引き抜いた。
「町長に聞け」
「避難経路を管理するのは、街道管理人では?」
「道を通せるかどうかは俺が決める。誰をどこへ逃がすかは、俺の仕事じゃない」
それは責任逃れではなかった。
オルグは街道を守る者として、自分の権限を正確に理解している。
ユストも、記録補助官として同じことをしている。
自分の仕事ではないことを、勝手に決めない。
それが正しい働き方だと教えられてきた。
ユストは亀裂の横へしゃがんだ。
耳を近づけても、地面の下から音は聞こえない。
ただ、亀裂の奥から上がってくる空気は、地表より少しだけ温かかった。
◇
町の北へ向かう途中で、鐘が鳴った。
昼を知らせる鐘だった。
一度目が大きく響き、山肌へぶつかって返ってくる。
二度目。
三度目。
町の人々は足を止めない。
店の戸が開き、食事の匂いが街道へ流れ出す。荷車の御者は馬へ水を与え、宿の使用人たちは洗濯物を取り込んでいた。
レフナは、いつもどおりに動いている。
ユストの手帳の中にだけ、小さな異常が増えていく。
井戸水の金属臭。
地下壁の温度上昇。
床の振動。
軽症患者七名。
山から逃げる獣。
広がった可能性のある街道の亀裂。
どれも、町を止めるには小さすぎた。
しかし、何も起きていないと言うには多すぎた。
「お役人さん!」
後ろからリナの声がした。
振り返ると、少女が走ってくる。
片手には布に包んだパン。もう一方には、朝から剥いていた芋がある。
「お母さんが、昼ごはん持っていけって」
「私に?」
「お金は取るって」
「それは当然です」
リナはパンを差し出し、ユストの手帳を覗き込んだ。
「いっぱい見つかった?」
「まだ、見つかったとは言えません」
「書いてあるのに?」
「書いてあることが、全部つながっているとは限りません」
「つながってたら?」
「判断できる人へ、急いで伝えます」
「誰?」
ユストは答えるため、頭の中で順番を確認した。
地下倉庫は町の商務管理。
旧坑道は鉱山管理所。
街道は街道管理人。
井戸と住民の生活は町長府。
患者は医務所。
魔物や山の異変は守備隊。
複数の管轄に関わる災害なら、領主府へ緊急報告を出す。
ユスト自身に決定権はない。
「まず、町長代理と守備隊へ話します。その後、鉱山管理所と領主府へ報告を送ります」
「いっぱいだね」
「必要な相手へ知らせなければなりません」
「誰が一番偉いの?」
「問題によります」
「みんなが違うこと言ったら?」
ユストは少女を見た。
リナは試すような顔をしているのではない。本当に分からないから尋ねている。
「その時は、決める権限を持つ人へ判断を求めます」
「その人は誰?」
再び、答えが詰まった。
複数の部署にまたがる緊急事態なら、町長代理が住民対応を決め、守備隊長が安全確保を行う。街道閉鎖はオルグが判断し、鉱山跡への立ち入りは鉱山管理所の許可が必要になる。
では、誰が最初に全員を動かすのか。
ユストは、その手順を知らなかった。
中央監査庁から持たされた規定集にも、町ごとの指揮系統までは書かれていない。
「確認します」
「また確認?」
「分からないまま、分かったとは言えません」
リナはパンの包みをユストへ押しつけた。
「冷める前に食べた方がいいよ」
◇
午後、ユストは町長代理と守備隊へ面会を求めた。
どちらからも、先に報告書をまとめてほしいと言われた。
町長代理は夕方まで来客が続く。
守備隊長は北の見張り所を巡回中。
鉱山管理所の技師は、三日前から隣町へ出ている。
戻るのは早くても翌日の昼だった。
ユストは跳ね鹿亭へ戻り、食堂の隅に机を借りた。
集めた記録を並べる。
井戸の位置。
患者が滞在していた場所。
地下倉庫。
街道の亀裂。
山から逃げた獣が見つかった方角。
宿から借りた町の地図へ、一つずつ印を付ける。
井戸は町の北寄り。
地下倉庫も北側。
亀裂は北西から南東へ走っている。
患者は町中に散らばっているが、五人が北井戸を使っている。
獣は山の北側から南へ逃げた。
旧鉱山は、そのさらに北にある。
紙の上では、すべてが町の北へ集まって見えた。
ユストは、すぐに結論を書かなかった。
地図の見え方に引きずられている可能性がある。
患者二人は北井戸を利用したか分からない。
亀裂が地下の異常によるものかも不明。
獣の移動には季節的な理由があるかもしれない。
それでも、今まで別々だった情報が、一枚の地図へ載った。
ユストは新しい紙を出した。
表題を書く。
《レフナ北部における複数異常の関連可能性について》
事実と推測を分ける。
確認された事実。
未確認の証言。
関連が疑われる事項。
必要な追加調査。
住民避難の要否については、判断権限者による早急な検討を求める。
最後の一文を書いたところで、窓の外が暗くなった。
ユストは報告書を読み返した。
強すぎないか。
弱すぎないか。
不確かな情報で町を騒がせることにならないか。
逆に、慎重な言葉へ整えすぎて、危険が伝わらなくならないか。
筆先が止まる。
三度読み直し、文末へ一行を追加した。
《各事象は単独では軽微であるが、同時期かつ近接地域に発生しているため、個別事案として処理せず総合的な確認を要する》
これ以上は、ユストの判断で書けなかった。
「まだ仕事してるの?」
食堂の入口からリナが顔を出した。
両手には、夕食に使ったらしい木の皿を抱えている。
「報告書が終わっていません」
「朝からずっと書いてる」
「調べるものが多かったので」
「町、危ないの?」
ユストは地図を伏せなかった。
子どもを安心させるために、何も問題はないと言うこともできた。
だが、安全だと確認できてはいない。
「まだ分かりません」
「みんな、そう言うね」
「ほかの人にも聞いたのですか」
「井戸の水は大丈夫かって聞いたら、お母さんも分からないって。地下の壁は壊れるのって聞いたら、倉庫のおじさんも分からないって。道は割れるのって聞いたら、オルグさんは明日見れば分かるって」
リナは皿を卓へ置き、地図を覗き込んだ。
「分からないことが、いっぱいあるね」
「だから調べています」
「分かった時には、間に合う?」
ユストは返事を探した。
この町へ来てから、何度目かの答えられない問いだった。
窓の外で、猫が鳴いた。
食堂の壁際に置かれた袋が、小さく動く。
リナがそちらを見た。
「猫、ずっと機嫌悪いんだ」
「どうしてですか」
「食べるものがないから」
「餌を与えていないのですか」
「違うよ」
リナは不思議そうに言った。
「鼠がいないの」
ユストの指が、地図の端で止まった。
「いつからですか」
「昨日かな。厨房にも、地下にも、一匹もいない。お母さんは喜んでたけど」
朝、井戸の横で聞いた低い音。
温かい地下壁。
逃げた山の獣。
街道の亀裂。
ユストは椅子から立ち上がった。
「地下にも?」
「うん」
「町中の地下室から?」
「知らない。でも、うちにはいないよ。いつも夜になると、壁の中でうるさいのに」
ユストは手帳を開いた。
紙の余白へ書く。
レフナ町内、鼠の減少または消失の可能性。
確認者、宿屋の少女一名。
発生時期、前日頃。
書き終えた直後、卓の上の水差しがかすかに鳴った。
器の縁が、木の卓を細かく叩いている。
ユストとリナは、同時に水面を見た。
小さな波が立っていた。
一度。
二度。
食堂の床の下を、低い振動が通り抜ける。
壁に掛けられた皿が触れ合い、澄んだ音を立てた。
宿の奥から、女将の声が飛んでくる。
「荷車でも通ったのかい?」
街道からは、車輪の音も馬の蹄も聞こえない。
振動はすぐに消えた。
何も倒れなかった。
誰も怪我をしていない。
町の外では、夜の鐘が鳴り始める。
レフナは、まだいつもどおりだった。
ユストは報告書をつかんだ。
今度は返事を待つためではない。
町長代理と守備隊長を、今夜のうちに同じ場所へ集めるためだった。
異常はどれも小さかった。
小さすぎて、誰も町を止められなかった。
だが地面の下では、人間より先に鼠たちが、すでに何かを決めていた。




