↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/6

第1話《小さすぎる異常》

 宿場町レフナへ着いた朝、ユスト=カレルは、井戸水を地面へ捨てる女を見た。


 大きな桶を両手で傾けると、灰色がかった水が石畳を流れ、道端の溝へ落ちていく。


 水は濁っていた。


 泥を含んでいるようにも見えたが、前夜に雨は降っていない。空は薄く晴れ、山から下りてくる風も乾いていた。


 女は空になった桶を井戸の縁へ戻し、縄を引き上げ直した。


 水を汲む。


 覗き込む。


 また捨てる。


 宿の前へ止まった馬車から降りたユストは、手にしていた鞄を御者へ預けた。


「今の水は、飲めないのですか」


 声をかけると、女は振り向いた。


 年は四十前後。袖を肘までまくり、頭には薄い布を巻いている。宿の女将なのだろう。


 女はユストの灰色の外套と、胸元に留められた小さな銀札を順に見た。


「中央のお役人さんかい」


「中央監査庁のユスト=カレルです。レフナで報告された地下倉庫の損傷について、確認に来ました」


「倉庫より先に井戸を見るとは聞いてないね」


「今、捨てていたので」


 女は縄から桶を外し、ユストの前へ置いた。


「飲んでみるかい」


 ユストは水面を見下ろした。


 完全に濁っているわけではない。底も見える。しかし、日の光が当たると、水の中に細かな銀色の粒が漂っていた。


「味に異常が?」


「鉄っぽい。昨日の昼からだよ」


「この井戸だけですか」


「町の井戸を全部飲み比べるほど暇じゃないさ」


「失礼しました」


「謝るくらいなら、まず嗅いでみな」


 言われたとおり、水面へ顔を近づける。


 湿った石と、古い金属に似た匂いがした。血の匂いにも少し似ている。


「飲んだ人に体調の変化は?」


「腹を壊した客が二人。けど、旅人が腹を壊すなんて珍しくもない。昨日食べた豆が悪かったのかもしれないしね」


 女は新しい水を汲むため、もう一度桶を落とした。


 縄が井戸の中へ滑っていく。


 底へ着く音がしたあと、少し遅れて、別の音が返ってきた。


 低い音だった。


 水面を叩く音ではない。


 石の奥で、大きな扉がゆっくり動いたような響きだった。


 ユストは井戸の縁へ手を置いた。


 振動は感じない。


「今の音は、いつもしますか」


「井戸へ桶を落としたら音くらいするよ」


「二つ聞こえました」


「山の町は、何でも響くんだ」


 女は縄を引き上げた。


 腕の動きに迷いはなかった。毎朝、何十回も繰り返している仕事なのだろう。


 だが、汲み上げた水へ口をつけようとはしなかった。


 ユストは外套の内側から小さな手帳を取り出した。


 日付。


 到着時刻。


 天候。


 井戸水に金属臭あり。


 前日昼頃より発生。


 腹部不調二名。ただし井戸水との因果関係は不明。


 最後に、井戸から低い反響音あり、と書き加えた。


 女が横目で手帳を見る。


「倉庫を見に来たんじゃなかったのかい」


「それも見ます」


「何でも書くんだね」


「必要かどうかは、後で判断します」


「書かれた方は、後で消せないけどね」


 ユストの筆が一瞬だけ止まった。


 女は返事を待たず、桶を持って宿へ戻っていく。


 入口の上には、風雨で色の落ちた看板が下がっていた。


 《跳ね鹿亭》。


 その文字の下から、小さな顔が覗いた。


 十歳ほどの少女だった。


 黒い髪を肩の上で乱雑に切り揃え、手には皮を剥きかけた芋を持っている。


 少女はユストと目が合うと、戸の陰へ隠れた。


 すぐに、片目だけを出す。


「お母さん。その人、井戸も直せるの?」


「記録する人だよ」


 宿の奥から女の声が返ってくる。


「記録したら直る?」


「直らない」


「じゃあ、何のために来たの?」


 女の返事はなかった。


 ユストは手帳を閉じた。


 その問いには、自分で答えるべきなのだろう。


「何が起きているかを調べるためです」


 少女が戸の陰から半分ほど出てくる。


「分かったら直る?」


「直せる人へ伝えられます」


「その人は、すぐ来る?」


 ユストは答えられなかった。


 中央監査庁は、各地で起きた事故や災害の報告を集める役所だ。


 ユストの仕事は、現地で何が起きたのかを確かめ、紙へ残し、判断する権限を持つ者へ届けることだった。


 倉庫を修理する技術はない。


 井戸を浄化する魔法も使えない。


 町の住民へ避難を命じる権限もない。


 少女が首を傾げた。


「分からないの?」


「誰が必要になるかによります」


「難しいね」


「そうですね」


 少女は芋を持ったまま外へ出てきた。


「わたし、リナ。倉庫なら知ってるよ」


     ◇


 地下倉庫は、宿から北へ三本目の路地にあった。


 レフナは山と川に挟まれた町だった。


 中央を街道が南北へ通り、その両側に宿、食堂、馬具店、商人の倉庫が並んでいる。町の北端から先は斜面になっており、さらに上には、長く使われていない鉱山跡があった。


 川は町の東側を流れている。


 西側には山肌を削って作られた旧街道があり、現在は荷車一台が通れる程度の幅しか残っていない。


「中央の道が南へ行く道。橋を渡ったら東の町。あっちは昔の鉱山」


 リナは芋の皮を剥きながら、指先で町の方角を示した。


「歩きながら刃物を使うのは危険です」


「これは刃物じゃないよ。芋剥き」


 手にしているのは、薄い鉄片へ木の柄を付けた小刀だった。


「十分に刃物です」


「お役人さんは、転んだことないの?」


「あります」


「じゃあ、気をつけても転ぶんだね」


 リナは納得したように頷き、そのまま芋を剥き続けた。


 地下倉庫の入口では、二人の男が荷箱を運び出していた。


 石造りの建物の下へ、急な階段が続いている。


 入口の脇には縄が張られ、《立入注意》と書かれた札が下がっていた。


「中央監査庁から来ました」


 ユストが銀札を見せると、年長の男が汗を拭った。


「昨日、報告を出したばかりだぞ。ずいぶん早いな」


「近隣の町で別件を確認していました。報告を受け、こちらへ回りました」


「別件って?」


「河岸倉庫の荷崩れです」


「それと、うちの壁に何の関係がある」


「今のところ、関係はありません」


 男は不満そうに鼻を鳴らした。


 ユストは手帳を開いた。


「地下壁の亀裂を最初に確認したのは?」


「俺だ。昨日の朝」


「前日にはありませんでしたか」


「さあな。毎日、壁を数えてるわけじゃない」


「亀裂以外の変化は?」


「中へ入れば分かる」


 階段を下りるにつれ、空気が変わった。


 地下特有の冷たさはある。


 だが、その奥に、乾いた熱が混じっていた。


 倉庫には酒樽と乾燥豆の袋、塩漬け肉を詰めた木箱が並べられている。床には薄く水が溜まっていた。


 北側の壁に、縦の亀裂が走っている。


 人の背丈より少し高い位置から始まり、床近くまで続いていた。


 幅は指の爪ほど。


 壁が崩れるほどには見えない。


「石組みがずれたのですか」


「それなら報告なんか出さない」


 男は亀裂から少し離れた壁へ手を当てた。


「触ってみろ」


 ユストは革手袋を外し、同じ場所へ掌を当てた。


 温かい。


 日向に置かれた石ほどではない。しかし地下倉庫の壁としては明らかに不自然だった。


 掌を横へ滑らせる。


 亀裂の周辺だけではない。北側の壁全体が、薄く熱を持っている。


「いつからですか」


「三日前には、酒樽の一つがぬるくなってた」


「なぜその時点で報告しなかったのです」


「春先だぞ。少し温かい日もある」


「地下倉庫で?」


「だから昨日、報告した」


 責めるつもりで尋ねたわけではなかった。


 だが、男は責められたと感じたらしい。


 ユストは質問を変えた。


「この壁の向こうには何がありますか」


「山だ」


「空洞や地下道は?」


「昔の鉱山の坑道が、町の下まで伸びてたって話はある。百年以上前に塞いだはずだ」


「塞いだ場所の記録は?」


「鉱山管理所に聞け」


 男は運び出しかけていた酒樽へ手をかけた。


「町の連中は、今夜もここへ荷を置くつもりだ。危ないなら危ない、問題ないなら問題ない。早く決めてくれ」


「私は決定できません」


 男の手が止まる。


「何のために来た」


 朝、リナがしたのと同じ質問だった。


「確認し、報告するためです」


「報告を待ってる間に壁が崩れたら?」


 ユストは亀裂を見た。


 今すぐ崩れる兆候は見えない。


 だが、崩れないとも言い切れない。


「少なくとも、北側の壁から荷を離してください。地下への立ち入りは、一度に二人までに」


「命令か?」


「提案です」


「責任は?」


「私には、倉庫の使用を止める権限がありません」


 男はしばらくユストを見ていた。


 やがて、壁際に残っていた木箱を持ち上げる。


「二人までだ!」


 階段の上へ向かって怒鳴った。


「入る奴は名前を書け! 北の壁には寄るな!」


 それはユストの命令ではなかった。


 倉庫の管理人が、自分の責任で決めたことだった。


 ユストは手帳に記録する。


 地下北壁に亀裂。


 周辺壁面に温度上昇。


 開始時期不明。三日前、保管酒の温度変化あり。


 地下旧坑道との関連、不明。


 使用停止権限者、未確認。


 最後の一行を書いたところで、床の水が揺れた。


 小さな波紋が、壁際からこちらへ広がってくる。


 荷を運んでいた男たちは気づいていない。


 ユストは息を止めた。


 揺れは一度だけだった。


「今、何か動きましたか」


「樽なら運んでる」


「床が揺れました」


「荷箱を落としたんだろ」


 上から返事が来る。


 ユストはしゃがみ、床の水へ指先を近づけた。


 水はもう動いていない。


 手帳へ、《地下振動の可能性・確認者一名》と書き加えた。


     ◇


 町の医務所には、七人の患者がいた。


 寝台は四つしかなく、三人は壁際の椅子へ座っている。


 咳をする者。


 腹を押さえている者。


 頭痛を訴える者。


 症状はばらばらだった。


「全員、井戸水を飲んだのですか」


「町の人間なら、だいたい飲んでるわ」


 医務官のセラは、患者の瞼を指で持ち上げながら答えた。


 三十歳ほどの女だった。


 淡い茶色の髪を後ろでまとめ、白い上着の袖には薬草の染みが付いている。


「水が原因とは限らない。昨日から寒暖差が大きいし、旅人は疲れている。豆の煮込みを食べた者も多い」


「共通点は?」


「この町にいたこと」


「それでは広すぎます」


「だから困ってるの」


 セラは患者の胸へ手をかざした。


 指の間に淡い光が生まれ、咳をしていた男の呼吸が少しずつ落ち着いていく。


 ヒールは傷や炎症を和らげる。


 しかし原因まで消す魔法ではない。


「重症者は?」


「いない。全員、今のところはね」


「発症した時刻は」


「一番早い人で昨日の夕方。あとは夜から今朝」


「町のどこにいたか分かりますか」


「宿、馬具店、南門近くの家、川沿いの倉庫。ばらばら」


 セラは机の上から薄い紙束を取った。


「私が分かる範囲では書いた。食べた物、飲んだ水、寝ていた場所。だけど医務所は患者を治す場所よ。町の地図まで作る余裕はない」


 ユストは紙束を受け取った。


「お借りしても?」


「持っていかれると困る」


「写します」


「今日中に返して」


「必ず」


 紙をめくる。


 七人のうち五人が、前日に北側の井戸を利用している。


 残る二人は不明。


 地下倉庫へ出入りした者は一人だけだった。


「鉱山跡に関係する仕事をした人は?」


「今のレフナに鉱夫はいない」


「山へ入った者は」


「猟師ならいるかもしれない。守備隊へ聞いて」


 セラは次の患者へ向き直りかけ、ふと手を止めた。


「そういえば」


「何でしょう」


「昨日、猟師が一人来た。怪我じゃないから帰したけど」


「何の用で?」


「山から獣が下りてこないって」


「下りてこないことを相談に?」


「逆。普段は山にいる獣が、南側へ逃げたらしい。罠も全部空だったって」


「いつからですか」


「知らない。本人へ聞いて」


「名前は?」


「ボルツ。西門の近くに住んでる」


 ユストは手帳へ書いた。


 井戸水。


 地下壁。


 患者。


 山から逃げる獣。


 今の段階で、それらを一つの異常だと決める根拠はない。


 関係があると考えれば、すべてが兆候に見える。


 関係がないと考えれば、春先の町で起きる小さな問題にすぎない。


 ユストは、そのどちらも書かなかった。


     ◇


 西門近くの街道では、石畳へ細い亀裂が走っていた。


 街道管理人のオルグは、木の定規を溝へ差し込み、幅を確かめている。


「今朝は爪の先くらいだった」


 ユストが近づくと、挨拶より先に言った。


「今は?」


「爪二枚分だ」


「広がっている?」


「石が乾いて見え方が変わっただけかもしれん」


 亀裂は、山側から道を斜めに横切り、川側の土へ消えている。


 荷車は問題なく通れる幅だ。


 オルグは亀裂の両側へ白い粉で印を付けた。


「ここから広がれば分かる」


「通行を止めますか」


「この程度で止めたら、春の街道なんか全部閉鎖だ」


「地下で何か動いている可能性は?」


「山の町では、地面も動く」


 朝から何度も聞いた言葉だった。


 井戸は響く。


 地下室は温かくなることもある。


 旅人は腹を壊す。


 獣が移動する年もある。


 街道には亀裂が入る。


 どれも、この土地では起こり得ることだった。


「もし道を閉じる場合、迂回路は?」


 ユストが尋ねると、オルグは西側の斜面を指した。


「旧道がある。ただし荷車は一台ずつだ。雨が降れば使えん」


「東側は?」


「橋を渡れば隣町へ行ける。だが川が増えたら閉める」


「南へは」


「中央街道。そのための道だ」


「北側で問題が起きた場合、住民はどちらへ逃げますか」


 オルグが定規を引き抜いた。


「町長に聞け」


「避難経路を管理するのは、街道管理人では?」


「道を通せるかどうかは俺が決める。誰をどこへ逃がすかは、俺の仕事じゃない」


 それは責任逃れではなかった。


 オルグは街道を守る者として、自分の権限を正確に理解している。


 ユストも、記録補助官として同じことをしている。


 自分の仕事ではないことを、勝手に決めない。


 それが正しい働き方だと教えられてきた。


 ユストは亀裂の横へしゃがんだ。


 耳を近づけても、地面の下から音は聞こえない。


 ただ、亀裂の奥から上がってくる空気は、地表より少しだけ温かかった。


     ◇


 町の北へ向かう途中で、鐘が鳴った。


 昼を知らせる鐘だった。


 一度目が大きく響き、山肌へぶつかって返ってくる。


 二度目。


 三度目。


 町の人々は足を止めない。


 店の戸が開き、食事の匂いが街道へ流れ出す。荷車の御者は馬へ水を与え、宿の使用人たちは洗濯物を取り込んでいた。


 レフナは、いつもどおりに動いている。


 ユストの手帳の中にだけ、小さな異常が増えていく。


 井戸水の金属臭。


 地下壁の温度上昇。


 床の振動。


 軽症患者七名。


 山から逃げる獣。


 広がった可能性のある街道の亀裂。


 どれも、町を止めるには小さすぎた。


 しかし、何も起きていないと言うには多すぎた。


「お役人さん!」


 後ろからリナの声がした。


 振り返ると、少女が走ってくる。


 片手には布に包んだパン。もう一方には、朝から剥いていた芋がある。


「お母さんが、昼ごはん持っていけって」


「私に?」


「お金は取るって」


「それは当然です」


 リナはパンを差し出し、ユストの手帳を覗き込んだ。


「いっぱい見つかった?」


「まだ、見つかったとは言えません」


「書いてあるのに?」


「書いてあることが、全部つながっているとは限りません」


「つながってたら?」


「判断できる人へ、急いで伝えます」


「誰?」


 ユストは答えるため、頭の中で順番を確認した。


 地下倉庫は町の商務管理。


 旧坑道は鉱山管理所。


 街道は街道管理人。


 井戸と住民の生活は町長府。


 患者は医務所。


 魔物や山の異変は守備隊。


 複数の管轄に関わる災害なら、領主府へ緊急報告を出す。


 ユスト自身に決定権はない。


「まず、町長代理と守備隊へ話します。その後、鉱山管理所と領主府へ報告を送ります」


「いっぱいだね」


「必要な相手へ知らせなければなりません」


「誰が一番偉いの?」


「問題によります」


「みんなが違うこと言ったら?」


 ユストは少女を見た。


 リナは試すような顔をしているのではない。本当に分からないから尋ねている。


「その時は、決める権限を持つ人へ判断を求めます」


「その人は誰?」


 再び、答えが詰まった。


 複数の部署にまたがる緊急事態なら、町長代理が住民対応を決め、守備隊長が安全確保を行う。街道閉鎖はオルグが判断し、鉱山跡への立ち入りは鉱山管理所の許可が必要になる。


 では、誰が最初に全員を動かすのか。


 ユストは、その手順を知らなかった。


 中央監査庁から持たされた規定集にも、町ごとの指揮系統までは書かれていない。


「確認します」


「また確認?」


「分からないまま、分かったとは言えません」


 リナはパンの包みをユストへ押しつけた。


「冷める前に食べた方がいいよ」


     ◇


 午後、ユストは町長代理と守備隊へ面会を求めた。


 どちらからも、先に報告書をまとめてほしいと言われた。


 町長代理は夕方まで来客が続く。


 守備隊長は北の見張り所を巡回中。


 鉱山管理所の技師は、三日前から隣町へ出ている。


 戻るのは早くても翌日の昼だった。


 ユストは跳ね鹿亭へ戻り、食堂の隅に机を借りた。


 集めた記録を並べる。


 井戸の位置。


 患者が滞在していた場所。


 地下倉庫。


 街道の亀裂。


 山から逃げた獣が見つかった方角。


 宿から借りた町の地図へ、一つずつ印を付ける。


 井戸は町の北寄り。


 地下倉庫も北側。


 亀裂は北西から南東へ走っている。


 患者は町中に散らばっているが、五人が北井戸を使っている。


 獣は山の北側から南へ逃げた。


 旧鉱山は、そのさらに北にある。


 紙の上では、すべてが町の北へ集まって見えた。


 ユストは、すぐに結論を書かなかった。


 地図の見え方に引きずられている可能性がある。


 患者二人は北井戸を利用したか分からない。


 亀裂が地下の異常によるものかも不明。


 獣の移動には季節的な理由があるかもしれない。


 それでも、今まで別々だった情報が、一枚の地図へ載った。


 ユストは新しい紙を出した。


 表題を書く。


 《レフナ北部における複数異常の関連可能性について》


 事実と推測を分ける。


 確認された事実。


 未確認の証言。


 関連が疑われる事項。


 必要な追加調査。


 住民避難の要否については、判断権限者による早急な検討を求める。


 最後の一文を書いたところで、窓の外が暗くなった。


 ユストは報告書を読み返した。


 強すぎないか。


 弱すぎないか。


 不確かな情報で町を騒がせることにならないか。


 逆に、慎重な言葉へ整えすぎて、危険が伝わらなくならないか。


 筆先が止まる。


 三度読み直し、文末へ一行を追加した。


 《各事象は単独では軽微であるが、同時期かつ近接地域に発生しているため、個別事案として処理せず総合的な確認を要する》


 これ以上は、ユストの判断で書けなかった。


「まだ仕事してるの?」


 食堂の入口からリナが顔を出した。


 両手には、夕食に使ったらしい木の皿を抱えている。


「報告書が終わっていません」


「朝からずっと書いてる」


「調べるものが多かったので」


「町、危ないの?」


 ユストは地図を伏せなかった。


 子どもを安心させるために、何も問題はないと言うこともできた。


 だが、安全だと確認できてはいない。


「まだ分かりません」


「みんな、そう言うね」


「ほかの人にも聞いたのですか」


「井戸の水は大丈夫かって聞いたら、お母さんも分からないって。地下の壁は壊れるのって聞いたら、倉庫のおじさんも分からないって。道は割れるのって聞いたら、オルグさんは明日見れば分かるって」


 リナは皿を卓へ置き、地図を覗き込んだ。


「分からないことが、いっぱいあるね」


「だから調べています」


「分かった時には、間に合う?」


 ユストは返事を探した。


 この町へ来てから、何度目かの答えられない問いだった。


 窓の外で、猫が鳴いた。


 食堂の壁際に置かれた袋が、小さく動く。


 リナがそちらを見た。


「猫、ずっと機嫌悪いんだ」


「どうしてですか」


「食べるものがないから」


「餌を与えていないのですか」


「違うよ」


 リナは不思議そうに言った。


「鼠がいないの」


 ユストの指が、地図の端で止まった。


「いつからですか」


「昨日かな。厨房にも、地下にも、一匹もいない。お母さんは喜んでたけど」


 朝、井戸の横で聞いた低い音。


 温かい地下壁。


 逃げた山の獣。


 街道の亀裂。


 ユストは椅子から立ち上がった。


「地下にも?」


「うん」


「町中の地下室から?」


「知らない。でも、うちにはいないよ。いつも夜になると、壁の中でうるさいのに」


 ユストは手帳を開いた。


 紙の余白へ書く。


 レフナ町内、鼠の減少または消失の可能性。


 確認者、宿屋の少女一名。


 発生時期、前日頃。


 書き終えた直後、卓の上の水差しがかすかに鳴った。


 器の縁が、木の卓を細かく叩いている。


 ユストとリナは、同時に水面を見た。


 小さな波が立っていた。


 一度。


 二度。


 食堂の床の下を、低い振動が通り抜ける。


 壁に掛けられた皿が触れ合い、澄んだ音を立てた。


 宿の奥から、女将の声が飛んでくる。


「荷車でも通ったのかい?」


 街道からは、車輪の音も馬の蹄も聞こえない。


 振動はすぐに消えた。


 何も倒れなかった。


 誰も怪我をしていない。


 町の外では、夜の鐘が鳴り始める。


 レフナは、まだいつもどおりだった。


 ユストは報告書をつかんだ。


 今度は返事を待つためではない。


 町長代理と守備隊長を、今夜のうちに同じ場所へ集めるためだった。


 異常はどれも小さかった。


 小さすぎて、誰も町を止められなかった。


 だが地面の下では、人間より先に鼠たちが、すでに何かを決めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。