↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
6/6

最終話《名前を数える夜》

 レフナの災害から十日が過ぎた。


 南門外の牧草地には、白い布を張った仮設の建物が並んでいる。


 町長府。


 医務所。


 炊き出し場。


 救援物資の保管所。


 家を失った者たちの寝床。


 布壁の間には踏み固められた道ができ、その上を、杖をつく老人や包帯を巻いた住民、木材を運ぶ兵たちが行き交っていた。


 北から流れてくる風には、まだ濡れた石と鉱物の匂いが残っている。


 町へ入れるのは、救助隊と調査を許された者だけだった。


 地下には熱が残り、建物の下に空洞ができている。街道の亀裂も完全には塞がっていない。


 それでも、南側から少しずつ瓦礫が片づけられ、使える井戸と道が確かめられていた。


 人々は、失われた町の隣で生活を始めている。


 ユスト=カレルは、仮設町長府の隅に置かれた机で、三百十二人の名前を読んでいた。


 最初の頁から、一人ずつ。


 名前。


 年齢。


 住んでいた場所。


 最後に目撃された場所。


 発見場所。


 本人を確認した者。


 旅人については、出身地や所属する組合も記してある。


 身元確認に時間がかかった者には、衣服や所持品、身体的な特徴も残した。


 もう人数は変わらない。


 領主府へ送った災害速報にも、死亡者三百十二名と記されている。


 それでもユストは、毎日一度、最初から最後まで読み直していた。


「死亡者名簿は、すでに提出されたと聞いたが」


 机の前から声をかけられた。


 中央監査庁から派遣された調査官だった。


 年は五十前後。


 旅塵のついた灰色の外套を脱ぎ、腕へ掛けている。胸元には、ユストのものより二回り大きな銀札が下がっていた。


 調査団は前日の夕方に到着した。


 領主府の役人、鉱山管理局の技師、街道管理局の監督官を伴い、災害の原因と避難の遅れを調べるために来ている。


「提出したものは写しです」


 ユストは答えた。


「原本を読んでいたのか」


「はい」


「訂正が必要になった?」


「いいえ」


「では、何を確認している」


 ユストは頁へ目を落とした。


「三百十二人のままかどうかを」


 調査官は名簿を覗き込んだ。


「人数なら、最後の頁にあるだろう」


「あります」


 最終頁には、集計が記されている。


 住民。


 旅人。


 年齢不詳者。


 身元確認に時間を要した者。


 それらを合わせた合計は三百十二。


「最初から読む必要はない」


 調査官はそう言ったが、ユストの手から名簿を取り上げようとはしなかった。


「聞き取りを始める。記録担当として同席してくれ」


「承知しました」


 ユストは名簿を閉じた。


 布で包み、机の端へ置く。


 その上には、災害の夜に作ったもう一枚の紙が重ねられていた。


 異常を確認する者。


 報告を集める者。


 避難を判断する者。


 鐘を鳴らす者。


 避難路を開ける者。


 家々を確認する者。


 戻らない者を探す者。


 避難完了を確かめる者。


 災害前、その多くは空欄だった。


     ◇


 最初に呼ばれたのは、町長代理のマレクだった。


 災害前よりも、さらに痩せて見えた。


 髪は整えられていたが、頬には剃り残しがあり、両手には包帯が巻かれている。避難後、瓦礫の運搬を手伝って傷を負ったものだった。


 調査官の向かいへ座ると、背筋を伸ばした。


「最初に地下の異常を報告されたのは、いつですか」


「災害前日の夜です」


「それ以前にも、井戸や地下倉庫の異常は把握していた?」


「個別の報告としては」


「なぜ、一つの災害の兆候として扱わなかった」


 マレクは少し間を置いた。


「井戸は生活用水の問題。地下倉庫は建物の問題。街道の亀裂は街道管理人。鉱山跡は鉱山管理所の管轄でした」


「つまり、担当が別だった」


「はい」


「ユスト=カレル記録補助官が、それらに関連がある可能性を報告した後も、避難を命じていません」


「命じませんでした」


「理由は」


「危険を断定できなかったからです」


 マレクは視線を逸らさなかった。


「夜間の避難には危険がありました。北街道には亀裂があり、南街道には荷車が並んでいた。病人や老人を移す場所も決まっていなかった。鉱山技師も不在でした」


「誤報だった場合、宿場としての信用を失うことも考えた」


「考えました」


「町の商売を、人命より優先したのですか」


 マレクの指が膝の上で動いた。


「町の商売も、人の生活です」


「質問に答えてください」


「どちらか一方を選んだつもりはありません」


「結果として、避難は遅れた」


「はい」


 マレクは短く答えた。


「私が決めませんでした。避難を命じられる立場にいたのは私です。責任は私にあります」


 仮設建物の外から、木材を打つ音が聞こえた。


 規則正しい音だった。


 誰かが、倒れた家の代わりとなる壁を作っている。


 調査官は記録用紙へ何かを書いた。


「最初の地下振動が報告された時点で避難させていれば、被害は減ったと思いますか」


「減ったと思います」


「では、判断の遅れが主な原因だと認める?」


「認めます」


 ユストの筆が止まった。


「違います」


 マレクと調査官が、同時にユストを見る。


 調査官の眉が動いた。


「記録担当には、後で発言を求める」


「今の答えを、そのまま原因にしないでください」


「町長代理自身が認めています」


「避難判断が遅れたことは事実です」


「なら、何が違う」


 ユストは、机の上の記録へ目を落とした。


「マレク殿一人の判断が早ければ救えた、という結論にすることです」


「実際、早ければ救えたのではないか」


「はい」


「では正しい」


「次の町長代理も、同じ時に正しく決められるとは限りません」


 調査官は黙った。


「続きを聞こう」


 マレクへ向き直る。


「あなたは、危険が確定するまで待った」


「はい」


「誰の報告を待っていましたか」


「守備隊長、医務官、街道管理人、鉱山管理所です」


「その報告が揃う期限は」


 マレクは答えられなかった。


「揃わなかった場合の手順は」


「ありませんでした」


「判断できない時、誰が代わるかは」


「私が判断者でした」


「あなたが負傷、または連絡不能になった場合は」


「決まっていませんでした」


 調査官の筆先が、紙の上で止まった。


     ◇


 守備隊長ディノスは、右肩を布で吊っていた。


 倒壊家屋から子どもを救出した際、梁の下敷きになりかけたためだった。


「鉱山口の小規模崩落後、町の危険を認識していましたか」


「していた」


「なぜ、守備隊長の権限で避難させなかった」


「私が独断で避難を命じられるのは、外敵、魔物、火災など、守備上の緊急事態だ」


「地下災害は含まれない?」


「規定にはなかった」


「規定になくても、人が死ぬと判断すれば動けたのでは」


 ディノスはしばらく調査官を見た。


「動いた」


「避難命令は出していない」


「鉱山口を封鎖し、巡回を増やした。非番兵を南門へ置き、北側の家を回らせた。崩落後は、命令を待たず救助へ入った」


「町全体を動かす判断はしなかった」


「町長代理の仕事だ」


「それが、誰も責任を取らなかった原因では?」


 ディノスの顔が険しくなった。


「違います」


 ユストは再び口を挟んだ。


 調査官が視線だけを向ける。


「今度は何だ」


「ディノス隊長は、自分に決められることは決めています」


「町長代理も、守備隊長も、自分には決められないと言った。違うのか」


「違います」


 ユストは、昨夜までの記録を開いた。


「町長代理は北井戸を止め、地下倉庫を閉鎖し、監視体制を作りました。ディノス隊長は鉱山口を封鎖し、巡回を増やし、倒壊後は救助に入りました」


「だが、避難は遅れた」


「はい」


「ならば、肝心なことを決めなかった」


「避難という一つの判断だけが、何人もの報告の先に置かれていたからです」


 調査官は腕を組んだ。


「続けろ」


「守備隊長が危険だと感じても、鉱山災害かどうかは技師でなければ断定できない。医務官が患者の増加を見ても、井戸や鉱山との関係は分からない。街道管理人が道を閉じれば、避難路が減る。全員が自分の範囲で動きました」


「範囲を越えなかったことが問題ではないのか」


 ディノスが答えた。


「最後には越えた」


 調査官が彼を見る。


「家を壊した。住民を勝手に動かした。隊の配置も変えた。誰も許可を取りに戻っていない」


「その時には、町が崩れていた」


「そうだ」


 ディノスは左手を握った。


「危険が誰にでも見える形になってからなら、俺たちは動けた」


     ◇


 医務官セラは、聞き取りの途中でも何度か席を立った。


 仮設医務所には、今も重傷者がいる。


「患者の増加を、災害の兆候として報告しなかったのですか」


「報告したわ」


 セラは疲れを隠さず答えた。


「七人。腹痛、頭痛、咳。重症者はいなかった。症状もばらばらだった」


「井戸水を飲んでいた」


「町の半分が同じ井戸を使っていた。七人だけを根拠に、井戸が原因とは言えない」


「医務官として、避難を提案することは」


「患者を南側へ移すことは提案した。町全体を動かす判断はできない」


「権限がないから?」


「それもある」


 セラは机へ身を乗り出した。


「病気の原因が感染症なら、人を一か所へ集めることで被害が増えることもある。私は医務官よ。分からないものを分かったと言えば、人を殺す」


 調査官は一度頷き、質問を変えた。


「避難後、患者の名簿が混乱した原因は」


「治療を優先したから」


「記録しなかった?」


「した。できる限り」


「それでも、誰を誰から引き継いだか分からなくなった」


 セラの目が、ユストの方へ向いた。


 リナのことを考えたのだろう。


「私のところへ来た人は記録した」


 セラは言った。


「来る予定だった人までは、分からない」


「到着予定者の一覧があれば?」


「来なかった人に気づけた」


「誰が、その一覧を作るべきだったと思いますか」


 セラは答えなかった。


 医務官ではない。


 守備隊でもない。


 町長府の書記官は、住民台帳と救助報告を集めていた。


 誰の仕事にも、引き渡した者が到着したかを確かめる役割はなかった。


     ◇


 街道管理人オルグは、早い段階で亀裂を確認していた。


「なぜ北街道を閉じなかった」


「亀裂が荷車の通行を妨げる幅ではなかったからだ」


「閉じていれば、犠牲者が減った可能性は」


「増えた可能性もある」


「なぜ」


「北側から町を出られる道が一つ減る。南へ荷車が集中する。実際、南街道は詰まった」


「事前に荷車を撤去できなかったのか」


「災害が確定していないのに、旅人の財産を強制的に動かす権限はない」


「災害後は斧で壊した」


「あの時は、人が詰まって死ぬところだった」


「つまり、早く壊す判断ができれば」


「できるわけがない」


 オルグは声を強めた。


「翌朝、何も起きなければ、俺は商人の荷を壊した男になる。町長府が弁償してくれるのか。中央が責任を取るのか」


 調査官は答えなかった。


「だから壊さなかった。それは間違いだったかもしれん。だが、次の街道管理人に《危ないと思ったら壊せ》とだけ言うのか」


 オルグはユストの方を見た。


「何を見た時に、どこまでやっていいか。それが決まってなければ、また同じだ」


     ◇


 鉱山管理所のネイラントは、自分の前へ置かれた古い図面を何度も見下ろした。


「最新の封鎖図を開けなかったそうですね」


「技師長の鍵が必要でした」


「緊急時の開錠手続きは」


「資格を持つ技師の確認が必要です」


「その技師が不在だった」


「はい」


「扉を壊すことは考えなかった?」


「考えました」


「なぜしなかった」


「私が見ても、図面のどこが危険か判断できないからです」


「図面があれば、排熱路の位置を早く把握できたかもしれない」


「間違った図面を信じて、人を危険な場所へ逃がしたかもしれません」


 ネイラントの手は、災害の夜と同じように震えていた。


「西倉庫が危険だと気づいたのは、古い図面を見たからです。けれど、確実ではなかった。私は住民へ《分からない》としか言えなかった」


「それでも、避難させた」


「もう蒸気が出ていました」


「見える危険になってから」


「はい」


 調査官は図面を閉じた。


 聞き取りを終えた者たちは、仮設建物の外へ出ていった。


 誰も、自分は悪くないとは言わなかった。


 マレクは自分の判断が遅れたと認めた。


 ディノスは救助隊を重複させたことを悔やんでいた。


 セラは到着しなかった者へ気づけなかった。


 オルグは道を早く空けなかった。


 ネイラントは鍵のかかった記録庫を開けなかった。


 ユストも、リナを守備兵へ託したことを、到着したことのように考えた。


 全員に、別の行動を選べた瞬間はあった。


 だが、後からなら選べる正解を、その時の誰も持っていなかった。


     ◇


 《白銀の剣》からの正式な報告も届いていた。


 レフナから救援要請を受けた時、英雄一行は西山地にいた。


 崖崩れによって川が堰き止められ、三つの村が水没する寸前だった。


 英雄ラウル=セインは、崩れた岩盤を破壊して水路を作り、仲間たちは村人の避難を助けていた。


 彼らがレフナへ向かえば、西の村で多数の死者が出た可能性が高い。


 調査官は報告書を机へ置いた。


「英雄一行がレフナへ来ていれば、被害は減ったと思いますか」


 ユストは答えた。


「減ったと思います」


「地下の異常を感知し、避難を助けられたかもしれない」


「はい」


「では、英雄が来なかったことも被害の原因になる?」


「いいえ」


 ユストの返答に迷いはなかった。


「なぜ」


「英雄は、別の町で人を救っていました」


「救援要請は届いていた」


「一人の英雄が、同じ夜に二つの土地へ行くことはできません」


「強力な英雄を増やせばよいという考えもある」


「増えた英雄より、災害が少ないとは限りません」


 調査官は椅子の背へ体を預けた。


「では、何を原因とする」


 ユストは、災害前夜から使っている紙を机へ広げた。


「英雄が来なかったことではありません」


 空欄の残る役割表。


「来ない時に何をするかを、決めていなかったことです」


     ◇


 調査団が作った報告書の原案には、こう書かれていた。


 《人的被害拡大の主因は、町長代理による避難判断の遅延にある》


 事実ではあった。


 マレクが早く決断していれば、犠牲者は減った可能性が高い。


 しかしユストは、その一文の下へ意見書を付けた。


 調査官が目を通し、尋ねる。


「町長代理の責任を軽くしたいのか」


「違います」


「では、なぜ反対する」


「これだけを原因にすれば、次は決断の早い町長代理が任命されるだけです」


「それではいけない?」


「その人が病気になったらどうしますか」


「代行を置く」


「代行の順番は」


「事前に決めればよい」


「はい」


 ユストは紙を指した。


「それを書いてください」


 調査官の目が細くなる。


「町長代理が優秀なら救える制度では足りません。勇敢な守備隊長なら救える。経験のある医務官なら気づける。判断力のある街道管理人なら道を空けられる。優秀な記録官なら情報をつなげられる」


「それの何が悪い」


「全員が、いつも優秀だとは限りません」


「人の能力には差がある」


「だから、能力のある者だけが救える形にしてはいけません」


 ユストは、空欄の残った紙を調査官の前へ置いた。


「レフナには、人がいました」


 異常を確認した者。


 患者を治療した者。


 道を測った者。


 鉱山口を見張った者。


 避難を決めた者。


 鐘を鳴らした者。


「仕事もありました」


 誰も職務を捨てなかった。


 最後には、誰もが職務の範囲を越えて動いた。


「足りなかったのは、その仕事が次へ渡ったことを確かめる手順です」


 ユストは別の紙を開いた。


 リナの記録だった。


 《守備兵一名へ引き渡し》


 《南門外、医務官セラのもとへ移送予定》


 《予定》には、読み取れるように一本の線が引かれている。


「私は、この子を守備兵へ託しました」


「リナという少女か」


「はい」


「兵は別の兵へ託した」


「誰も、職務を放棄していません」


「それでも少女は町へ戻った」


「託したことを、届いたことにしてしまいました」


 ユストは紙から目を上げた。


「完了を確認する者がいなかったからです」


 調査官は、長い間何も言わなかった。


 仮設町長府の外では、夕食を知らせる鍋が打ち鳴らされている。


 鐘ではない。


 薄い鉄鍋を木棒で叩く、乾いた音だった。


 人々は音を聞き、炊き出し場へ向かっていく。


 今は、その音が何を意味し、どこへ行けばよいのか、全員が知っていた。


「お前なら、何を決める」


 調査官が尋ねた。


 ユストは新しい紙を出した。


 すでに何度も書き直している。


「まず、小さな異常を個別に処理しません」


 井戸。


 地下施設。


 街道。


 患者。


 動物の移動。


「同じ地域、同じ時期に複数の異常が起きた場合、一か所へ報告を集めます」


 調査官は黙って聞いている。


「報告が届かなかった場合は、《異常なし》ではなく《未確認》とします。確認担当が戻らなければ、別の者を向かわせます」


「避難判断は」


「判断者と代行順位を事前に決めます」


「何をもって避難する」


「一つの異常を確定するまで待たない。複数の条件を作ります。地面の振動、井戸の変化、地下温度、街道亀裂、患者増加。そのうち一定数が重なれば、危険を断定できなくても準備を始める」


「何も起きなければ」


「準備による損失を補償する仕組みが必要です」


「金がかかる」


「人が判断を避ける理由を減らせます」


 調査官の口元がわずかに動いた。


「ほかには」


「鐘の合図へ、避難先を含めます。鐘だけで足りないなら、旗や灯りを組み合わせる。区画ごとに家を確認する担当を決め、重複しないよう出発と帰着を記録する」


 ユストは続けた。


「人を別の者へ託す時は、名前、引き渡した者、受け取った者、行き先を記録します。受け取り側から到着確認がなければ、移送は完了にしません」


 リナの紙を閉じる。


「そして、開始だけではなく、終わりを決めます」


「終わり?」


「避難を始める命令だけでは足りません。全員を確認したのは誰か。戻らない者を探すのは誰か。何をもって救助を終了するのか。そこまで決めなければ、最後の一人が残ります」


 調査官は、ユストの手順案を手に取った。


「これは、お前が作ったのか」


「はい」


「記録補助官の職務ではない」


「分かっています」


「正式な命令もない」


「ありません」


「中央へ持ち帰っても、採用されるとは限らない」


「それでも、提出します」


 調査官は最初の頁から読み始めた。


「名称は」


「まだありません」


「何のための手順だ」


 ユストは、布に包んだ名簿を見た。


「英雄が来ない日にも、人が死なないためのものです」


     ◇


 正式な調査報告書には、町長代理の判断遅延だけでなく、複数の要因が記された。


 旧鉱山排熱設備の劣化。


 封鎖図面の管理方法。


 技師不在時の代行制度の欠如。


 複数部署からの情報を集約する手順の不在。


 避難判断条件の未整備。


 避難先の周知不足。


 救助区画の重複と空白。


 避難者の引き渡しおよび到着確認の不備。


 英雄への救援要請を、到着の保証であるかのように住民が受け取ったこと。


 誰か一人の名前だけでは、三百十二人の死を説明できなかった。


 調査官はユストの手順案を、再発防止案の付属文書として中央へ持ち帰ると決めた。


「採用を約束するものではない」


 そう念を押した。


「はい」


「地方ごとに事情は違う。これほど細かい手順を嫌う者もいる」


「分かっています」


「手順が増えれば、守るための仕事も増える」


「はい」


「それでも必要だと?」


「必要です」


 ユストは答えた。


 この時の彼は、決められた手順によって失われるものを、まだ知らなかった。


 知っているのは、手順がなかったために失われた三百十二人のことだけだった。


     ◇


 中央へ戻る前日、ユストは仮設の炊き出し場を訪れた。


 跳ね鹿亭の女将が、片手で大鍋をかき混ぜていた。


 折れた左腕は、まだ胸の前で固定されている。


「寝ていなくてよいのですか」


「寝てたら腹が減る人間が増えるよ」


「ほかの者へ任せても」


「味が薄い」


「治るまでの間だけです」


「治った頃には、みんな薄味に慣れちまう」


 女将は木杓子ですくったスープを、小皿へ入れてユストへ渡した。


「飲みな」


「代金は」


「記録に付けときな」


 ユストは湯気へ息を吹きかけ、一口飲んだ。


 豆と根菜のスープだった。


 跳ね鹿亭で最初に出されたものより薄い。


 それでも温かかった。


「中央へ戻るそうだね」


「明日の朝に」


「町を調べに来たんじゃなかったのかい」


「調査は続きます。私は、集めた記録を中央へ届けます」


「最初に来た時と同じだ」


 女将は鍋を混ぜ続ける。


「書いて、持っていく」


「はい」


「今度は何を直す人へ渡すんだい」


 第一話で、リナが尋ねたことと同じだった。


 記録したら直るのか。


 分かったら、誰が来るのか。


「これから決めます」


「また先が長いね」


「長くても、途中を空けないようにします」


 女将の手が止まった。


 しばらく鍋の中を見た後、ユストの鞄へ視線を向ける。


「あの子の名前は、そこにあるのかい」


 ユストは鞄から、布に包んだ名簿を出した。


「あります」


「見せてくれるかい」


 リナの頁を開く。


 名前。


 年齢。


 跳ね鹿亭の娘。


 発見場所。


 本人確認者。


 女将は右手の指先で、娘の名前へ触れた。


「こんな字だったかね」


「私の字です」


「あの子の字じゃない」


「はい」


「リナは、自分の名前くらい書けたよ」


 ユストは答えられなかった。


 リナ本人が書いた紙は残っていない。


 宿も、部屋も、少女が使っていた道具も、ほとんどが瓦礫の下にある。


「これしか残せませんでした」


 ユストが言うと、女将は首を横に振った。


「これも残ったんだよ」


 名前から指を離す。


「この名簿は、どうする」


「中央監査庁へ提出します」


「返ってくるのかい」


「保管記録になります」


「誰かが捨てることは」


「させません」


「担当が変わっても?」


 ユストは、女将を見た。


 災害の夜、誰もが自分の仕事をしていた。


 だが次へ渡らなかった。


 人が変われば、記録の扱いも変わる。


「担当が変わっても残る形にします」


 女将は小さく頷いた。


「なら、持っていきな」


「この町へ写しを残します」


「それも頼むよ」


 ユストは名簿を閉じた。


 女将は再び鍋を混ぜ始める。


「ユスト」


「はい」


「あの子を見つけた時、名前を呼んだかい」


「呼びました」


「返事は」


「ありませんでした」


「そうかい」


 女将は、それ以上尋ねなかった。


     ◇


 翌朝。


 中央監査庁へ戻る馬車が、南門外の仮設集落を出た。


 御者台の隣には調査官が座り、荷台には回収した記録や図面が積まれている。


 ユストは最後尾の席で、二つの紙を膝へ載せていた。


 一つは、三百十二人の名簿。


 もう一つは、まだ正式な名前のない災害対応手順案。


 調査官が振り返る。


「中央へ戻った後も、地方事故の記録補助を続けるつもりか」


 ユストは少し考えてから答えた。


「異動願を出します」


「どこへ」


「整序部門です」


 整序官は、災害時の役割や連絡経路を調べ、地方の制度と手順を整える職だった。


 事故が起きた後に記録するだけではない。


 事故が起きる前に、誰が何をするかを決める。


 若い記録補助官が簡単に就ける役職ではなかった。


「整序官になりたいのか」


「はい」


「理由は」


 ユストは窓の外を見た。


 遠ざかっていくレフナ。


 崩れた鐘楼。


 白い布の仮設住居。


 炊き出し場から上がる煙。


 まだ形を失ったままの町で、人々が今日の仕事を始めている。


「私には、人を担いで逃げる力がありません」


 ユストは言った。


「岩を止めることも、地面の下を見ることもできません」


「英雄にはなれないと?」


「はい」


 名簿の布包みへ、片手を置く。


「だから、英雄が来なかった時にも、人が死なない順番を作ります」


 調査官は何も答えなかった。


 ただ、前へ向き直る。


 馬車は街道を進んだ。


 ユストは三百十二人の名簿を布で包み直し、鞄の底へ入れた。


 その上へ、まだ正式な名もない手順書を重ねる。


 名簿は閉じられた。


 だが、順番を書くための紙だけは、中央へ着くまで開かれたままだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。