2.マグナ・インペラトル・ヴィオレ
『――皆様の覚悟、確かに受け取りました。そうした揺るぎない覚悟をお持ちの皆様のために創り上げられた世界です。存分に、第二の人生をお楽しみください! では、プレイヤーの皆様、スタッフの誘導に沿ってハードへの接続をお願いいたします』
明るい調子でそう告げられた直後、モニターを満たしていた青白い光がすっと消え去った。
広い密室にもう一度静けさが降りる。だが先ほどまでとは質が違う。
張り詰めた緊張ではなく、これから何かが始まる予感を孕んだ、かすかに熱を帯びた沈黙だった。
白衣のスタッフたちが一斉に動き出し、軽い足音を残しながら参加者の間を縫って散っていく。
それぞれの担当と思しきカプセルへ、一人また一人と誘導されていった。
私の正面にも一人、業務的な微笑みを浮かべた若い男性スタッフが立った。
「こちらへどうぞ」
案内されるまま歩を進めると、蓋の開いた純白のカプセルが待っていた。
内側は身体の輪郭に沿うよう設計されたクッション材で覆われ、微かに消毒液の匂いが鼻先をかすめる。
「そのまま、仰向けでお入りください。また、長期間の栄養管理のため、こちらのチューブを接続いたします。右腕の袖を捲っていただけますか?」
コートを脱いでシャツの袖をまくり上げ、言われた通りに腕を差し出す。
スタッフは慣れた手つきで消毒を済ませると、先端に針のついた透明なチューブを迷いなく差し込んだ。
小さな痛みが走った直後、冷たい液体が血管を遡っていくような、落ち着かない感覚が広がる。
「ありがとうございます。では、ここから先は現実世界の『真白 政宗』様ではなく、第二の人生を歩む者として、どうか存分にこの世界をお楽しみくださいませ」
スタッフが深く一礼すると同時に、頭上のハッチがゆっくりと下りてくる。
密閉を告げる空気の抜ける音がして、視界が音もなく塗りつぶされていった。
微かに聞こえていた機械音までもが遠のき、代わりに自分の心臓の音だけが、やけにはっきりと存在感を主張し始める。
けれど、その暗闇は長くは続かなかった。
頭の奥で何かが弾けるような感覚があった次の瞬間、視界は焼けつくほどの白に塗り替えられていた。
「……ここは」
意図せず、声が漏れる。
見渡す限り、境界というものが存在しない空間だった。影一つ落ちていない、純粋な余白としか呼びようのない場所。
これがVRデバイスを通して脳へ直接届けられた電気信号による産物だと、理屈ではわかっている。
それでも、この完成度には理屈を超えて驚かされるものがあった。
とりあえず状況を把握しようと、視線を巡らせようとする。
だが、何度試みても視点は動かなかった。
いや、それどころではない。自分の体そのものが、どこにも見当たらないのだ。
右腕を上げようとしても、動いた感触はおろか、腕という部位があるという実感すら得られない。
ただ「自分」という意識だけが、この果てのない空白にぽつりと置き去りにされている。
これまで、どんな局面でも冷静さを崩さず、道筋を組み立てて乗り越えてきたつもりだった。
だが肉体という土台そのものを丸ごと奪われるという経験は、私の中に得体の知れない不安を静かに滲ませていった。
その不安を掻き消すように、視界の中心で小さな光の粒がいくつも渦を巻き始めた。
粒は互いに引き寄せ合うように集まり、やがて手のひらに収まりそうな大きさの少女の輪郭を結んでいく。
淡い緑がかった透明な髪、背には蜻蛉を思わせる二対の羽。光の粉を纏いながら、彼女は宙にふわりと浮かんで静止した。
「ようこそ、『SecondLifeEndPoint』の世界へ! 私はチュートリアル妖精のシエル。あなたの名前を教えてくれる?」
鈴のように澄んだ声が、境界のない白い空間に響いていく。
――名前、か。
尋ねられたのは単純な問いだったが、これまで長く自分を縛ってきた本名を口にしかけて、すんでのところで思いとどまった。
法的な手続きまで踏んで、これまでの人生をすべて手放してここに立っている以上、名を改めることは新しい人生の始まりとしてごく自然な儀式だろう。
とはいえ、どこかの名探偵よろしく適当な文字列を並べる気にもなれない。
長く考え込むつもりはないが、この先の自分の立ち位置を刻み込むような、意味のある名がいい。
「そうだな……ん? 声が聞こえる…?」
口に出した瞬間、違和感に気づいた。
肉体を持たないはずなのに、声は驚くほど自然に出ていた。
喉の震えも、息を押し出す感覚もないというのに、確かに言葉として成立している。
「もちろん、声を出して話せますよ! ぜひあなたの声で名前を聴かせてください!」
シエルが空中でくるりと一回転してみせる。
私は思考を巡らせた。
この世界で成し遂げたいことは、あの日から変わっていない。
論理と対話が正しく機能し、誰の理不尽な都合によっても踏みにじられない、真に安心できる居場所――理想の国家を、この手で築き上げることだ。
事前に得た情報によれば、この世界は現実とほぼ同じ広さを持ち、現実で可能なことのほとんどが実行できるという。
すでに他のプレイヤーたちが打ち立てた国のようなものも、いくつか存在しているらしい。
無からの建国。
その道のりがどれほど困難であるかは、考えるまでもない。
だからこそ、その覚悟と自らへの戒めを、名前そのものに刻んでおくのも悪くないと思えた。
多少大仰で、聞く者によっては嗤われるかもしれない響きだ。
だが、人生を丸ごと手放してここに立つ身には、それくらいがちょうどいい。
「マグナ・インペラトル……いや、これだけだと他と区別がつかなくなる可能性があるな。そうだな、色を追加して……」
考えをまとめながら、私はシエルの瞳の辺りを見据えるつもりで、静かに、しかしはっきりと告げた。
「『マグナ・インペラトル・ヴィオレ』。これが、この世界での私の名前だ」
大いなる支配者、そして高貴なる紫。
誰かを従えるためではなく、揺るがぬ土台として在り続けるという、自分自身への宣言のつもりだった。
「マグナ・インペラトル・ヴィオレ、ですね! わかりました! 教えてくれてありがとうございます!」
シエルは満面の笑みを浮かべると、手にした小さな杖を軽く振るった。
その瞬間、何もなかったはずの白い空間に、淡く発光する無数のウィンドウが次々と浮かび上がっていった。




