第5話 会話
アパートへ戻る頃には、雨足が少し強くなっていた。
真昼は傘を畳み、濡れた階段を上がる。
二〇三号室。
見慣れたはずのドアの前で、足が止まる。
帰りたくなかった。
でも。
帰れば、あの男がいる。
その事実を、もう前みたいには否定できない。
真昼は鍵を差し込んだ。
その瞬間。
部屋の向こうで、小さく音がした。
コト。
真昼の手が止まる。
何かを置いたみたいな音。
静かな部屋の中で、妙にはっきり響いた。
真昼は息を止める。
いる。
分かっている。
なのに。
実際に生活音を聞くと、急に現実感が増す。
真昼はゆっくり鍵を回した。
ドアを開ける。
部屋は暗かった。
だが。
キッチンの方から、微かに光が漏れている。
真昼は動けなかった。
昨日までは、自分しかいない部屋だった。
今は違う。
中に、誰かいる。
それを理解した瞬間、急に逃げたくなる。
けれど。
数秒そうして立ち尽くしたあと。
真昼はゆっくり部屋へ入った。
「……ただいま」
無意識に言ってしまってから、真昼は固まる。
何を言ってるんだ。
自分で自分にぞっとする。
上は静かだった。
ただ。
少し遅れて。
ミシ。
小さく天井が鳴った。
返事みたいに。
真昼は顔をしかめ、靴を脱ぐ。
キッチンへ向かう。
シンクの横に、洗った食器が置かれていた。
今朝使った味噌汁の椀。
箸。
全部、水気を切って並べられている。
真昼はしばらく、それを見つめていた。
自分は洗わずに出た。
そのはずだった。
なのに。
きれいになっている。
生活が勝手に進んでいる。
自分がいない間にも。
「……やめてください」
小さく言う。
返事はない。
真昼は冷蔵庫を開けた。
中には、朝の残りの食パン。
牛乳。
見慣れない位置に整頓された調味料。
その全部に、“誰かが触った痕跡”がある。
気持ち悪い。
なのに。
少しだけ、部屋がちゃんとして見える。
真昼は冷蔵庫の扉を閉めた。
その時。
上から、小さく声。
「……雨、強かったので」
真昼は肩を震わせる。
低い声。
静かな言い方。
まるで、本当に同居人みたいな。
「……何がですか」
「洗濯物、中入れました」
真昼は固まった。
ベランダを見る。
日曜日から干したままだった洗濯物が、部屋の中へ移されていた。
きれいに。
ハンガーごと。
真昼はしばらく動けなかった。
窓の外では、雨音が続いている。
静かな部屋。
天井裏の男。
取り込まれた洗濯物。
全部が、少しずつ普通になり始めている気がした。
それが、たまらなく怖かった。
真昼は取り込まれた洗濯物を見つめたまま、しばらく動けなかった。
白いブラウス。
部屋着。
タオル。
全部、自分が干したものだった。
ハンガーの向きまで揃っている。
真昼はゆっくり視線を落とした。
床に水滴はない。
つまり。
かなり早い段階で取り込んでいる。
雨が降り始めた瞬間を見ていたみたいに。
真昼は背筋をさすった。
見られている。
生活を。
時間を。
行動を。
静かに。
ずっと。
「……だからって、普通入らないでしょう」
なるべく低く言う。
怒ったつもりだった。
だが声に力がない。
上は少し静かだった。
それから。
「濡れるので」
真昼は思わず目を閉じた。
会話が噛み合わない。
でも。
三浦の中では、本当にそれが理由なのだと分かってしまう。
洗濯物が濡れる。
だから入れる。
そこに罪悪感より“生活”が先に来ている。
真昼はソファ代わりのベッドへ腰を下ろした。
疲れていた。
仕事じゃなく。
この会話に。
普通じゃない相手と、普通みたいなやり取りをしていることに。
窓の外で雨音が強くなる。
部屋は薄暗い。
キッチンの小さな照明だけが点いている。
真昼は後頭部で雑に束ねられた髪を解いた。
その時。
上から、小さく音。
コツ。
真昼は反射的に天井を見上げる。
少し間。
「……今日、遅かったので」
「……は?」
「残業かと」
真昼は固まった。
帰宅時間まで見られている。
当たり前のことなのに、改めて言葉にされると気味が悪い。
「待ってください」
真昼は立ち上がった。
「ずっと見てるんですか」
沈黙。
上で、小さく床板が鳴る。
ミシ。
「……音がするので」
静かな返答。
真昼は言葉を失った。
確かに、この部屋は古い。
廊下を歩くだけで床が鳴る。
鍵を回す音も響く。
生活音なんて隠しようがない。
でも。
その“生活音”を、誰かがずっと聞いている。
その事実が重い。
真昼は額を押さえた。
「……おかしいですよ」
掠れた声。
「こんなの」
返事はない。
ただ。
上から、小さく咳が聞こえる。
ゴホ。
湿った咳。
真昼は眉を寄せた。
まただ。
昨日からずっと咳をしている。
放っておけばいい。
そう思う。
なのに。
「……病院、行った方がいいんじゃないですか」
口から出てしまう。
言った瞬間、真昼は後悔した。
何を心配しているんだ。
天井裏の男を。
上はしばらく静かだった。
それから。
「……保険証ないので」
真昼は黙り込んだ。
雨音だけが続く。
静かな部屋。
天井裏。
低い声。
その全部が、少しずつ日常へ入り込んでくる。
真昼はゆっくりソファへ座り直した。
帰宅したばかりなのに、もうひどく疲れていた。
真昼はソファ代わりのベッドへ深く座り込んだ。
スプリングが小さく軋む。
雨音。
冷蔵庫の駆動音。
上から聞こえる、微かな気配。
全部が静かに混ざっている。
真昼はカーディガンを脱ぎ捨てた。
今日は管理会社へ電話するつもりだった。
本当に。
朝までは、そのつもりだった。
なのに今、自分は。
天井裏の男と普通に会話している。
病院を勧めている。
それが信じられなかった。
「……なんで、そこに住めるんですか」
真昼はぼんやり天井を見たまま言った。
少し間。
「前から、使ってたので」
「使ってた……?」
「点検の人とか、入るので」
真昼は眉を寄せた。
点検口。
換気口。
梁の隙間。
そういう構造を、三浦は全部把握しているのだろう。
天井裏を“空間”として認識している。
住居みたいに。
真昼は背筋に嫌なものを感じた。
「……他の部屋にも?」
沈黙。
その沈黙だけで、聞かなければよかったと思う。
「前は」
低い声。
「今は、ここだけです」
真昼は口を閉じた。
ここだけ。
つまり。
自分の部屋を選んでいる。
雨音が少し強くなる。
窓ガラスに水滴が流れる。
真昼は視線を落とした。
「……なんで、ここなんですか」
今度は長い沈黙だった。
上で、小さく床板が鳴る。
ミシ。
答えたくないのかもしれない。
そう思った頃。
「静かなので」
真昼は顔をしかめた。
「他の人、うるさいので」
それは少し分かる気がした。
隣室の大学生は深夜まで通話しているし、一階の住人はテレビの音が大きい。
二〇三号室だけが静かだった。
真昼が、一人で暮らしているから。
「……それだけですか」
思わず聞く。
上はまた静かになる。
雨音。
換気扇。
冷蔵庫。
その全部の隙間に、三浦の沈黙がある。
やがて。
「……ちゃんと寝てなかったので」
真昼は動きを止めた。
「夜、ずっと起きてる日あったので」
思い出す。
転勤直後。
眠れなくて、朝までスマホを見ていた日。
床に座ったまま、ぼーっとしていた夜。
コンビニ弁当の空を放置して寝たこと。
全部。
見られていた。
真昼はゆっくり顔を覆った。
「……普通、通報するでしょう」
掠れた声。
「そんなの見てたら」
少し間。
「……しました」
真昼は顔を上げた。
「え」
「前」
低い声。
「別の人は」
真昼は息を止める。
別の人。
この部屋の前の住人か。
あるいは別の部屋か。
三浦は静かに続ける。
「警察、来たので」
真昼の喉が乾く。
「……それで」
「見つからなかったので」
真昼は何も言えなかった。
天井裏。
点検口。
古い木造。
全部が急に現実味を持つ。
三浦は、初めてじゃない。
この生活を。
この潜み方を。
知っている。
真昼はゆっくり天井を見上げた。
そこに人がいる。
静かに。
長い時間をかけて。
他人の生活の上に。
真昼は天井を見上げたまま、しばらく言葉を失っていた。
警察が来た。
それでも見つからなかった。
つまり三浦は、本当に長い間こうして生きてきたのだ。
天井裏で。
他人の生活の上で。
真昼は背筋に薄い寒気を感じた。
「……ずっと、そんなことしてるんですか」
自分でも、責めているのか確認しているのか分からない声だった。
上は少し静かだった。
それから。
「……静かな所、少ないので」
真昼は眉を寄せた。
噛み合わない。
でも。
三浦の中では、多分ちゃんと繋がっている。
静かな場所を探して。
見つからなくて。
天井裏へ入って。
出られなくなった。
そういう人生なのかもしれない。
真昼はそこで、ふと思う。
三浦は今、何歳なんだろう。
どんな顔なんだろう。
家族は。
仕事は。
どうして保険証がないんだろう。
そこまで考えて、真昼は自分でぞっとした。
知ろうとしている。
天井裏の男を。
人として。
その時。
上で、小さく咳が鳴った。
ゴホ。
湿った咳。
真昼は顔をしかめる。
「……ほんとに病院行った方がいいですよ」
言ってから、また後悔する。
何を普通に会話しているんだ。
上は少し沈黙していた。
やがて。
「……迷惑でしたら、出ますので」
真昼は動きを止めた。
低い声。
静かな言い方。
責める感じはない。
本当に、“嫌なら出ていく”と言っているみたいに。
その言葉に。
真昼の胸の奥が、少しだけざわつく。
いなくなる。
その想像をした瞬間。
部屋が急に静かになる感覚があった。
真昼は眉を寄せる。
違う。
何を考えている。
怖い相手だ。
今すぐ管理会社へ言うべきだ。
なのに。
天井の上から気配が消えることを想像すると、妙な落ち着かなさがあった。
真昼は強く目を閉じる。
「……そういう問題じゃないです」
掠れた声。
「普通じゃないでしょう」
上は静かだった。
少しして。
「……はい」
小さな返事。
その声だけが、妙に疲れて聞こえた。
真昼はソファへ深く沈み込む。
雨音が続いている。
部屋は静かだった。
静かなまま。
少しずつ、境界だけが曖昧になっていく。
その時。
ふいに、玄関のチャイムが鳴った。
ピンポーン。
真昼の体が跳ねる。
上も、一瞬で静かになる。
空気が変わった。
真昼は固まったまま玄関を見る。
こんな時間に。
もう一度。
ピンポーン。
真昼は立ち上がった。
その瞬間。
上から、小さく音。
コツ。
今までとは違う。
どこか緊張したみたいな音だった。
チャイムが、もう一度鳴った。
ピンポーン。
真昼は玄関を見つめたまま動けなかった。
上は静かだ。
さっきまであった気配が、一瞬で消えている。
息を潜めているみたいに。
真昼はゆっくり立ち上がった。
玄関へ向かう。
足音がやけに響く。
ドアスコープを覗く。
管理会社の人間だった。
四十代くらいの男。
作業着。
見覚えがある。
入居時に鍵を渡してきた担当者だ。
真昼は一瞬、喉が詰まる。
今なら言える。
天井裏に人がいる。
部屋へ入っている。
全部。
今、この瞬間。
なのに。
真昼はすぐにドアを開けられなかった。
背中の向こうに、気配を感じる。
実際には上にいるだけなのに。
部屋の中へ、“誰か”がいる感覚。
チャイム。
三回目。
真昼は意を決して鍵を開けた。
「……はい」
「あー、すみません。夜分」
管理会社の男は軽く頭を下げた。
「下の部屋から、水漏れっぽいって連絡来てまして」
真昼は固まった。
「水漏れ……?」
「ちょっと天井確認させてもらっていいです?」
その瞬間。
上で、ごく小さく音がした。
ミシ。
真昼の心臓が跳ねる。
管理会社の男は気づいていない。
当然だ。
古い建物の軋みくらいにしか聞こえない。
だが真昼だけは分かる。
三浦がいる。
真上に。
「……あ、いや」
言葉が詰まる。
今、点検されたら。
点検口を開けられたら。
全部終わる。
正常へ戻れる。
そのはずなのに。
真昼の胃が重くなる。
管理会社の男は少し不思議そうな顔をした。
「すぐ終わりますんで」
「……散らかってて」
「大丈夫ですよ」
真昼は振り返る。
静かな部屋。
洗濯物。
味噌汁の匂い。
天井。
もし今、三浦が見つかったら。
警察。
事情聴取。
引っ越し。
全部が一気に現実になる。
その想像だけで、急に息苦しくなった。
真昼は気づく。
怖いのは三浦だけじゃない。
この生活が壊れることも、少し怖くなっている。
「……すみません、今ちょっと」
自分でも驚くほど自然に、言葉が出た。
「熱あって」
管理会社の男は「あー」と困った顔をする。
「じゃあまた明日とかでも」
「……お願いします」
沈黙。
雨音。
数秒後、管理会社の男は軽く頭を下げた。
「じゃ、また連絡します」
足音が遠ざかっていく。
階段を下りる音。
やがて静かになる。
真昼はドアを閉めたまま動けなかった。
手が震えている。
今。
自分は隠した。
三浦を。
自分の意思で。
その事実が、ゆっくり胸の奥へ沈んでいく。
静かな沈黙。
それから。
上で、小さく床板が鳴った。
ミシ。
まるで、安堵したみたいに。
真昼は玄関に背を預けたまま、ゆっくり息を吐いた。
鼓動がうるさい。
手の震えが止まらない。
管理会社を追い返した。
自分から。
三浦を庇ったわけじゃない。
そう思おうとする。
ただ。
突然知らない人間を部屋へ入れることが、怖かっただけだ。
きっとそうだ。
真昼は顔を覆う。
雨音だけが部屋に響いている。
その静けさの中で。
上から、小さく声。
「……すみません」
真昼は目を閉じた。
低い声。
静かな謝罪。
怒鳴りたかった。
お前のせいだろ、と。
普通の生活を壊したのは、お前だろ、と。
なのに。
言葉が出てこない。
「……なんで謝るんですか」
掠れた声。
上は少し黙った。
「迷惑かけたので」
真昼は小さく笑いそうになる。
今さらだ。
迷惑なんて段階じゃない。
なのに三浦は、本当に申し訳なく思っているみたいな声を出す。
そこが気持ち悪い。
真昼はゆっくりベッドへ戻った。
座る。
部屋は暖かい。
味噌汁の匂いがまだ少し残っている。
「……見つかったら、どうするつもりだったんですか」
沈黙。
上で、小さく布が擦れる音。
「……出ます」
静かな返事。
「警察とか」
「慣れてるので」
真昼は顔をしかめた。
慣れてる。
その言葉の重さが嫌だった。
三浦の人生には、多分こういう夜が何度もあった。
見つかりそうになって。
逃げて。
別の場所へ行って。
また天井裏へ入る。
そうやって生きてきた。
真昼は天井を見上げる。
「……普通に住めばいいじゃないですか」
言ってから、自分で馬鹿みたいだと思った。
普通に住めないから、こうなっているのだ。
上はしばらく静かだった。
やがて。
「難しいので」
短い返事。
真昼はそれ以上聞かなかった。
聞けば、多分。
少し理解できてしまう。
それが嫌だった。
雨音が少し弱くなる。
部屋が静かになる。
静かなまま。
真昼はふと気づく。
管理会社の男が来た瞬間。
三浦は一切動かなかった。
物音ひとつ立てず。
息を殺すみたいに。
その静けさを思い出すと、背筋が冷える。
本当に、長くこうして生きてきた人間なんだ。
真昼はゆっくり横になった。
疲れていた。
何も考えたくない。
でも。
天井の上に人がいるという現実だけが、眠ろうとすると頭へ浮かんでくる。
少しして。
上で、小さく音がした。
コツ。
真昼は目を開ける。
「……何ですか」
数秒の沈黙。
それから。
「……ありがとうございます」
真昼は固まった。
低い声。
小さい。
本当に、小さな声だった。
真昼は何も返せなかった。
管理会社を追い返したこと。
それを三浦は、“助けた”と認識している。
その事実が、じわじわ胃の奥を冷やしていく。
なのに。
完全には否定できない自分もいる。
真昼は布団を頭まで被った。
雨音。
冷蔵庫。
天井裏の気配。
全部が少しずつ、“いつもの音”になり始めていた。




